第六章
夜になり、部屋にあった古い炊飯器で米を炊き、簡単な夕食を取ることにした。
ガスコンロもちゃんと動いてくれたので、直巳は野菜炒めを作った。調味料が揃ってないので簡単な味付けのものだったが、缶詰よりはマシだろう。
「椿君……この後……どうする……? 見回りとか……する?」
食事をしながら、伊武が話しかけてきた。
「そうだね。何があるかわからないし、しておこう」
「うん……わかった……ライト……とか……持ってきてる……から……」
伊武はそういって、自分のカバンを指差した。伊武が選んだものであれば、この暗い夜の神社でも役に立つだろう。
「いつも……なら……夜目が利くんだけど……ね……」
「ああ、そうか。天使の力が使えないしね」
伊武は魔力強化という能力で、身体能力から五感まで強化することができ、夜目を利かせることもできた。しかし、花鳥神社の天使禁制のせいで、それも使えない。
「ライト……は……椿君の……ため……に……持ってきたんだけど……私も……使わないと……駄目……だね……」
そういうと、伊武は少し肩を落としながら食事を続けた。
天使の力がなくても伊武は頼りになるのだが、本人としてはやはり落ち着かないのだろう。
そのまま、静かな食事が終わり、伊武が洗い物をはじめた。この後、様子を見て神社の見回りに行くことになっている。
直巳は携帯を取り出すと、経過報告をするため、グレモリイに電話をかけた。
「――直巳君? どうしたの?」
電話の向こうからグレモリイの声がした。1日も離れていないのだが、なんだか懐かしいような気がする。
「定期報告みたいなものかな。無事、神社に入れたよ。今のところ、何も起きてない」
「それは何よりね。こっちも特に問題なしよ。そういえば、さっきAからメールが飛んできたけど、「無事です」の一言だけだったわ。なんか、慌ただしいみたい」
直巳達は花鳥神社に、A達は海外に。ここまではっきりと2つに別れて行動するというのは初めてだった。お互い、グレモリイに無事だという報告をするだけ。その好き勝手にやる感じは自分達らしいなと、直巳はなんとなく思う。もしかしたら、今後はこういう動き方も増えていくのかもしれない。
「そっか……ま、無事ならいいよ。姉さんはどう? 元気?」
「元気だけど……ちょっと寂しそうね。ほら、一気に4人もいなくなっちゃったじゃない? だから、今夜はBも連れて私の部屋に泊めるつもり。寝る時に1人だと、余計に寂しいから」
グレモリイは、ただつばめの護衛をするだけでなく、こういった気づかいもしてくれる。直巳にとっては、それがとてもありがたかった。
「うん、ありがとう。そうしてあげて」
「ええ。フラウロスもいるから、護衛についても心配しないで」
豹の悪魔フラウロス。いつもは子供の豹の姿で、つばめの側にいる。無口なようで、必要がない限り、話しかけてくることはない。ちなみに、渋いおっさんの声で話す。
「ちなみに……Bは?」
「さっき、フラウロスの肉球に噛みついてぶっ飛ばされてたわ。無傷だったけど」
「ああ、そう……まあ……元気ならいいや」
「うん。こっちの心配はしなくていいから、神社のことに集中してちょうだい」
グレモリイも、直巳達の任務のことを、Aに何を依頼されているのかは知っているだろう。
「……ねえ、グレモリイは花鳥神社のこと知ってる? なんでAが御神体持ってたのか、とか」
「うーん……知らないんだよねぇ……そんな話、聞いたのも今回が初めてだし。直巳君と同じなんだ。フラウロスも一緒だと思う」
「そっか……わかった。それじゃ、何かあったら連絡して」
「はいはーい。希衣ちゃんと仲良くねー。ああいう子は、手を出す前に良く考えるのよー」
「あー……覚えておくよ……それじゃ」
グレモリイの余計な一言に溜め息をついて、直巳は電話を切る。
「……グレモリイ?」
洗い物を終えた伊武が、タオルで手を拭きながらたずねてくる。グレモリイの言葉を思い出し、直巳は慌てて目をそらした。
