第八章
翌朝。直巳と伊武は、朝の7時に目を覚ました。
学校は休みを取っているのだが、だらだらするわけにもいかないので、7時に起きることにしていた。まあ、眠くなったら昼寝すればいいと、直巳は甘く考えているのだが。
起きて顔を洗い、髪を整えて服を着替える。直巳は伊武の着替えを見ないように、浴室に服を持ち込んで着替えた。伊武が気にしないので、直巳が気にする必要がある。
それから、昨日買ってきたパンと缶詰、それからインスタントのスープで簡単な朝食を済ませると、インスタントコーヒーをすすった。
そして、今日のスケジュールをどうするか、2人で話し合う。
伊武は神社内の調査と警戒を。直巳は神社の関係者に聞き込みをすることにした。特に知りたいのは、境内にある、あの高い壁の向こうに何があるのか、ということ。天使教会は、そこを狙っていた可能性がある。
それからほどなくして、直巳は伊武と一緒に部屋を出た。
「それじゃあ……行って……くる……ね」
伊武は長い薄手のコートをひるがえしながら、境内の方へと歩いていく。
直巳は聞き込みをしようと羽奈美家に向かうことにした。令と菜子は学校へ行っているだろうから、夏恵がいればいいのだが。
直巳が羽奈美家の玄関前に行くと、中年の女性が家の前を掃除していた。直巳の顔を見ると、会釈をしてくれた。夏恵から、直巳のことは聞いているのかもしれない。
ちょうどいいので、夏恵が家にいるかどうかを彼女に聞いてみることにする。
「おはようございます。あの、夏恵さんはいますかね?」
直巳が話しかけると、女性は困ったような顔をして答えた。
「あら……夏恵さん、今日は朝早くから出かけていますよ。何でも、お祭りの準備で色々と人に会わなきゃいけないとかで」
なるほど。たしかに、祭りの前のこの時期、当主である夏恵は忙しいのだろう。
「そうでしたか。いつごろ戻りますかね?」
「私はただの家政婦ですので、詳しいことは……ああ、お嬢様なら知っているかも」
「お嬢様って、令さんのことですか?」
「ええ。よかったらお呼びしましょうか?」
「え? 呼ぶって……令さんをですか?」
彼女の言葉を聞き、直巳は驚いて腕時計を見る。普通なら学校に行っている時間だ。
直巳が驚いた様子でたずねると、家政婦は近付いてきて、声を潜めて答えた。
「ええ、今日は学校をお休みになると……ほら、昨晩、あんなことがあったでしょう? お疲れになっているようですし、何かあってもいけないですし……」
「なるほど。それもそうですね。では、呼んでいただけますか」
「いいですよ。ちょっとお待ちくださいね」
そういうと、家政婦は家の中へと入っていった。その後ろ姿を見ながら、直巳は苦笑する。夏恵のスケジュールをばらして、令を簡単に呼び出すとは。彼女はちょっと、口が軽すぎる。警戒心が薄すぎる。まあ、おかげで直巳は助かったのだが。
少しして家政婦が家の中から戻ってきた。1人だ。令の姿はない。
「ごめんなさいね。ご気分が優れないそうで……」
家政婦が申し訳なさそうに言う。まあ、令に好かれているわけでもないし、仕方ないかなと思う。部屋に押しかけようかとも思ったが、先のことを考えると得策ではない。
「そうですか。では、大事な話があるので、気分が良くなったら来てくださいと伝えてもらえますか? 僕はしばらく、神社の入り口辺りにいますから」
直巳が伝言を頼むと、家政婦は心良く引き受けてくれた。軽く頭を下げて、羽奈美家の前を立ち去る。
家政婦は何やら楽しそうな様子で直巳をちらちらと見ながら、再び家の中へと入っていった。何か、勘違いをしているのかもしれない。
直巳は羽奈美家の前から参道に出て、そのまま神社の入り口へと移動する。神社の前にある店で飲み物でも買って、令を待つつもりだった。それに、もしかしたら夏恵が帰ってくるかもしれない。入り口付近にいれば、見逃すこともないだろう。
直巳が神社の入り口にある長い石段をくだっていると、下に誰かがいるのが見えた。
大きなカメラを構えて、辺りの写真を撮っている。通行人ではないだろうが、祭りを見に来た観光客というには、来るのが早すぎる。
不審に思った直巳が近付いて、その人物を観察してみる。
野暮ったい黒のニット帽に、地味でやたらモコモコしている、これまた黒いダウンジャケット。背中には、大きさだけが取り柄のような、味気無いリュックを背負っていた。
