第四章
早朝。ガチャっと、景気よく直巳の部屋のドアが開く。
そして、ベッドに足音が近付いてくる。
直巳が、なんだろうと思う前に、思いっきり体を揺すられた。
「直巳さーん! 朝ですよ! 花鳥神社に行きますよー! 起きてくださーい!」
間違いなく菜子の声だった。元気が良いどころではない。超・元気の良い声に、直巳は無理矢理起こされた。
「お、おお……おう……」
寝ぼけた直巳が目覚まし時計を見ると、まだ5時だった。
「早いね……」
「神社の娘ですから! 朝は慣れてるんです!」
そうこう言っている間に、毛布が剥がされて、まるで介護のように、いつの間にか上半身が起こされていた。こうされては、嫌でも目が覚めてしまう。
「さ! 早く起きてください! ご飯食べたら出発しますよー!」
「はーい……」
直巳がもたもた着替えはじめると、菜子がジッと見ていた。
そして、直巳の両手を掴むと、真上にあげた。
「はい、ばんざーい」
「なっ! じ、自分で脱げるよ!」
「駄目です! そうやってまた寝ちゃうんですから! お父さんと一緒です! ほら、ばんざいしてください!」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
しばらく抵抗しているうちに、直巳の目も完全に覚めた。目覚まし時計の数倍は効く。
直巳はさっさと上着を脱ぐと、上半身裸でアピールした。
「ほら! ねっ!? 大丈夫! 起きてる起きてる! すぐ着替えてリビング行くから!」
菜子は直巳の顔を見て、完全に起きているのを確認すると、満足そうにうなずいた。
「はい! それじゃ、すぐ来てくださいね! ご飯もすぐできますからねー」
菜子はそう言い残して、トタトタと小走りに直巳の部屋を出て行った。
「……朝から元気だなあ」
直巳は出ていった菜子に向かって言うと、着替えをはじめた。いつもより朝は早いが、目覚めは悪くない。菜子とテンションの高いやり取りをしたからだろうか。
「妹がいたら……あんな感じなのかなあ……いや、あれは高望みか」
世間の妹は、あんなに可愛らしく世話を焼いてくれないだろう。同級生の話を聞いても、妹とは話もしないとか、友達来るから家にいないでとか、散々な扱いらしいし、兄から見てもブスだとか、うるさいだけとか、お互いに評価が低い。
「ま、そんな可愛い妹なんかいないか。姉ならともかくな」
シスコンが朝から妙なことを言いながら、着替えを済ませた。
直巳が洗面所で朝の仕度を済ませてリビングに行くと、つばめとグレモリイ以外は全員揃っていた。
令は昨日と同じ制服で、伊武は私服だ。ちなみに、直巳も私服。
今日からしばらく花鳥神社へ行くので、学校は休むことになる。言い訳はAが考えて、グレモリイが伝えることになっている。つばめにたいしては心苦しいが、今回はやむを得ない。
直巳が、おはようと言ってリビングに座ると、令と伊武も挨拶を返してくれた。2人とも、元々テンションが低いので、食卓がなんだか暗い。
「はーい! ご飯ができましたよー!」
菜子のぶっちぎりのテンションが、灰色の食卓を切り裂いた。
「ま、簡単なものですけど。どうぞどうぞ」
菜子が作ってくれたのは、大量のおにぎりと味噌汁だった。
「中身は右からー……って、伊武さん早い!」
伊武は菜子が説明をする前から、バクバクとおにぎりを口に放り込んでいた。中身なんて食べればわかるし、わかったところで、それだけの話だ。説明を聞く必要がない。
そのままなし崩しに始まった朝食をとっていると、リビングにグレモリイが入ってきた。ファーのたっぷりとついた、真っ白いコートを着ており、でかいサングラスをしている。女性用ファッション誌の表紙のように派手な格好だった。
「はーい、おはようー」
悪魔なので睡眠不足ということはないようだが、少しだるそうだった。悪魔に早起きが似合うとは思えない。
「グレモリイ、早いね。そんな格好して、どうしたの?」
直巳がたずねると、グレモリイは車のキーを指先で回しはじめた。
「駅まで送らないといけないでしょー。高宮邸の周りでタクシーなんか捕まると思う? 呼んだってなかなか来ないわよ、こんな山の中」
高宮邸と椿家を空間転移で繋いでいることは、令達には言っていない。高宮邸から出るとなれば、車は必須だ。
「ああ……なるほど。それは助かるよ」