別に手を出そうとは思っていないが、数日間、この狭い部屋で、伊武と2人で寝泊まりするのだという事実が、急にのしかかってきた。
「あ、ああ……向こうは特に何もないって」
「……そう? ……なら……いいけど……」
伊武は動揺する直巳を見て、不思議そうな表情をした。なお、伊武は直巳に手を出そうとは思っていない。直巳がそれを望んでいないとわかるからだ。ただし、直巳の方から手を出してきた場合には、一切の容赦はしない。
「さ、さて! 見回りの準備でもしようか! えっと、そう! ライト、出してもらえる?」
直巳が考えを振り払うように、明るい声で言う。
「うん……わかった……」
伊武は直巳に言われたとおり、カバンから見回りに必要な道具を取り出して準備をした。
「よし、行こうか」
しっかりと防寒対策をし、ライトを持った直巳が言う。
部屋の時計を見ると、時刻は21時を回ったところだ。
「伊武も準備はできた?」
「うん……できてる……よ……」
伊武は冬だというのに、妙に薄着で動きやすい格好をしている。体温が高いらしく、それでもぜんぜん寒くないらしい。ちなみに、部屋にいるときは暖房もつけずにTシャツ1枚で過ごしている。
直巳達が部屋から外に出ようとした、その時だった。
「椿さん! 伊武さん!」
菜子が大声を出しながら、部屋のドアを乱暴に開けて飛び込んできた。息を切らしており、ただごとではない雰囲気を漂わせている。
「菜子、どうしたの?」
直巳が近寄ると、菜子は息を整えようともせず、切羽詰まった声で言った。
「神社の……神社の人達が……見回りをしてたんですけど……怪我……怪我人が……」
怪我という言葉に直巳が驚き、伊武と顔を見合わせた。伊武はうなずき、立ち上がる。
「怪我って、どうしたの? 事故? それとも、誰かにやられた?」
直巳がたずねると、菜子はふるふると大きく首を横に振った。
「わからないんです……ただ、連絡があって……だから、椿さん達も気をつけるように伝えてこいって……おばあちゃんが……」
「――菜子、怪我人はどこ? 場所はわかる?」
「え、ええ……境内の入り口近くだって……」
菜子がそう言った次の瞬間、直巳は伊武に視線を送る。伊武はうなずくと、無言で直巳と菜子の横を通り過ぎて、玄関から外に出る。
「え? 伊武さん? 駄目ですよ!? 何で外に――」
伊武は菜子の制止を無視して、ブーツの靴紐をしっかりしめると音も無く走り出していった。
「ちょ、ちょっと! 私、危ないから外に出るなって言いにきたんですよー!?」
「大丈夫、大丈夫だから。伊武なら心配いらないから」
「え、ええー……」
直巳は混乱する菜子を連れて外に出ると、羽奈美家まで送った。家の中は騒がしく、人があちらこちらを行き来している。
「人がたくさんいるから、ここなら大丈夫。菜子は外に出ちゃ駄目だよ」
「つ、椿さん? 椿さんまで!?」
「大丈夫だから! いい? 絶対、家から出ちゃ駄目だよ!?」
「わ、わかりました! 気を付けてくださいね!」
直巳は菜子に見送られながら、境内まで走った。
ものの数分で、直巳が境内の前に辿り着く。もう夜も遅いので、境内の門はしまっており、中には入れない。門から少し離れた場所に、人だかりが出来ていた。
直巳が人だかりを覗くと、そこには血まみれで倒れている若い男と、彼にたいして応急処置をしている伊武の姿があった。
「ちょっと、すいません」
直巳が人だかりをかきわけて、応急処置をする伊武の横に座り込んだ。そして、男の怪我の症状を見る。どうやら、右肩から腕にかけて、ひどい出血をしているようだった。血で汚れているため、はっきりと傷口は見えないが。
「伊武、どう?」
「うん……出血はひどいけど……すぐには……死なない……」
伊武はブーツからナイフを取り出すと、男の着ていた洋服を切り裂く。一通り患部を観察してから、いつも足に巻いているパラシュートコードを上手く使い、止血をした。