そんな格好をしていたのでわかりにくかったのだが、女性のようだ。
直巳が手を伸ばせば届くぐらいの距離にいるのだが、彼女は撮影に夢中になっており、直巳には気づかない。
「桜……やっぱり桜が多いですねえ……花鳥の花はやっぱり桜ですかねぇ。じゃあ鳥は何だろう? 昔からいて、桜と一緒に絵になる鳥……なんでしょうねぇ、うふふっ」
何が楽しいのか、そんな独り言をつぶやきはじめた。直巳はちょっと怖いなと思い、声をかけるのをためらっていると、彼女はカメラを振って、直巳の方にレンズを向けた。
「――うわっ!」
突然、レンズにアップの直巳がうつったので、彼女は驚いた声をあげて、カメラを手放した。首にぶらさげたストラップがなかったら、地面に落ちていただろう。
「……どうも」
直巳が疑わしげな目で見つめながら声をかけると、女性もペコペコと頭を下げた。
「ど、どうもどうも……い、いやあ……ビックリ……ビックリしましたよ……うふひっ」
女性は妙な笑い声をあげながら、ぎこちなく挨拶を返してくる。人と話すのが苦手なのだろうか。笑顔もぎこちない。
直巳が、おおげさに頭をかいている女性の顔を見てみる。カメラを構えていたので気づかなかったが、細いフレームの眼鏡をかけていた。化粧っ気のない、地味な顔。だが、ちょっと見ないぐらいに顔が小さい。元はいい、というやつだろうか。
とりあえず逃げようともしないし、凶暴そうなこともない。直巳はとりあえず安心をして、彼女と話をしてみることにした。
「あの、何をしていたんですか?」
直巳がたずねると、女性はおおげさな身振りを交えて話し出した。
「ええ、あの、ちょっと、この辺りの写真をですね。いや、怪しいものではなくて、この神社の植物を調べていたんですよ。樹齢とか植生を調べて、周囲と比較しようと思いまして。そうすれば、この神社がどれくらいの年月、周りから隔絶されていたかが――」
そこまで話して、女性は話も動きもピタリと止めた。
そして、直巳の顔をまじまじと見つめる。
「おや? おやおや。なんだ、そうだったんですかー。言ってくださいよもうー」
突然、女性は馴れ馴れしい態度になって、直巳の肩をポンポンと叩く。
直巳は、この人気持ち悪いなと思いながらも、どういう意味での発言か気になったので、好きにさせることにした。
「まあまあ、ここで立ち話もなんですし。コーヒーでも飲みましょうよ。ご馳走しますよ」
そう言って、彼女は直巳の手を引いて道路を渡り、コンビニ風の個人商店に入っていった。
「どれにしますか?」
店に入ると、彼女はレジ前にある温かい飲み物を指差して聞いてきた。
「えっと……じゃあ、ブラックコーヒーを」
「ああ、もう。若い人はすぐそうやって砂糖を避ける。砂糖はそんなに太りませんよ。気を付けるべきは脂肪分です。糖分は悪くありません」
そういって、直巳が選んだのとはぜんぜん違うコーヒーを2本、レジに出した。
「これをください。ああ、ここは私が」
そういって、ポケットから直接小銭を出し、店のおばちゃんに支払った。
「じゃ、表のベンチで飲みましょうか」
外に出て、2人は店の前にある古びた木のベンチに座る。女性にコーヒーを渡される。ブラック無糖どころか、砂糖とミルクたっぷりのベタベタに甘いコーヒーだった。脂肪分に気を付けるという話はどこにいったのだろうか。
「いやあ、冬はこの外で飲むコーヒーが良いですよね。値段、糖分、温かさ、カフェイン。こんなコストパフォーマンスが良いものはない。そしてこれを楽しむのはやはり、冬の屋外が一番いいというね。ささ、どうぞどうぞ」
またもおおげさな身振りで直巳にコーヒーをすすめてくる。直巳は言われるがままに、缶コーヒーを開けて一口飲んだ。脳が灼けるほど甘い。
「いやあ、お祭り楽しみですねえ。巫女様のお神楽は、それはそれは綺麗だとね。聞いておりますよ。巫女様は普通にしててもお綺麗ですしねえ」
女性は一方的に話して、コーヒーをぐいぐい飲む。熱くないのだろうか。
「入り口は結構撮ったんで、これから参道と境内の方も撮ろうと思うんですよ。できれば巫女さんも撮りたいんですが……おっと、今はそういうの、うるさいんですかね? やましい目的じゃないし、ネットに上げたりもしないんですけどね」
直巳は女性の言うことを、黙って聞いていた。
その間、常に1つの疑問が頭の中を埋め尽くしている。
こいつ――誰だ?