「んじゃ、車回しておくから、準備できたらきてねー」
グレモリイがひらひらと手を振ってリビングから出て行く。
その後ろ姿を、菜子がキラキラとした目で見つめていた。
「やっぱ、グレさんは格好いいなあ……」
どうやら、菜子はグレモリイのことが相当気に入っているらしい。直巳から見ると、わりと雑な扱いをされているように見えるが、菜子は気にしていないようだ。
「……まあ、見た目はいいからね」
見た目だけで言えば、誰もが目を惹かれるほどの美人だ。中身がうっとおしいだけで。
「そうですよ。オシャレだしスタイルいいし……うちのお姉ちゃんの次ぐらいに美人です!」
「ごほっ! ごほっ!」
突然、名前を出された令がむせる。
「お姉ちゃん、大丈夫? お茶飲む?」
「……大丈夫よ。菜子、変なこと言わないで」
「えー。変なことじゃないよー。お姉ちゃん、私の自慢なんだから!」
菜子はそう言って、屈託なく笑う。令は慣れているのか、仕方ないわねと苦笑した。
直巳はその様子を、和やかに眺めながら笑っていた。
「そうだよな。お姉ちゃんは可愛いから、大事にしないとな」
「はい! 大事ですよー! 私の宝物です!」
直巳と菜子は2人で顔を見合わせて笑った。シスコン同士、感じるものがあったのだろう。直巳のはちょっと違うのだが。
令は直巳の発言を聞いて、完全に引いていた。
「じゃあ行くわよ」
グレモリイの運転するSUVが、高宮邸を出発する。
多少運転は荒いが、大きく事故るようなこともなさそうだった。以前、グレモリイの運転技術は壊滅的だったのだが、練習でもしたのだろうか。
「朝は人も車も少ないから、安全でいいわね」
大きなサングラスをかけたドヤ顔のグレモリイが片手で格好良くハンドルを切ると、タイヤが縁石に接触して、ガリガリと嫌な音を立てた。運転技術は上がっていないらしい。
「ちょっと……大丈夫なんですか」
令の冷たい声を無視して、グレモリイは運転を続ける。
「あの……グレモリイさん、本当に免許持ってるんですか」
「免許? 持ってるに決まってるでしょ? この前Aに買ってもらったわよ」
「は……? 買って……もらった?」
「受験料とか出してもらったんじゃないかなー!」
直巳が大声でフォローを入れる。経緯はどうあれ、グレモリイは運転が出来るのだと、祈ることしかできなかった。
20分ほどで、最寄りの駅に到着する。幸い、車は誰も傷つけることはなかった。車にはたくさんの傷がついたが、どうせアイシャが帰ってきたら燃やすので、たいした問題ではない。
「それじゃ、いってらっしゃーい」
車から降りて駅に向かう直巳達に、グレモリイが手を振る。車に肘をかけて立っている姿だけは、さまになっている。
突然、菜子がグレモリイの元へと駆け寄り、彼女を見上げながら言った。
「あの! また遊んでくれますか!」
グレモリイはサングラスをつけたまま、菜子を見下ろしている。
「私はね。もっとフルーツの甘みがするようなカレーが好きよ。次までに覚えてきて」
「あ……はい! がんばります!」
菜子が元気良く返事をすると、グレモリイはサングラスを外して、菜子の顔にかけた。
「わっ……」
驚く菜子の頭をポンと叩き、グレモリイは笑う。
「あげるわ、それ」
それだけ言うと、グレモリイは颯爽と車に乗り込み、手慣れた様子でエンジンをかけてアクセルを踏み込み、去っていった。赤信号を無視して。本当に早朝でよかったと思う。
それから、直巳達は令の指示通りに切符を買い、ほとんど人の乗っていない電車に乗る。朝方だから、というのもあるが、方向的にラッシュと逆なので、本当に空いていた。
そのまま2時間ほど電車を乗り継ぎ、聞いたことのない駅をいくつも通過して、直巳達は目的地の駅に到着した。
そこは路線の終点。ただ、直巳が想像していたよりも賑わっていた。駅前は店もたくさんあるし、見慣れたチェーン店もいくつかある。しかし、少し遠くを見れば山もあるし、自然だらけのようだった。
「ね? 田舎でしょ?」
グレモリイからもらったサングラスをかけたままの菜子が、直巳を見上げて言う。
「自然が多くて、いいところじゃない」
「だから、それが田舎ってことじゃないですかー」
直巳が菜子とじゃれていると、令がどこかに電話をかけはじめた。2、3言かわした後、直巳達の目の前に、1台のタクシーが停まった。運転手が降りてきて、令に帽子を脱いで頭を下げた。
