第二十五章
それから3日間。直巳は、あまり人と口を聞かずに過ごした。話せば不機嫌なところを見せてしまうし、それは本望ではない。八つ当たりはしたくなかった。それができないところが、1人で飲み込んでしまうところが直巳の美点であり、欠点なのだが。
直巳にはわかっていた。この怒りは、もう飲み込むしかないのだ。解消しようがないし、直巳が怒っていようがいなかろうが、何も変わらないのだから。
そのためには、時間が必要だ。時間が経てば、記憶のトゲは削れていく。川を転がる石のように。石そのものは丸くなるだけで消えないのも、同じことだが。
伊武には、時間を作ってすべてを話した。話を聞き終った伊武は、「わかった」とだけ言って、それ以上、何か言うこともなかった。伊武は直巳の言うことを聞くだけだ。花鳥も悪魔も過去も未来も、どうだっていい。ただ、裏を知ることができてすっきりした。それだけだ。
そして4日目の夕方のことだった。学校から戻った直巳を、マルファスが出迎えた。
「お帰りなさいませ、直巳様」
マルファスは濃紺のワンピースの上から、真っ白なエプロンを着て、頭には簡素なヘッドドレスをつけている。派手さのない、クラシカルなメイドの姿をしていた。。
マルファスは頭を下げるだけだ。カバンやコートを受け取ろうともしない。直巳が命令をしていないからだ。慶の話をしてくれと言って、それっきり、何も言ってはいない。だから、マルファスは最低限の挨拶をするぐらいで、口も手も出してこようとはしない。
直巳は靴を脱いで玄関に上がると、横目にマルファスを見る。「どうしたのですか?」と、ばかりに微笑むのだが、少し、元気がなさそうだった。
考えてみれば、アイシャのために、その身を犠牲にし、数十年もハナガラスと共に神社を守り続けたと思ったら、直巳に契約を変えられ、戻ってきたらその直巳の使い魔にされ、さらには何もするなと言われている。それはたしかに、元気もなくなるかもしれない。
マルファスもAのようにタフというか、無神経だと思っていたのだが、もしかしたら、Aよりは繊細なのかもしれない。
ああ、俺はマルファスに八つ当たりしてたのかな――。3日の冷却期間が、直巳にそんなことを思わせた。
「えっと……マルファス。コート、掛けておいてもらえるかな」
直巳がコートを差し出すと、マルファスは驚いたような表情を見せた。
「え……あの……よいのですか?」
「よいって……お願いしてるのはこっちだから……」
少し照れ臭くなった直巳が、顔を背けながら言うと、マルファスは笑顔を浮かべて答えた。
「■■!」
地獄から漏れ出してきたかのような、強烈なしわがれ声だった。
「え!? 何その声!」
恐らく、はい、と言ったのだろう。ただ、別人じゃないのかというほどに、しわがれていた。そういえば、カラスの時も、しわがれ声だったが、それよりもひどい。それこそ、喉に悪魔か、滑舌の悪いプロレスラーでも住んでいるのか、というほどだった。
「あ、あー! んっ……んんっ――失礼しました。喜びのあまり、油断してしまいました」
マルファスの声が、穏やかなものに戻る。そのあまりの違いに、直巳は気絶しかけていた。
「あの、直巳様? もし、直巳様?」
「えっ! ああ……うん。ちょっと、驚いただけ」
「申し訳ありません。悪魔は人間になると、どこかに特徴が残るものです。Aの目や、グレモリイの紅い髪のように。私の場合は声なのです。元々は、あちらが本当の声なのですよ」
「え……あっちのすごい声が本当なの? じゃあ、今の声は……作ってる?」
「ええ。声帯をこう、いじりまして。こちらの方が、人間には受けがよいので」
「さすが詐欺の悪魔だな……いや、でも騙してほしい。俺も、その声の方がいい」
「あの、それは――命令、ですか?」
マルファスが直巳の機嫌を伺うように、身を屈めて上目使いで聞いてくる。背は直巳と同じぐらいで、目付きも悪い。なのに、甘えた声で上目遣いをしてくる。そのギャップはなかなかに破壊力が高かった。
「……そう。命令」
直巳が少しとまどいながら答えると、マルファスの表情は、ゆっくりと明るくなっていった。
「――はい! 直巳様の前では、この声でいますね! あの、それから! お世話もさせてもらっていいですか!? お邪魔にならない程度でいいんです! ですから!」
「わ、わかった……でも、そんなしてもらうこともないから……」
「いえ! カバンやコートをお預かりしたり、そんなことでいいんです!」
「そ、そう? それじゃ……お願いします」
「命令してください!」
「じゃ、じゃあ……命令」
直巳が勢いに押されて、命令だと言うと、マルファスはにこにこと笑いながら、コートを抱きしめてリビングの方へと歩いていった。途中、「やった。命令されちゃった」などと、可愛く独り言を言っている。
「……結構……可愛いところ、あるんだな」