「うん……後は……病院に……連れていけば……助かる……かな」
淡々と言う伊武。直巳はほっと息を吐くと、周りで見ていた大人達に声をかけた。
「応急処置は終わりました。早く救急車を呼ぶか、車で最寄りの病院に運んでください」
直巳がそう言うが、彼らは顔を見合わせて何かを話し合い、動こうとしない。
「どうしたんですか! 早くしないと!」
直巳がしびれを切らして大声を出すと、1人の男が、我に帰ったようにうなずいた。
「あ、ああ……そうだな……おい! 車回せ! ワゴンあるだろ! 病院にも連絡だ!」
男がそう言うと、何人かが電話を片手に手配をはじめた。
これで、とりあえずは大丈夫だろう。直巳は、ほっと息を吐いた。
しかし、周りの大人達は、何やらざわざわしている。この状況で騒がしくなるのは当然なのだが、何か様子がおかしい。
「あの、どうしたんですか?」
直巳が指示を出した男に話しかけると、困ったような顔をして、倒れている男を指差した。
「ああ……その……この人は――誰なんだろうって」
その言葉に、直巳が硬直する。思わず伊武と顔を見合わせると、伊武の表情も緊張したものになった。
「――え? いや、見回りをしていた神社の人じゃ……ないんですか?」
直巳が驚いた様子でたずねるが、男は首を横に振った。
「いや、違うよ。見回りをしていたら、倒れているこの人を見つけたんだ。それで、本家……羽奈美家に連絡をいれたら、この大きな子が来て……」
直巳は神社の人間が襲われたのだと、勝手に思い込んでいた。
菜子の言葉を思い出す――そういえば、菜子は神社の人間が怪我をしたとは、一言も言っていない。見回りの人が、怪我人を見つけたと、それしか言っていなかった。
この倒れている男は、間違いなく神社の人間ではないらしい。
ならば部外者か――部外者が、どうして夜の神社に? どうして血まみれに?
これは面倒な話になるかもしれないなと、直巳は顔をしかめた。
それからすぐに、羽奈美家の方から車の走ってくる音が聞こえた。大きな白いバン。これならば怪我人を寝かせて運ぶこともできるだろう。
伊武が怪我人を抱えて、バンに乗せようとする。
その時だった。
「何をしているんですか!」
参道の入り口の方向から女性の大きな声が聞こえ、強いライトが直巳達を照らした。
そして、数人が直巳達の元へと駆け寄ってくる。
神社の人間達は動揺している。伊武は患者を地面に置いて、警戒態勢に入った。
ほどなくして、彼らが直巳達の前に立ちはだかる。
全員、同じ服を着ている。白っぽい、きちっとした制服のような――それは、どこかで見たような――。
その中から、1人の女性が前に出てきた。眼鏡をかけたショートカットの若い女性だ。
「動かないで! あなた達! その男を解放しなさい! さもないと――」
「いや、待ってください!」
神社側の男が前に出る。
「この人は境内の前で倒れていたんです! 私達は、それを治療して、これから病院に運ぼうとしていただけだ!」
「怪我を……? 嘘をついても、彼が目ざめればわかることですよ?」
「失礼な! 嘘なものか! それより、あんたこそなんなんだ!」
男が言うと、眼鏡の女性は眉をピクリとあげた。
「おや? 私のことを知らないのですか? 何度もこの神社には来ているのに。私は――」
彼女は胸元にぶらさがったペンダントを掴むと、それを見せつけながら言った。
「私は天使教会の辺境伝道師、アキコ=ユミコ。倒れている彼も天使教会の人間です」
ペンダントは二翼十字。彼女も、怪我をした人間も天使教会の人間。
「さあ! 彼の身柄をこちらへ! それから、代表者に話があります!」
伊武が舌打ちをした。直巳も同じ気持ちだった。
怪我人――部外者どころか、天使教会。
面倒な話どころではない。最悪だ。
それから、怪我人は天使教会が自分達の車に乗せて、どこかへ連れていった。