どうやら直巳のことを知っているようだが、まったく記憶にない。年上だと思うが、家から離れたこの土地で、年上の女性? 面識がある? 神社の人間か――いや、そんなはずはない。話の内容からして部外者だろう。
直巳が誰だか思い出せずに女性のことを見つめていると、向こうも直巳の視線に気づいた。
「――あれ? もしかして、その目は……私のこと、わかりませんか?」
「ええ、ぜんぜん」
直巳が真顔で答えると、女性は、「あいたー」と言っておでこを叩いた。どうしてこう、さっきから身振りや口調が大げさで痛々しいのだろうか。
「そうならそうと言ってくれないと。私、こういうものです」
女性は懐から名刺入れを取り出し、直巳に渡した。
「はあ……どうも……」
直巳が気の無い返事をして受け取り、名刺を見てみると、そこにはこう書いてあった。
天使教会 辺境伝道師 アキコ=ユミコ
直巳は驚きのあまり、声も出せなかった。
アキコは驚いた直巳の顔を見ながら、にこにこと微笑んでいた。
アキコ=ユミコ――昨晩、神社に現われて、夏恵と話をしていた天使教会の人間だ。
夜なのではっきり顔は見えなかったし、態度も話し方もぜんぜん違うので気づかなかった。
直巳が呆然とアキコの顔を見つめていると、彼女はにこりと微笑んだ。
「あなた、昨晩、現場にいましたよね? あの応急処置をしてくれた大きなお嬢さんと一緒にいた子ですよ、うん。私、人の顔を覚えるの得意なんです」
直巳は名刺を見つめたまま、何も答えなかった。もう驚きはおさまったが、アキコが慣れ慣れしく話しかけてきた意図がわからないので、答えようがないのだ。
「あ、名前はあれです。天使教会で活動する時の名前というか。本名出すと、色々面倒くさいんで。ほら、こういう仕事してると恨みも買いやすいでしょう? 一応、すぐに偽名だとわかるような名前にしてるんですけど、余計に怪しいですよねえ」
アキコは笑いながら言うが、直巳はまだ口を開かない。適切な言葉が見つからない。
黙り込んでいる直巳を見ると、アキコは少し悲しそうな表情をした。
「警戒してますよねえ……まあ、そうですよねえ……でも、実はこっちが本業でして」
そういうと、アキコはもう一枚の名刺を渡してきた。
直巳は黙って受け取り、その名刺を見てみる。
民俗学研究者・ライター アキコ
「……民俗学研究者?」
ようやく直巳が口を開くと、アキコは少し安心したようだった。
「ええ。各地の民話とか言い伝えとか、そういうのを調べたり、記事を書いたりしているんです。まあ、ほとんど趣味ですし、元々の需要も少ないので、ぜんぜん売れてないんですけど」
そういって、恥ずかしそうに頭をかく。
「その、民俗学に詳しいということで、天使教会にスカウトされたんですよ。彼らからすれば異端、というやつですか? そういうのに詳しいから、情報収集と説得をしろと。まあ、食ってくためには仕方ないんです」
アキコは意外なほどに明るく、そんなことを言った。
直巳が名刺をポケットにしまおうとすると、2枚ともアキコに取られてしまった。
「すいませんね。あまり、配り歩くようなものでもないので。それに、あなたもこんな名刺が見つかったら面倒なことになるでしょう? 天使教会の人間と通じているー、なんて思われたら、大変ですよー」
たしかに、花鳥神社と天使教会は敵対していると言って良い。天使教会の名刺を持っていたら、余計な疑いをかけられるだけだ。
そういう考えはできるようだ。別に、イカれているわけでもないらしい。
しかし、なら。この態度はなんだ。直巳が神社の関係者だと知っていて、どうしてこんなに慣れ慣れしい態度で接してくるのか。
「あの……言いにくいんですけど……どうして……」
「どうして、敵対している天使教会が、そんな親しげに話しかけてくるのか、ですよね」
直巳の疑問はわかっている、とでも言いたげに、アキコは言葉をかぶせてきた。