「お嬢さん。いつもご贔屓ありがとうございます」
もう、老齢と言っていい運転手は、品の良い笑顔で挨拶をする。
お嬢様扱いされた令は、少し気まずそうに会釈をした。
「いえ、こちらこそ……朝早くからすいません」
「ははっ。年寄りですから、朝は早いんですよ。さ、お荷物をどうぞ」
運転手がトランクを開け、直巳達は荷物を載せる。そしてタクシーに乗り込むと、令が行き先を伝える前に、車は走り始めた。令が乗り込むと、黙っていても花鳥神社に連れていってくれるのだろう。
「そちらは、お嬢さんのお友達ですか」
「うん、まあ……そんなところ。お祭りの手伝いをしてもらうんだ」
令がそう返すと、運転手は気まずそうな表情をした。
「そうですか……今回は大変ですけど、頑張ってくださいね」
「……ありがとう」
運転手は地元の人間だろうし、何かしらの事情は知っているのだろう。
それから15分ほどで、タクシーは目的地に到着した。令が、「支払いは羽奈美に」というと、運転手はうなずき、令は料金を払わずに降りた。ツケにでも出来るのだろうか。
そしてタクシーから降りた直巳は、花鳥神社を目の前にして驚きを隠せなかった。
目の前には、見上げるほどに長い石段。両脇に広がる森。目の前にはいくつか店などもあるのに、ここだけ突然、異界と隣接しているようだった。
「この上に……神社があるの?」
「そうですよ。低い山の上に神社があるんです」
直巳がたずねると、菜子が当然のことのように答えた。
「へえー……立派な神社なんだな……どこまでが神社なの?」
「この辺の山は全部、うちのです。道路挟んでこっち側は全部」
直巳達が立っている神社から、道路を挟んだ向こう側には、店や民家がある。だが、神社の側はひたすら木。畑すら無い。丸出しの自然。
「……全部?」
「はい。まあ、本当にただの山ですけどね。タヌキとかモモンガとかいますし」
平然と言う菜子。たしかに山だし、駅からも離れているが、この土地の広さはただごとではないだろう。タクシーの運転手が、お嬢さんと言っていたのもわかる。令達は、この辺りでは有名なお嬢様達なのかもしれない。
「ねえ、いつまでぼーっとしてるの? 私達、学校あるから早く行きたいんだけど」
少しいらついた声で令が言う。早く家に帰りたかったのもあるだろうが、自分の家を珍しそうに見られていたのも、気に入らなかったのかもしれない。
「あ、ああ……そうだな。行こう」
令がさっさと石段を登りはじめるのを見て、直巳も慌ててついていった。
「おばあさま。こちらがお話した、出資者の方々です」
「令さん、ご苦労様。良く来てくれました。祖母の夏恵と申します」
羽奈美家の大きな和室で、品の良い老婆が直巳達に頭を下げる。
「初めまして。椿直巳と申します。こちらは、伊武希衣です」
直巳も座ったまま自己紹介をして頭を下げる。伊武もそれに従った。
あれから直巳達は、長い石段を登り、これまた長い参道を歩き、神社の端にある羽奈美家へと迎えられた。羽奈美家は老舗の旅館か、映画のセットかというような年季の入った立派な家で、その中でも一番立派な和室に通された。
そこで紹介されたのが、羽奈美家の現当主であり、令の祖母でもある夏恵だった。夏恵は物腰穏やかで、可愛らしい女性だった。直巳は、もっと厳格で恐ろしげなご当主様、といった人物を想像していたので、少し安心する。
夏恵は直巳と伊武を笑顔で眺めた後、楽しそうな口調で言った。
「それにしても、伊武さんと言ったかしら? 大きなお嬢さんねえ。私は背が小さかったから、羨ましいわ」
「……はい」
伊武の返事はそれだけだった。怒っているわけではない。この老婆に好かれようが嫌われようが、どうでもいいのだ。ひたすらに興味がない。
「ええ、そうですね! 伊武は大きいし、運動も得意なんです! な!?」
「……うん」
直巳がフォローするが、伊武は直巳に向かってうなずくだけだった。
その様子を見て、夏恵はケラケラと笑う。
「ごめんなさいね。若いお客様だから、ついはしゃいでしまって。何もないところだけど、お祭りの日まで、ゆっくり過ごしてちょうだいね」
「はい! ありがとうございます!」
直巳が好青年を装って挨拶すると、夏恵はうんうんとうなずいた。
