第五章
直巳達は30分ほどバスに乗り、終点の駅前で降りる。
駅前の賑やかさは、神社の周りに比べると別世界のようだった。人や都市の雰囲気を感じて、直巳は少し、ほっとする。
さて、何を食べようかと思って、直巳達が駅の周りを見ていると、離れた場所から直巳を呼ぶ声が聞こえた。
「椿さーん! 伊武さーーん!」
叫んでいるのは、菜子だった。ブンブンと元気良く手を振り回しながら、直巳達の元へと一直線に駆けてくる。
菜子は直巳達の目の前で止まると、嬉しそうに2人の顔を見上げてきた。叫びながら走ってきたというのに、息1つ切らしていない。
「2人とも、どうしたんですか? 駅前でお買い物ですか? 私、案内しますよ!」
菜子は直巳と伊武の腕を掴み、今にも引っ張っていきそうな勢いだった。直巳は苦笑して、菜子をなだめながら話をした。
「まあ、買い物もしたいけど。まずはご飯食べようと思って。昼ご飯、まだなんだ」
「え! もう夕方ですよ! あー、神社の周り、食べられるところありませんもんねー。しまねこ……じゃなくてストライプキャットぐらいしか」
やはりあそこしかないらしい。駅前に出てきてよかった。
「何を食べたいですか? 言ってくれれば、私が案内しますよ!」
菜子はどうしても案内したいみたいで、直巳達を掴んだ手を離そうとしない。直巳は苦笑しているが、伊武は無表情だった。ただし、やや不機嫌よりの無表情。
菜子が自分の腕を掴んでいることは別にいい。ただ、直巳に気安く触っているのが、ちょっと気に入らない。まだシメるほどではない。抱き付いたらシメる。
「もう夕食も近いから、軽く食べられるところないかな」
直巳が言うと、菜子は目を輝かせて、大きくうなずいた。
「はい! じゃあ、こっちです!」
菜子は元気良く返事をすると、2人の手を取って、駅ビルの中へと歩いていった。
到着したのは、駅ビルの中にある、直巳が聞いたことのないパスタ屋だった。
「ここ、美味しいですよ!」
「へー……パスタならちょうどいいね。伊武も、ここでいい?」
直巳の質問に、伊武は素直にうなずく。伊武は何でも食べるし、直巳の提案を拒否するという考えは基本的にない。
「じゃ、入ろうか――菜子、どうしたの?」
直巳達が店に入ろうとするが、菜子は入り口の前で立ったままだ。
「へ? いや、案内したから、私は帰ろうかなって」
「そうなの? よかったら、一緒に入ろうよ。デザートもあるみたいだし」
「え? ……いいんですか?」
「そりゃ、いいに決まってるよ。ご馳走するからさ。一緒にどう?」
直巳が言うと、菜子はぱあっと表情を輝かせた。
「は、はい! ありがとうございます! すっごい嬉しいです!」
そういうと、菜子は照れ臭そうに直巳と伊武について、店に入っていった。
3人は席についてメニューを決める。直巳と伊武は、菜子がおすすめするクリーム系のパスタを注文した。直巳は軽めに。伊武は店で可能な限りの大盛りで。菜子には紅茶とケーキのセットを頼んでやった。
少しして、テーブルに料理が並ぶ。チーズとクリームの濃厚な香りがする。味も香りのとおりによく、重すぎることもない。菜子がおすすめするだけのことはある味だった。
「美味しいね、これ」
「でしょう? 私、いっつもこれなんです。お姉ちゃんは辛いのばっか食べてますけど」
菜子は嬉しそうに言いながら、ちょっとずつケーキを食べている。
ほどなくして、直巳と伊武が同時に食べ終わった。伊武のパスタは直巳の倍はあったが、あっと言う間だった。
「はー……伊武さん、すごいですねー……」
菜子が伊武の食べっぷりに感心している。早いし、量も食べる。そして綺麗に食べる。
「……普通……だよ」
事実、伊武は満腹からほど遠い。大抵の店の言う大盛りは、伊武にとって誤差でしかない。
空いた皿が下げられ、食後のコーヒーが置かれる。それを一口すすると、直巳はようやく落ち着けた気がした。
「菜子の言うとおり、美味しかったよ。教えてくれてありがとう」
直巳がお礼を言うと、菜子はケーキの最後の一口を食べながら答えた。
「いえいえ、どういたしまして。ところで、お昼ご飯も食べずに、何をしていたんですか?」
「ずっと、神社の探索をしてたんだよ。道とか構造とか、覚えておかないとね」