「私はね。別に、この神社を潰そうとしているわけじゃないんですよ。神社も花鳥様も残った方がいい。もちろん、お祭りもね――意外そうな顔してますね」
「そりゃ……言っちゃなんですけど、天使教会が異端を許すとは……」
「許さなければ、どうしますか? 軍隊でも編成して占領しますか? この時代に? 花鳥様の迷信が邪魔だから、という理由で? それは、おかしいでしょう」
「……そうですね。あなたの言うとおりだと思います」
直巳が賛同すると、アキコは嬉しそうに笑った。
「よかった。君が話のわかる人で――ねえ、君と、あの大きなお嬢さんは、この神社の人間じゃないでしょう?」
直巳は返事をするまで、一瞬だけ間を取った。その間に、会話のシミュレートをしてみる。嘘をつく、素直に答える、答えない。彼女のこれまでの発言、自分の状況。それらを考えて、どうするのが一番良いか――。
「ええ。お祭りの準備を手伝いにきたんです。知り合いに行ってこいと言われまして」
質問には答えることにした。最低限だ。余計なことまで言う必要はない。
「ですよね。これまで見ない顔でしたから。ほら、私、顔を覚えるの得意ですからうふぃっ」
アキコは気持ち悪い笑い声をあげて自慢気に言う。直巳はそれにあわせて笑った。
素直に答えてよかった。妙な嘘をついたら、余計に怪しまれるところだった。
直巳はこの時点で、部外者の、何も知らない学生を装うことに決めた。
「なんか、神社と天使教会が揉めてるみたいな話を聞きましたけど、アキコさんの言うとおりなら、そんなに揉める必要もないんじゃないですか?」
直巳はとぼけた態度で探りを入れてみることにした。ここまできたら、誤魔化して逃げるのではなく、情報を得てやろうと考えを切り替えたのだ。
直巳が質問をすると、アキコは困った表情をした。
「いや、それがですねぇ。昔から天使教会の別の人間が、ずっと威圧的な態度で神社に迫ってまして。それで関係がこじれてるんですよねえ……あと、昨日の事件があったでしょう?」
直巳は素直にうなずいた。現場にいたのを見られているので、とぼけるわけにもいかない。
「あれを放置すると、私を飛び越えて天使教会の上の方が出てきてしまいますから……強制調査、という形にしたんですよ。そうすれば、天使教会のガス抜きもできる。花鳥神社のサポートもできる。ま、私は嫌われ者ですが」
そういって、アキコはアハハと笑う。
どうも、アキコは自分が中立だと言いたいらしい。たしかに、アキコが調査の受け入れを勝ち取ったということにすれば、天使教会も進捗ありと判断して様子をみるだろう。
しかし、それは花鳥神社への圧力を止めるだけにすぎない。
「……あの、こう言ったらなんですけど。花鳥神社は、天使教会が口を出さなければ、そのままお祭りができるんじゃないですか? 花鳥神社のサポートって言いましたけど、何か必要があるんですか?」
直巳が思いきってたずねる。
そもそも、アキコが花鳥神社の存続を願っているなら、天使教会が介入しなければ良いだけではないのか。強制調査までして、花鳥神社に何の得があるというのか。
アキコは直巳の質問を聞くと、直巳をビシっと指差して答えた。
「そう。それです。それをお話したかったのです。花鳥神社の人間ではない君に」
「……どういうことですか?」
「はっきり言います。花鳥神社には、何か邪悪なものがいるんです。花鳥様がどんなものかは知りません。もし、本当にいたとして、邪悪な存在のわけがない」
邪悪なもの――昨日、アキコが夏恵と話している時にも出てきた言葉だ。
「その……悪霊みたいなのがいるってことですか?」
「悪霊……そう。そういう言い方もできますね。いやあ、勘のいい子ですね君は」
直巳は昨日聞いたので言ってみただけなのだが、アキコは感心したようにうなずいた。