残ったのは、アキコ=ユミコという、妙な名前を名乗った眼鏡の女性だけ。どうやら彼女が代表のようで、花鳥神社の代表者に会わせろと、神社の人間に詰め寄ってきた。
見回りをしていた男の1人が羽奈美家に電話で連絡をする。簡単に事情を伝えると、すぐに話は終わった。
「アキコ=ユミコさん。花鳥神社の責任者である、羽奈美夏恵様がお会いしたいと」
男がそういうと、アキコ=ユミコは満足そうにうなずいた。
「では、案内してください。ああ、私のことはアキコと呼んでもらえれば」
男は不満げに「では、こちらに」と言って、彼女を先導した。
直巳達も、出来るだけ目立たないように、少し距離をおいてその後をついていった。
アキコが羽奈美家に到着する。
玄関を開けると、割烹着を着た女性がアキコに頭を下げた。
「奥の部屋で夏恵様がお待ちです。こちらへどうぞ」
直巳達は玄関の外で、その様子を見ていた。夏恵とアキコが何を話すか聞きたいが、同席して目立つわけにもいかないし、そもそも同席させてもくれないだろう。
すると、廊下の奥から菜子が顔を出して、直巳達に手招きをした。
「こっち! こっちです!」
直巳達は家にあがり、菜子の元へ行く。
「どうなったんですか? 天使教会の人がおばあちゃんに会うみたいですけど」
小声で言う菜子を見て、直巳はあることを思いついた。
「事情は後で話すよ。ねえ、あの2人の会話、どこかで聞けないかな?」
菜子は直巳の真剣な表情を見ると、事情も聞かずに、手を引っ張っていった。
足音を殺して廊下を歩き、菜子が指差した部屋に入る。電気もついていないが、廊下の灯りで部屋の中はなんとか見られた。
菜子は直巳の耳に口を近づけると、ひそひそと話した。
「おばあちゃん達、隣りにいますから。壁に耳をつければ聞こえますよ。うち、ボロいんで」
立派な木造作りで、ボロくはないのだが、鉄筋コンクリート造りの家よりは音も漏れやすいだろう。直巳と伊武は、菜子の指差した壁にそっと耳をつける。なぜか菜子もやっていた。
直巳が耳を済ませると、隣りの部屋から話し声が聞こえてきた。少し音がボヤけてはいるが、会話の内容を聞くことはできそうだった。
「――では、あなた達にも原因はわからないと」
アキコの声がする。先ほど聞いた、冷たく、はっきりとした声だった。
「ええ。こちらも、こんなことになって驚いています。このたびは本当に、大変なことで」
夏恵が穏やかな声で答える。謝罪はしていない。
「――他人事ですね。まあ、いいでしょう。私達も、あなた達のやったことだとは思っていません」
「ええ、さようでございます。私達は、まったく関係ございません」
口調は穏やかだが、夏恵は決して謝罪しないし、へりくだることもない。さすが、花鳥神社の代表というだけあってしたたかだ。
「人は関係なくても、この神社で事件が起きたのは間違いありません。事件ですから、通常であれば警察に届けるのが筋でしょう――しかし、私はそれを望まない」
「……そういうわけにもいかないでしょう」
夏恵はアキコの提案を断る。本心がどうであれ、警察沙汰は困ると天使教会の人間に言うのはまずい。そういう判断だろう。
アキコは少し黙った後に口を開いた。
「いえ――やはり警察には伝えません。原因を突き止める必要がありますが、警察では無理でしょうから。そこで、花鳥神社には、我々の調査を受け入れていただきたい」
なるほど。それがアキコの要求ということらしい。
夏恵が何も答えないでいると、アキコが言葉を続けた。
「勘違いしないでいただきたいのは、我々は花鳥祭を中止させる気はない、ということです」
「それは……前から仰っていただきまして……ありがたいことですが……」
「ええ、好きにしていただいて結構。天使禁制などという世迷い言は信じておりませんし、そちらも認めてはいないでしょう?」
「はい。周りの人間が勝手に言っているだけで、滅相もございません」