「探索ですか? 一本道だから、調べるようなことってなくないですか?」
「あ、やっぱりそうなんだ」
直巳達も一本道だと思っていたが、住人から確証が取れるとありがたい。もし、何かあった場合にも、道で悩む必要はなさそうだ。
「後は、神社の周りも少し歩いてみたよ。広いから、途中で切り上げたけど」
「周りですか……何にもないでしょ?」
菜子が苦笑いしながら言う。
直巳は言っていいものか少し悩んだが、抱えていた疑問を切り出してみることにした。
「まあ……何にもないね。特に神社の周りだけ、綺麗に何にもなかった……気のせいかな」
直巳の疑問。神社に隣接した箇所に、本当に何もないということ。店も民家もない。駐車場や公園のような施設すらない。
「あー……気づいちゃいました?」
菜子が再び、苦笑いをする。
「ん? 何か、理由があるの?」
直巳はとぼけたふりをして、続きを探ろうとした。
菜子は少し悩んでから、「内緒にしてくださいね」と言って、その理由を話しはじめた。
「うちの神社、天使禁制、天使避けの御利益があるって言われてるんですよ。その辺のことって、知ってます?」
「うん。百年前から、一度も天使降臨したことがないって聞いてるよ」
「ええ――それ、本当らしいんです。偶然かどうかは知りませんけどね。まあ、そういうすごい神社だって。本当に力のある神社なんだって、地元のみんなは知ってるんですよ」
そこまで言うと、菜子は目を伏せて、小さく溜め息をついた。
「それで、本当に不思議な力があるってことになると……みんなね、怖がっちゃうんです。守っては欲しいけど、関わりたくはないって……そう思う……らしいんです」
菜子はそこで言葉を止めると、空になった紅茶のカップをもてあそんでいる。
「近くに……本物の不思議な力があったら……人は……落ち着かない……かも……ね……」
伊武が遠慮もせずに言う。菜子はそれを聞いて、「ですね」と笑いながら答えた。
「隣りに住んでたら、祟りがあるんじゃないかとか。どうしても、そんなことを考えちゃうんですって……おかしいですよね? 私達は普通に住んでるのに――あ、でも。嫌われてるわけじゃないんですよ。みんな、参拝もしてくれますし、お祭りにもたくさんの人が来てくれてます。でも、なんていうんでしょう。日常生活の一部にはしたくない、というか……」
それ以上、上手く伝える言葉が出てこないのか、菜子は黙り込んでしまった。
ようするに、花鳥神社は実際に天使避けの御利益がある、特別な力がある。そうなると、花鳥神社は、どうしても非日常になってしまうのだ。あの神社や山が、くり抜かれたようにそのまま残っているのは、そのせいだろう。
花鳥神社は、日常に隣接する異界なのだ。
それは神社として正しい姿なのかもしれない。しかし、菜子達はそこに住んでいて、他の人達と変わらない日常を過ごしているのだ。祭りの時にだけ姿を現わす精霊などではない。
それに、直巳はもう1つ、花鳥神社が敬遠されている理由を思いついている。
天使教会だ。天使教会に目を付けられている花鳥神社に関わりたくないのだ。
天使からは守ってもらいたい。祭りもいいだろう。しかし、日常生活では関わりたくない。
残酷な話だ。用がある時以外は近付かないでくれ、ということか。
菜子が、この話を寂しそうにするのは、そのせいだろう。恐らく、小さいころから、近所の人や友達に距離を置かれていたのだろう。
菜子を見ると、ぷるぷると震え、目に涙を溜めていた。地元の人間じゃない直巳達にしか、話せないことだったのだろう。そして、話せば色々なつらいことを思い出してしまう。
それに何より、直巳達に嫌われてしまうかもしれないという、恐れもある。
とうとう、菜子の目から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「ご、ごめんなさい……その……すいません! 気味悪いですよね! こんな話!」
菜子が制服の袖で、ぐしぐしと涙をぬぐう。
直巳は菜子の頭にポンと手を置くと、優しい声で語りかけた。
「変なこと聞いちゃってごめんな。でも、俺達は大丈夫だよ。菜子のことも神社のことも、怖がったりしないよ」