「信じられないかもしれませんが、いるんですよ。そんなものがいる状態で祭りをやったら、どうなるかわからない。もし、祭りの最中に妙な事故でも起こったら、それこそ天使教会は、そこをついて神社を非難してくるでしょう。お前達は悪霊を祀っているのかと。それを避けるために、調査と対策が必要なのです」
「妙な事故、ですか。たとえば――昨日の夜の――」
直巳の脳裏に、昨晩の事故現場が思い浮かぶ。そして、アキコと伊武の言っていた、「猛獣にやられたような」被害者の傷の話。
直巳の言葉に、アキコは神妙な表情でうなずいた。
「かも、しれません。それを調べる必要があります」
アキコは本気らしい。本気で、花鳥神社に悪霊がいると思っているのだ。
「花鳥神社には、悪霊がいる。それを何とかしないと祭りが危ない。だからアキコさんは、天使教会として、強制的に駆除をする――花鳥神社のために――そういうことですか」
直巳が確認をすると、アキコは少し照れたようにうなずいた。
「まあ、そういうと格好良すぎますけどね。もちろん、天使教会にもメリットがあるんですよ」
「それは、どういう?」
「祭りをきちんと行った。それでも、天使禁制は存在しない――それを証明したいんですよ。天使禁制が存在しないことを証明できれば、天使教会は花鳥神社に興味を失いますから」
「ああ、なるほど……もし、天使教会が祭りを無理矢理に潰したとしたら、迷信はより根強くなるかもしれない、ということですか」
「うん、やっぱり君は賢いですね」
直巳の推理に、アキコは小さく拍手をした。
「天使教会が、花鳥神社の天使禁制を恐れて祭りを潰した――そんな噂が広がったら、否定ができないんですよ。祭りをやれば天使禁制が甦る、って話にもなりかねません。こうなってしまえばもう、違うという証明ができませんから」
そこまで言うと、アキコは少し寂しそうな顔をしてうつむいた。
「迷信が消えるのは寂しいですが――それでも、神社と花鳥様は残るのならいい。民族学の研究者として、そう願っているんです」
アキコはそういうと、残ったコーヒーを飲み干した。
直巳は、うつむくアキコの顔を見ながら、彼女の話について考えた。
花鳥神社が天使教会に狙われているのは、天使禁制があるからだ。しかし、それが迷信だとはっきりすれば、天使教会は花鳥神社を狙う価値がなくなる。無理に神社を奪う必要もなくなるということだ。そのためには、花鳥祭りを無事に成功させる必要がある。花鳥祭が天使禁制とは無関係で、力のある儀式ではないと証明するためだ。
話の筋は通っている。たしかに、アキコの言う方法で花鳥神社は守れるかもしれない。
「――なるほど。アキコさんの話はよくわかりました」
直巳が言うと、アキコはにこりと笑う。
「俺にその話をしたのは、俺が神社の人間じゃないからですね」
「ええ、そのとおりです。神社の方にも何度かお話はしたんですが、受け入れてはもらえませんでしたよ。それはそうですよね。神社に邪悪なものがいるだとか、天使禁制も祭りも迷信だと証明するだなんて、侮辱にしかなりませんから――だから、強行するしかなかったんです」
昨晩、夏恵はアキコの話しを聞いて、「またそのお話ですか」と言っていた。アキコの言うように、すでに話しており、断っていたのだろう。
「でも、俺に話されても、どうしようもありませんよ。ただの手伝いの学生ですから」
「何かしてくれとは言いませんよ。ただ、神社側の人にも知っておいて欲しかったんです。君は巫女姉妹とも年が近いですから、機会があれば話してくれるかもしれませんしね」
「……期待しないでくださいよ。俺、令には嫌われてますから」
「うっふっ……あんな美人に嫌われるなんて、もったいないですね」
アキコはそういうと、立ち上がって近くのゴミ箱に空き缶を捨てた。
「もし、今度神社で私に会ったら、無視してくれていいですよ。私も冷たく当たるかもしれませんし。お互いに立場というものがありますからね」
「わかりました。それにしても、神社で見た時はずいぶん性格が違うんですね」