直巳はマルファスの背中を見送りながら、そんな独り言をつぶやいた。
すると、直巳は丸めた雑誌で、頭をぽこんと叩かれた。
「はいー騙されましたー。詐欺の悪魔にやられるおバカさんがここにいましたー」
グレモリイだった。呆れた顔で、デレデレした顔の直巳を見下ろしている。
「な、何だよグレモリイ」
「いやー、綺麗にはめられたわねー。ちょっと元気ない様子を見せるのも、喜びのあまりに地声出したって言うのも、健気に命令を欲しがるのも、クールな見た目であえての上目使いも、最後の聞こえるように言った独り言も――」
グレモリイは、大きく息を吸い込んだ。
「全部、嘘よ」
直巳が気を取られたあれもこれも、すべてが嘘だと、グレモリイは言った。
「……マジ?」
「詐欺師の総統、悪魔マルファスよ? それぐらい簡単にやるに決まってるじゃない。そのペースで心開いていくと、そのうち主従逆転されるわよ。それを全部綺麗にはまってるとかー。デレデレしちゃってバカじゃないのー? バーカーじゃーなーいーのー?」
グレモリイは自分の言葉に合わせて、丸めた雑誌で直巳の頭をポンポンと叩き続ける。
直巳が何も言えずにぐぬぐぬうなっていると、廊下の向こうからマルファスが走ってきた。
「ちょっと、グレモリイ。直巳様に失礼なことをしないでもらえる? 直巳様ぁ、大丈夫ですかぁ? 痛いところ、ありませんかぁ?」
マルファスは自分が殴られたかのように、悲しそうな表情で直巳の頭を優しく撫でてくる。
「直巳君! 気をしっかり持って! それは嘘でそいつはクソよ!」
恋愛に対する願いをかなえるのが得意な悪魔だからなのか、優秀なクソ女センサーを持つグレモリイが即座に指摘すると、直巳攻略の邪魔をされたマルファスの目付きが鋭くなった。
「は? クソはあなたでしょう? 獣臭いのよラクダ女。乳に水でも溜めてんの?」
「臭くないし! 超いい匂いするし! すれ違った中学生とか振り返るし! あんたこそ、その不気味に長い髪の毛、ちゃんと洗えてないんじゃないの? ほーらクンクン! うわー超臭いんですけどー! 髪が臭い女とか信じられないんですけどー! さっさと水でも砂でも蟻でも浴びてきなさいよこの貧乳カラス女が!」
「はぁぁぁ!? ぜんぜん臭くないわよ! 直巳様ぁ、嘘ですからね? 私、ちゃんと髪のお手入れしてますからね? ほら、嗅いでみてください? ね?」
「無理矢理髪の匂い嗅がせるとか変態っぽくないですかぁー? 引くんですけどぉー?」
「グレモリイィィ! この■■■■!!」
直巳を挟んで、2人の女性が激しい罵りあいを続ける。マルファスは地が出てきたのか、たまに例のしわがれ声を出している。
すっかり冷めた直巳が、どうしたものかと思っていると、玄関の扉が開いた。
「……ただいま」
帰宅した伊武だった。学校で呼び出しを食らっていたので、直巳とは別に帰宅したのだ。
伊武は、直巳を挟んで言い合いをしている2人の女性を見る。それだけで、かなり不機嫌にはなっていた。
「何……どうした……の?」
伊武がボソっと言うと、まずはマルファスが反応した。
「あなたは関係ないから、黙っていてください。この女が、私と直巳様の関係を邪魔しようといるんです」
グレモリイは、バカめ! と言わんばかりに、にやっと笑うと、マルファスを指差して、伊武に向かって声高らかに言った。
「こいつが! 直巳君を誘惑して騙して! 自分の言いように操ろうとしているのを! 私が止めていたのよ! 私は止めていた方です! 直巳君のために!」
グレモリイの方が付き合いが長い分、伊武のことを理解している。マルファスは伊武が強いのは知っているが、詳しいことまでは知らない。たとえば、直巳の狂信者であることとか。
伊武は一切悩むことなく、マルファスの頭を片手で掴む。ボウリング玉を鷲づかみにできる伊武にとって、マルファスの頭を掴むなど、たやすいことだ。
「ちょっ……何をするんですか? 乱暴はやめてください! 直巳様ぁ、助けてくださぁい」
マルファスがキャラを作って抵抗するが、火に油を注いだだけだった。
「椿君……リビング……行ってて……そこにいると……汚れちゃう……から……」
「ああ、そう……じゃあ、そうさせてもらおうかな……」
何で、どうして汚れることになるのか気になったが、聞くのも怖いので、直巳はそそくさとリビングに帰っていく。
「■■■■ー!?」
それからすぐに、マルファスのしわがれ声の絶叫が響いた。子供が聞いたらトラウマになりそうな声だった。伊武はリビングにくると、無言で掃除道具を持って玄関に戻っていった。落ちる汚れならいいなあと、直巳はじゃれてくるBを構いながらそう思っていた。
その後、マルファスは、直巳に露骨に媚びを売ってくることは少なくなった。少なくなっただけで、諦めてはいないようだったが。