「こちらにいる間の世話は菜子にさせますから。遠慮無く使ってやってちょうだいね。菜子、いいわね」
「はーい」
「うん、よろしい」
これだけのやり取りで、菜子と夏恵は仲が良いのだな、ということがわかる。一方で、令は祖母にたいして、どこか距離があるように見える。夏恵は菜子を呼び捨てにし、令にはさん付けで敬語だ。どちらかというと、夏恵が令に距離を取っているように見える。
「それでは、おばあさま。私達は学校がありますので」
「ああ、そうね。それじゃ、椿さんと伊武さん。またね」
そういうと、祖母はしっかりとした足取りで部屋を出ていった。
ふすまが閉まると、直巳は思わず溜め息をつく。それを聞いた菜子が、くすくすと笑った。
「おばあちゃん。別に怖くなかったでしょ?」
「怖くないけど、緊張するよ。この家で一番偉い人なんでしょ?」
「そうですよー。偉いんですよー。家だけじゃなくて、この辺りの人達にも尊敬されてる、すごいおばあちゃんなんですからー」
菜子が自慢気に話していると、令が立ち上がる。
「菜子。学校に行く時間よ」
そう、落ち着いた声で言うと、令は部屋を出ていった。
令が話した後、居た場所には、なぜか緊張感が残る。夏恵と菜子は普通なのだが、どうして彼女だけ、あんなにピリピリしているのだろうかと、直巳は気になった。
「あ、ほんとだ。じゃあ、椿さん達のお部屋に案内しますね」
菜子は慣れているのか、気にしていないのか、平然としている。自分の考えすぎかなと、直巳はこのことを、胸の奥にしまっておくことにした。
菜子に連れられて、羽奈美家の外に出る。少し歩いたところに、小さな建物があった。羽奈美家とはまったく違う。近代的、機能的で、いかにも後から建てました、という雰囲気だ。プレハブも覚悟していたのだが、それよりは相当マシなようにみえる。
菜子が建物の安っぽいドアに鍵を差し込み、ドアを開ける。
「ここ、自由に使ってください」
直巳が中を見ると、簡単な生活スペースになっていた。宿直室のようなものだろうか。
「年末年始の忙しい時とかは、バイトの人達の休憩所とか、仮眠室になってるんですよー。だから、布団とか暖房とか、そういうものは一通りあります」
直巳が靴を脱いで部屋に上がる。8畳ぐらいのスペースで、簡単なキッチンや冷蔵庫にテレビ。灯油式のヒーターなどが置いてある。どれも少し型は古そうだが、問題ないだろう。トイレもちゃんとあるし、シャワーもついていた。
「へえ……すごいね。うん、これなら助かるよ」
「本当ですか? よかったー」
直巳が好意的な感想を述べると、菜子はホッと胸をなで下ろした。
「本当は本家に泊めないと失礼なんですけど、この時期は親族の出入りも激しいし、何日もいるなら、こういう場所の方が若い人はいいだろうって、おばあちゃんが」
たしかに、人の家でずっと過ごすことを考えると落ち着かないし、伊武が連日、初対面の人達とのコミュニケーションに耐えられるとも思えない。
「夏恵さんの言うとおり、こっちの方が助かるよ」
直巳の言葉に、伊武もうんうんとうなずいている。
「そうですか。さすがおばあちゃん。それじゃ、これ鍵です。私は学校行きますので、帰ってきたらまたお話しましょうねー」
菜子そういって直巳に鍵を押しつけると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
残されたのは直巳と伊武。時刻はまだ8時半。
「さて……どうしようか……」
時間は有り余ってるし、特にやることもない。
もう一回寝ちゃおうかな、などと直巳が考えていると、伊武の様子がおかしい。まあ伊武の様子はいつもおかしいのだが、今回に限っては珍しく顔色が悪く、息も荒い。
「伊武……どうしたの?」
「……気持ち……悪い……から……少し……横に……なる……ね」
そういうと、伊武はそのまま、バタンと倒れてしまった。
「伊武!? 布団しくから、ちょっと待ってて!」
「大丈夫……横になってる……から……」
「横になるって、本当に横になればいいわけじゃないよ!?」
直巳は慌てて押し入れを開けると、急いで布団をしくと、倒れている伊武を転がして、布団の上にのせた。
「伊武、どうしたの? 具合が悪いなんて、珍しいね」
「うん……今……理由を……探してる……」