「あれは……ビジネスですから。無理してるんですよ」
アキコは困ったように頭をかきながら、そう答えた。
「それじゃ、私はこれで。長い時間付き合わせて、すいませんでしたね」
「いえ。面白い話が聞けました」
「こちらこそ。話せてよかったです。それでは――」
そう言って、アキコが立ち去ろうとした時だった。
「――何をしているの」
道路の向こう側、石段の下に、私服の令が立っていた。
令はそのまま、直巳達の方にツカツカと歩いてくる。
そして、令を見つめているアキコの前に立つと、彼女をキッと睨み付けた。
「天使教会」
アキコは令の視線にも動じず、笑顔を返した。
「そうですよ。以前、ご挨拶をした時以来ですね。巫女様」
「――消えろっ! 天使教会が!」
令が、喉も張り裂けんばかりの勢いで叫んだ。
あたりの空気が、まだ振動しているような大声だった。
「――今は帰りますよ。今晩から、調査に向かいますが」
アキコが冷たい声で言う。一瞬、昨晩の天使教会としてのアキコが顔を出した。
「ッ!」
令は、今にも噛みつかんばかりの勢いで歯がみをした。来るなと言っても無駄だ。それを言えば、令が惨めになるだけだ。
アキコは軽く頭を下げると、そのまま黙って去っていった。直巳の方をちらりとも見なかったのは、気を使ってだろうか。
令はそのまま、アキコの背中をずっと睨み続けていた。
その姿が見えなくなったところで、今度は直巳を睨み付ける。
「私に何か、用事があったんじゃないの? それで来てみたら……天使教会と仲良くお話?」
「い、いや……そういうわけじゃ……たまたま会っただけで……」
直巳が弁解すると、令は呆れたように溜め息を吐いた。
「――で? 聞きたかったことって?」
令は立ったまま、不機嫌そうに言った。一応、聞いてくれるらしい。
「えっと、じゃあ……境内に、高い壁で囲まれた一画があるだろ? 上に有刺鉄線まで張ってあるところ。参道にも面していて、あれは何かなって」
直巳が質問すると、令は直巳をしばらく無言で見つめてから、口を開いた。
「――お社よ。花鳥様の御神体が祀ってあるの」
「御神体……? それって、「花鳥ノ嘴」じゃなくて?」
「違うわよ。前に言わなかった? 今も御神体はあるって。あの壁の中にあるのが、この神社に伝わってきた御神体。むしろ、「花鳥ノ嘴」が突然出てきて驚いたのよ」
そういえば令は、最初に「花鳥ノ嘴」を見た時に、「他に御神体もあるし、それも特別な力を持っている」と言っていた。ならば、今は御神体が2つあるということか。
「じゃあ、前からある御神体っていうのは、どんなものなの?」
「――剣よ。長い剣」
「剣? 短刀じゃなくて?」
「ええ、そうよ。立派な剣――まあ、見たことがあるのは、私とお婆さまだけだけど。直系の巫女以外は、見ることも触ることも許されていないの」
「へえ……なら、夏恵さんが先代の巫女か……ああ、先々代になるのかな?」
「それは――まあ、そんなようなものよ」
何故だか、令は返事を濁した。夏恵は令の祖母だ。先代、または先々代の巫女であってもおかしくないだろう。それを令は、肯定しなかった。これでは、違いますと言っているようなものだ。
「とにかく、御神体はちゃんとあるの。「花鳥ノ嘴」のように不思議な力を持っていて――」
そこで1度言葉を区切ると、少し小さな声で言った。
「天使禁制だって――きちんと働いているわ。だから、偽物じゃない」
天使禁制の力を、はっきりとと認めた。そう言わないと、直巳に信じてもらえないと思ったのだろう。
「あの壁の向こう、御神体については、以上よ――他の人には絶対言わないで」
「わかった。絶対に言わない。約束する」
直巳が目を見ていうが、令は冷ややかな表情で、「そう」と言うだけだった。
「で? 聞きたいことって、それだけ?」
「ああ、今のところは。教えてくれてありがとう」
「じゃあ、今度はこっちが聞かせてもらう番ね」