「なら、問題はありません――ただし、今のままでは駄目です。そのために、我々の調査を受け入れていただきたい」
「事件の犯人を捕まえるため、ですか」
「半分正解です――はっきり申し上げましょう。この神社には、何か邪悪なものがいます。犯人は、恐らくそれです」
「また……悪霊のお話ですか……」
「ええ、また、その話です。何度でも言いますが、この神社には花鳥とは違う、邪悪な何かがいます。今回の事件も、その邪悪なものが原因ではないかと――そう思っています」
「まさか、そんなことは――」
「ありますよ。そのために、彼――怪我をした男は神社を調べていたのです」
アキコはしれっと言うが、ようするに、天使教会は花鳥神社の許可など取らずに、調査を開始していたということだ。許可を与えれば、さらに大手を振って人を送り込んでくるだろう。
だが、それについて夏恵は何も言わない。花鳥神社は境内以外に門などをつけていない。誰が入ろうと、それを罰するのは難しいからだ。
「その男の怪我が、また不思議でしてね。まるで猛獣に襲われたような傷だ。よろしければ、先ほど撮影した傷口の写真を見ますか?」
それから、しばらく無言が続いた。アキコが傷口の画像を見せているのかもしれない。
少ししてから、夏恵が口を開いた。
「私はこういうことに詳しくはないので、どうこうは言えません」
「ええ、どうこうは言わなくて結構。ただ、我々の調査を受け入れ、協力していただきたい。警察を入れても、騒ぎになるだけで解決はしない。我々であれば、秘密裏に解決ができます。ご当主様、どうかご決断を」
「お任せすれば、警察沙汰にもならないと。祭りも行ってよいと」
「そうです。人材、費用の一切はこちらが持ちます。悪い話ではないでしょう――あまり言いたくはないのですが、こちらには怪我人も出ております。ただでは引き下がれませんし」
笑顔で良い条件を提示して、それを受け入れろと脅す。逃げ場が綺麗に塞がれた。
「――どうぞ、よろしくお願いします」
夏恵がアキコの要求を受け入れて、話は終わった。
アキコは夏恵との話が終わると、簡単な挨拶をして部屋を出ていった。
部屋の入り口で、アキコが誰かと会話しているのが聞こえる。
「ご苦労様でした。玄関までお送りします」
令の声だった。アキコの見送りに出てきたらしい。
「おや、これはこれは……巫女様にお会いできるとは光栄です。今日もお美しいですね」
「よく言われます。さあ、お急ぎください。さっさと出ていって欲しいので」
令は冷たく言うと、さっさと歩きはじめてしまった。その後を、アキコが小走りで追う。
足音が遠ざかると、隣りの部屋で聞き耳を立てていた直巳と菜子は顔を見合わせて、ほっと息を吐いた。
「ばれませんでしたね」
「ああ。菜子のおかげだ……それにしても、大変なことになったな……」
「天使教会が、神社に来るってことですよね? あれ、お姉ちゃんも聞いてたんだろうなあ……めちゃくちゃ切れてたし」
「……切れてたね。これ以上ないぐらい」
令は元々、愛想の無い方だが、アキコに対する態度は悪いなんてものではなかった。夏恵はずいぶん気を使って会話をしていたようだが、令の態度でぶち壊しだろう。それとも、夏恵がアキコの言い分を受け入れてしまったので、自分が何をしても状況は変わらないと開き直ったのだろうか。
とにかく、状況は動いたし、いくつかの情報を得ることもできた。障害事件の犯人、天使教会の調査、邪悪なもの、悪霊――これらが一体、何を意味しているのか。天使教会の目的とは、なんなのだろうか。これらについては調べてみる必要があるだろう。
「……もう一度……現場を見ておいた方が……いい……」
ずっと黙っていた伊武が、ボソッと言う。彼女にも、何か考えがあるのだろう。
伊武の言葉を聞くと、菜子がグッと拳を握り、やる気を見せた。
「現場ですね! じゃ、さっさと行きましょう! おばあちゃんに気づかれたら――」
「気づいてますよ」