菜子は鼻をすすってから顔をあげる。目が腫れている。
「……ほんと……ほ、ほんとですか?」
直巳は菜子の目をまっすぐに見つめ返しながら、明るい声で言った。
「ああ、ぜんぜん大丈夫だよ。な? 伊武」
直巳が話を振ると、伊武は素直に頷く――ことはせず、首をかしげた。
「今の話……で……泣くとこ……あった……の……?」
伊武はそもそも、なぜ菜子が泣いて、直巳が慰めているかをよく理解できていない。それもそうだろう。菜子は神社に対する畏怖が影響して、人に距離を置かれている。伊武の場合は、完全に本人が原因で他人に距離を置かれており、別に何とも思っていないのだから。
「よく……わかんないけど……いきなり……殴られたり……するの?」
「し、しないですよ! そんなことないです! ちょっと、怖がられてるというか……」
伊武の極端な発想を菜子が慌てて否定する。
「ふうん……なら……放っておけば……いい……それに……うるさければ……うるさくないように……すれば……いいし……」
「ね! 伊武もこう言ってるし! 気にしないでいいって!」
アドバイスの内容がサイコっぽくなってきたところで、直巳が言葉をさえぎる。
「とにかくさ。俺達は菜子のこと、怖いとか思ってないから。大丈夫だって」
「はい……あの……伊武さんも?」
「だから……何が……?」
伊武は慰めるどころか、菜子の意味不明な悩みにイラッとしはじめている。
「す、すいません!」
菜子は、伊武がなぜ怒っているのかわからないまま、殺気に押されて謝る。とりあえず、伊武が自分のことを怖がっていないことは理解できた。
「ま、そういうことだからさ。あんま気にすんなって!」
「は、はい!」
「椿君……ケーキ……食べていい?」
話が綺麗にまとまりそうなところで、伊武はメニューを開きながら言った。
「伊武はマイペースだなぁー! じゃあ、俺達も食べようか。菜子も、もう一個食べちゃえ」
「はい!」
そして、直巳達は一個ずつケーキを食べた。食べ終わるころには、菜子の涙も乾いていた。
店を出て、3人で日用品や食料品を買い込む。その間も、菜子はずっと楽しそうだった。
大量の荷物を抱えてバスに乗り、神社へと帰る。
時刻はもう夕暮れ。赤くそまった参道を、荷物を抱えた伊武と菜子が歩いていく。
直巳は後ろから、その様子を微笑ましく見守っていた。
その時。直巳は、夕暮れに染まる参道に立つ巫女を見た。
令だった。令はぼんやりと、どこか遠くを見つめていた。
何を見ているのかもわからない。ただ、優しげな瞳で、心から満たされた顔をしている。
幽玄、とでも言うのだろうか。宙を見つめる令の横顔は、この世のものとは思えないほどに美しく――直巳は悪寒を感じた。
菜子は普通の少女だ。夏恵さんも、普通の人間だ。他の人々もそうだろう。花鳥神社という現世で生きている。
でも、令は駄目だ。彼女だけは本当に違うのだと、異界の住人なのだと、そう思った。
「――なに?」
令が直巳に気づくと、振り返って話しかけてくる。まだ、少しだけ目がぼんやりしている。
「あ、いや……何をしていたのかなって……」
直巳が言うと、令は静かに笑って言った。
「やっぱり、あなたにもわからないのね」
「わからない……? 何のことだ? 何か、いるのか?」
「花鳥神社にいるのは、花鳥様に決まっているじゃない」
そう言い残して、令は去っていった。
直巳は伊武と一緒に部屋に戻ってから、何とはなしにテレビを見ていた。
菜子の泣き顔と、令の怪しげな笑顔が、交互に浮かんでくる。
菜子は、自分達は花鳥神社に住む普通の人間だという。日常を送っているのだという。
畏怖されるのは言われなきことで、とても悲しいことだと思っている。
直巳も、その言葉はわかっていた――わかっていたつもりだった。
だが、夕日に染まる参道で笑っていた令を見て、その考えは消し飛んだ。
花鳥神社が特別な場所であり、巫女が特別な存在であること――令がいる限り、それは事実なのだろうと、直巳は思った。
恐らく、令は自分の特異さを隠している。菜子にも、夏恵にもだ。
菜子、残念だけど、花鳥神社は普通じゃない――令は、普通じゃない。
あの子は何かに魅入られている。