「俺に……? いいけど……何を話せば……」
「天使教会と、何を話していたの?」
直巳を詰問するような、きつい言い方だった。
「あの天使教会の女と、何を仲良く話していたかって、聞いてるのよ」
令が一歩近付いてくる。有無を言わさない威圧感があった。
「えっと……天使教会の言い分……かな」
直巳は迷った挙げ句、そう返答した。要約すると、そうとしか言いようが無い。
「天使教会の言い分……? はっ! どうせ、邪悪なものがいるとか、そんなことでしょ?」
令は口にも出したくない、というような態度で、吐き捨てるように言った。
「そうだね……そう言ってたよ」
「またそんな――どうせ、あなたが部外者だから、聞くと思ったのでしょう」
「そうとも言ってたよ」
「それで――あなた、あいつの話を信じたの?」
令に問われると、直巳は、はっきりと首を横に振った。
「いや、信じてない」
これは事実だ。アキコの言う話は筋が通っている。非の打ち所が無い。ただし、ある一点を除いては――とても大事なことを除いては、だ。
直巳がアキコの話を信じていないというと、令は少し落ち着いたようだった。
「そう……今度から、あいつとは話もしないで。あいつの言うことは、全部嘘だから」
「わかった。そうする――そのために、今聞いてもいいかな。アキコの言うのが全部嘘だって、令に確認したいんだ」
「……何をバカなことを」
令は悪態をつくが、そのまま黙り込んだ。質問をしても良い、ということだろうか。
「令は、アキコの言うことが全部が嘘だと思ってるの?」
「当たり前でしょう」
「なら、この神社に天使禁制は存在すると」
「――それは、さっき言ったでしょう。ええ、あるわ。内緒だけどね」
「じゃあ、花鳥様は本当にいるの?」
「いるわ。あなたに信じてもらう必要はないけど」
「この神社に、邪悪なもの――悪霊がいるって話は?」
最後の質問をした瞬間、直巳は令にビンタをされた。
痺れる頬を押さえながら、令の顔を見る。
怒りではない。ただ、悲しそうな顔をしていた。
「そんな……そんなもの……いるわけ……ないでしょう?」
令は震える声でそう言った。
明らかに態度がおかしい――否定するのなら、前の質問と同じように、ただ否定すればいいのに。どうして、この質問にだけ、過剰な反応をするのか。
それは――何かがあるからだ。邪悪なもの、悪霊――令には、何か思い当たるものがいるというのか。
「令……俺は、俺は何かいると思う。たとえば、昨日の事件に関係している気がする」
直巳は心苦しかったが、あえて令を挑発するような質問をした。確信はない。ただ、かまをかけているだけだ。
パン、と。先ほどよりは弱いビンタを、もう一発頬に受ける。
「邪悪なんて……そんなわけ……ないでしょう……?」
令の目から、スッと涙がこぼれた。直巳は痛む心を押さえつけて、もう一押しした。
令の答え方が、どうしても引っ掛かったからだ。
「邪悪じゃないなら、何がいるんだ」
邪悪なんて、そんなわけがない――何もいないとは言っていないのだ。些細な言い間違いだろうか。揚げ足を取っているだけだろうか。それでも、はっきりさせないといけない。
直巳は立ち上がり、令の肩を掴んで、もう一度聞いた。
「令。邪悪じゃないなら、何がいるんだ」
殴られても嫌われても構わない。令が何かを知っているのなら、聞き出せるのなら。
「……ふっ……ふふっ」
令は笑った。涙をこぼしながら、空っぽの笑い声をあげた。
まるで、壊れてしまったかのように、小さな笑い声を上げ続ける。
その表情を見て、直巳はぞっとする。思わず、肩から手を離した。
令はクスクスと笑ったあと、笑顔のまま直巳に言った。
「花鳥神社には、花鳥様しかいないのよ」
そういうと、フラフラとした足取りで、神社へと戻っていった。
直巳はそのまま、去って行く令を見つめていることしかできなかった。
令の頭上を大きなカラスが旋回して、どこかへと飛んでいった。