ストン! と小気味いい音を立てて、部屋のふすまが開いた。
夏恵だった。廊下の光が、後光のように夏恵の影を浮き上がらせている。
「げ! おばあちゃん!」
菜子がしまった、という顔をすると、夏恵は溜め息をついた。
「あなた、いっつもそこで盗み聞きしているでしょう。いい加減、気づきますよ。それに、お客人まで連れて」
夏恵が直巳達の元へ歩いてくる。直巳は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「いや、その……すいません。どうしても気になりまして……」
夏恵は、座っている直巳の前に立つと、懐から小さなお守りを取り出して渡してきた。
「椿さん、でしたね。お話は聞いていましたか?」
「ええ……まあ……聞いてしまったというか、なんというか……」
「なら、話は早いですね」
そういうと、夏恵は直巳の前に座り、深く頭を下げた。
「どうか、天使教会の動向を見張ってもらえませんでしょうか」
「え? それは、どういう?」
直巳が驚いていると、夏恵は顔をあげて話を続けた。
「天使教会は、以前から何かをしようとしています。これまでは断ってきたのですが、怪我人まで出てしまっては、もう断れません。であれば、それが何かを見届けて欲しい。そして、それがもしも、神社にとって不利益になるようなことであれば……可能であれば食い止めてもらいたい」
「お、おばあちゃん?」
菜子も驚いた顔をしている。それはそうだろう。夏恵は、部外者である直巳達に、天使教会を探れと、そして止めろと、とても大事な、危ないお願いをしているのだ。
直巳は夏恵の真意を探るために、彼女の表情を見つめた。
夏恵も、優しげな眼差しで見つめ返してくる。
羽奈美夏恵。人の良さそうな、孫に甘いおばあちゃん――それは間違いではない。
間違いではないが、決してそれだけではないだろう。天使教会と揉めながら、この神社を維持してきた人物なのだ。一筋縄でいくわけがない。
直巳は、夏恵に対する先入観を捨てて、彼女の言葉の意図を考えてみた。
「――なるほど、わかりました」
直巳は笑い出したくなるような気持ちを抑えて答えた。夏恵の優しげな表情、穏やかな物腰、弱々しい肉体。それらを抜いて考えれば、彼女の意図はすぐにわかった。
「僕達は部外者です。部外者が勝手に動いて天使教会の邪魔をしても、神社の責任ではない。そういうことですか?」
「ちょっ! 椿さん! おばあちゃんが、そんなひどいことを――」
直巳の棘のある言葉を吐くと、菜子は慌ててフォローしようとした。
「ええ、ええ。椿さんは聡明なお方だ。そういうことです。あなた達からは3千万をもらっている。だから、我々も強くは言えない。どうしてもあなた達を追い払えというなら、天使教会に5千万を補填していただくと言えば、引き下がるでしょう」
「2千万、増えてますよ」
直巳が笑いながら言うと、夏恵はにこにこと笑いながら答えた。
「どうせ払ってもらうつもりはないんです。多めでいいでしょう」
「なるほど。話を合わせましょう」
直巳はまるで、アイシャやAと話している気になっていた。狡猾、老獪。倫理観を横に置いておけるタイプなので、話が早い。
「では、夏恵さん。僕と伊武に、この神社で自由に行動する権利をいただきたい」
「ええ、止めません。他の人間も、きっと止めないでしょう」
許可はしないが好きにしろ、ということだ。許可をすれば天使教会に言い訳ができない。
「それで構いません。僕達に何があっても、神社に責任は問いませんから」
神社とは関係ない。何をしても文句は言わないかわりに、何があっても助けない。
「お話が早くて助かります」
夏恵は深々と頭を下げた。直巳の方から、切り捨てても良い人員に名乗り出てくれたのだ。夏恵にとって、こんなに都合のよいことはない。
ただ、夏恵にとって都合が良いということは、直巳達にも何かあるということだ。それに気づかないような女性ではないだろう。