そういうと、伊武は全身のセルフチェックをはじめた。筋肉や関節、骨に異常はないか。消化器系は正常か。呼吸はきちんと出来ているか。
そして、しばらくすると、伊武はぼそっとつぶやいた。
「……わかった……よ」
「わかった? 具合が悪い原因がわかったの?」
直巳の言葉に、伊武はこくりとうなずく。
そして、大きく深呼吸すると、直巳にも聞こえるように言った。
「アブエル……オフ……」
「アブエル……? アブエルが原因なのか?」
人造天使アブエル。伊武についている、人の造った天使。伊武はこの天使の力を使い、魔力強化という魔術で身体能力を高めたり、超回復能力で、傷を治癒することができる。アブエルがいるから、天使と真っ正面から戦っても勝てるし、敵対する魔術師達にも勝ってきた。
そのアブエルの機能を、完全に切ったのだ。それが原因だと、アブエルのせいで具合が悪いのだと、伊武は言う。
「アブエル……アブエルを切って――あ、そうか」
直巳が気づいた。
「人造天使アブエル――天使の力――この神社が、天使の力を拒否してるのか」
伊武はうなずいた。顔色はだいぶよくなっている。
「多分……そう……神社に足を踏み入れた……瞬間から……調子が悪かった……私はいつも……少し力を使っている……程度だから……これぐらいで……済んだ……もし、アブエルを完全に出現……させたりしたら……どうなっていたか……わからない……」
「――なるほど。ってことは、花鳥神社の天使禁制。噂とか迷信じゃないんだな」
伊武は、はっきりとうなずいた。
「……本物……この神社には……本当に……天使を……拒む力が……ある」
あの後。アブエルを切ってから伊武の不調は回復したのだが、念のために、少し寝かせておくことにした。直巳も朝が早かったので、隣りに布団を敷き、少し寝ることにする。
目覚めたのは、昼の12時前。直巳が目を覚ますと、伊武もそれにあわせたように覚醒し、いつもの調子でむっくりと起き上がり、「……おはよう」と言った。
直巳は伊武の様子を見る。顔色も悪くないし、変な汗もかいていない。どうやら、アブエルを切ったことで、天使禁制には対応できたようだ。とりあえずは一安心というところか。
「いや、よかった……伊武が動けなくなったら、どうしようかと思ってた」
「うん……ごめん……ね……でも、アブエル……使えない……のは……困る……かな……」
伊武はアブエルが使えず、戦力が落ちてしまうことを気に病んでいるようだった。
「そんな、気にしないでいいよ。アブエルが使えなくても、伊武が強いことに変わりはないんだし。頼りにしてるよ」
「椿君……うん……ありがとう……がんばる……ね……」
伊武は直巳の励ましに、期待に答えようと、静かに闘志を燃やしている。
だが、直巳は特別に励ましたわけではない。アブエルがいなくても、伊武が強いことには変わりないので、本当に頼りにしている。天使や魔術師が相手ならともかく、大抵の人間相手ならば、伊武が負けることはない。アブエルによる身体能力の強化や、超回復能力がないとしてもだ。
伊武の調子が戻ったところで、直巳達はこれからどうするかを話し合った。
伊武が、まずはこの辺りの地理を把握しておくべきだと言うので、直巳もそれに従うことにした。たしかに、何をするにでも、道がわからなくては話にならない。
直巳達は家を出て、羽奈美家の前を通り過ぎ、参道に出る。横道や森の中はきりがないので、とりあえずは境内と参道、それから整備されている道を調べてみることにした。
まずは境内。綺麗な砂利が敷き詰められており、立派な本殿が正面に見えた。左右には社務所や神楽殿も見える。どれも立派ではあるが、特に気になるようなことはない。神社に興味の無い直巳には、神社というのはどれも同じように見える。
一通り見て回った後。伊武が、ジッと一点を見つめていた。
「伊武、何か気になったことでもある?」
直巳が声をかけると、伊武は境内の隅を指差した。
「……あそこ」
伊武が指差した場所を見ると、そこだけ妙に壁が高くなっており、何かを囲っているようだった。扉には厳重に鍵と鎖がかけられている。たいして広いスペースではないだろう。
「あそこだけ……厳重……なのは……なんでだろう……ね……」
たしかに、その一点だけが異様な雰囲気を放っている。奥に何かあるのだろうか。