「椿さん。あなた方にも、何か目的があるのでしょう。祭りが無事に行えるなら、そちらの目的はお好きにかなえていただいて結構です」
毒を食らうならば皿まで、というやつだ。自分も無事ではすまない。それを受け入れると夏恵は言っている。そう言ってもらえると直巳も楽ではあるのだが。
「ええと……今のところ、僕らの目的も、祭りを成功させる、なんですよ。本当に」
「それは――何のためでございましょう? なぜ、縁もゆかりもない椿さん達が、花鳥神社の祭りを成功させたいと?」
「……はっきり言います。僕達も依頼されてきたんですよ。祭りを成功させてこい、と。それ以上のことは何も言えません。一応言っておきますが、天使教会とは関係ありません」
直巳が言うと、夏恵はにこにことしたまま、何も答えなかった。まだ何かあるでしょう? そんな言葉が信用できるわけがないでしょう? と、彼女の目が言っている。
直巳は観念して、もう少しだけ自分達の目的を明かすことにした。
「……今から言うことは、内緒にしてもらいますよ」
「ええ、墓場まで持っていきます。すぐ墓場ですから、ご安心ください」
老人の、もうすぐ死ぬジョークは、何とも笑いにくい。
「――菜子。お前は外に出てなさい。聞き耳なんか立てるんじゃありませんよ」
「……はーい。じゃ、玄関で待ってますから」
菜子はそういうと、不満そうな顔で部屋を出ていった。足音が遠ざかる。部屋の外にいるわけでもないようだ。夏恵がうなずくと、直巳は話を再開した。
「――僕達は、天使教会と対立しています。天使禁制があるこの神社を守ることは、天使教会の勢力拡大を阻止することになるんです。そのためには、祭りを成功させて、天使禁制の力を維持する必要があると聞いています。そのために、この神社へやってきました」
「さようで……ございましたか……」
天使教会と対立、という言葉を聞いて、さすがに夏恵も驚いたようだった。
「しかし……そうですね。敵の敵は味方、ということですか。それならば、納得もできます」
夏恵はうんうんとうなずくと、直巳と伊武の手を、優しく握った。
「勝手ばかり申し上げているのはわかっています。厳しいお役目をお客人にお任せするしかないのは歯がゆい。しかし、どうか、よろしくお願いいたします」
夏恵は深々と頭を下げた。演技か本心かはわからない。しかし、頭を下げたことは事実だ。
「しかし、多額の寄付に、御神体の返却。神社をかばったまま力まで貸してもらっています。こうするしかないとはいえ、借りが大きすぎる――ええ、それもわかっております」
夏恵は言葉を続ける。直巳達への大きな負担は理解している、と言いたいようだ。
「わかってるなら……なんとか……しろ……ババア……」
伊武がボソっと言う。直巳は伊武の口を止めようとしたが、聞こえてないふりをした。伊武は何も言っていない。それを貫くことにした。
夏恵も聞こえているのかいないかわからないが、特に反応はせず、言葉を続けた。
「なので、もし、あなた達のおかげで祭りが成功したら、借りは返させていただきます」
「借りを返す? いえ、僕らは別に……」
「いえ。そういうわけにはいきません。今は借りを作るしかない。しかし、成功すれば十分にお返しができるのです。どうか、受け取ってください! お願いします!」
夏恵はそう言いながら、直巳にすがりつくように迫ってきた。
「わ、わかりました! 受け取ります! 受け取りますから!」
「本当ですか! ああ、よかった」
直巳が了承すると、夏恵はあっさりと離れた――やばい。これだけあっさり離れるとなると、これも夏恵の計算のうちなのだろう。
「それで……お返しというのは……何をいただけるので……?」
直巳がたずねると、夏恵はにこりと笑って言った。
「この神社を差し上げます」
予想外の答えに直巳は硬直し、何も言えなかった。
「ぼけた……かな……」
伊武がボソっと呟いた。