直巳が近付いて見てみると、壁の上部には有刺鉄線まで張ってあった。
「うーん……大事なものでも保管してるのかな……後で、令か菜子に聞いてみよう」
「そう……だね……」
直巳は伊武を連れて、境内を出ることにした。
「他に、何か気になることはあった?」
境内から出て直巳がたずねると、伊武は少し悩んでから答えた。
「……境内の裏は……山だから……普通は……正面からしか……入って来られない……それぐらい……かな……」
「なるほど……裏から誰かが入ってくることは、基本無いと」
「うん……攻められた時は……守りやすい……ね……山は……天然の要塞……だね……」
天然の要塞だね、と言われても、直巳は合戦をしたことがないので同意はしにくい。
それから参道に戻り、入り口まで歩いてみることにした。
途中、いくつか横道はあったので少し入ってみたが、どの道も、特にどこかに繋がっているわけでもなさそうだ。ロープが張られ、立ち入り禁止になっているところもいくつかあった。
入り口まで辿り着いてわかったことは、花鳥神社は基本的に、入り口から境内まで、広くて長い一本道しかない、ということだ。非常にわかりやすい。ちなみに、住居は境内に入る直前で横道に分岐しているので、難しいことはない。
神社の大まかな地理を把握したところで、今度は神社の周辺を探索してみることにした。
長い石段を降りて、神社の入り口にやってくる。今朝、タクシーの停まった場所だ。
道路を挟んだ向こう側に、コンビニ風の個人商店がある。営業時間は朝7時から夜の9時と、健康的なものだった。直巳達は、とりあえずそこで飲み物を買い、一息ついた。
後は、もう少し離れた場所に、いかにも古い喫茶店があった。外壁は色あせたピンクとブルーのストライプ模様で、「ストライプ☆キャット」とカタカナで書いた看板がかかっている。とにかくストライプなのはわかったが、気絶するぐらいにださい。中を見ると、太ったおばさんがカウンターの中でテレビを見ていた。ちなみに、コーヒー1杯で300円。ランチはハヤシライスやパスタがあり、コーヒー付きで750円。一応、覚えておくことにした。
それから、神社の周りというか、山の周りをぐるっと歩いてみたが、本当に何もなかった。ただひたすらにフェンスが張ってあるだけ。どこも入れる場所はなさそうだ。
本当に歩いて一周するのは骨が折れそうだし、何もなさそうなので途中で切り上げる。まあ、見ている限り、他に入り口もないだろう、ということで直巳と伊武の意見は一致した。
2人は、近くにあったバス停のベンチに腰掛ける。
とりあえず、神社を探索してみた直巳の感想。
「なんか……変なところだな」
これしかなかった。
たしかに、郊外ではあるが、田舎というわけではない。駅前だって賑やかだし、花鳥神社からは、アパートやマンションも見える。
ただ、花鳥神社の周りだけ、時間が止まっているかのようだった。はるか昔から、神社と山だけが、化石のように、ここに残っているような気がする。神社から道路を挟んだ向こう側は、普通に民家もあるのに、だ。誰も神社の周りを開発しようとは思わなかったのだろうか。
考えたきり、ベンチから立ち上がろうとしない直巳の顔を、伊武が覗き込む。疲れたか、具合でも悪くなったかと心配しているようだった。
直巳は顔をあげると、伊武に向けて明るく言った。
「お腹空いたね。ご飯、食べにいこうか」
「うん……調査は……もういいの?」
「とりあえず、神社内についてはわかったしね。周辺については、後で地図でも見てみるよ」
「……わかった……神社の中は……私も……覚えたから……大丈夫」
「それで十分じゃないかな。じゃ、ご飯を……って、どこで食べようか」
直巳は辺りを見回してみるが、「ストライプ☆キャット」以外に飲食店が見当たらない。どうしても、というわけでない限り、あまり入りたい店ではない。
「うーん……駅前まで出ないと駄目かな」
直巳がそう呟くと、伊武が思い出したように立ち上がり、バス停の時刻表を見た。そして、経路を見てみる。
「椿君……もうすぐ……バス……来るよ……駅前まで……行くみたい……」
「本当に? じゃあ、それに乗って駅前行こうか」
「うん……タイミング……よかったね……」
それから15分ほど待って、直巳達はバスに乗り、駅前へと向かった。乗客は直巳達の他に3人しかいなかった。