第二十四章
大きなカラスは長い話を終えた――ところどころ、Aに補足されながら。
直巳はカラスを見つめる。もう、これの正体が何かなど、わかりきったことだ。
「そのカラスが、悪魔マルファスってことか」
「ええ、そうよ――マルファス、きちんとご挨拶なさい」
カラスはアイシャの椅子から飛び立つと、直巳の目の前に降り立った。
そして、人間へと姿を変える。背は直巳と同じぐらいだが、異常に細身で、目付きが悪い。服装は黒のワンピースで、袖も丈も長い。体に張り付くようなデザインをしているため、腕の細さが際立ち、触れれば折れてしまいそうだった。よくみると、服にはたくさんの宝石があしらわれていた。輝きを放たない、光を吸い込んでしまうかのような、暗い色の宝石ばかりだ。
そして、何より、死人のような肌の色と、膝まで垂らした黒い長髪が特徴的だった。
よく見れば、真っ黒に見えた服や髪は、やや青みがかっていた。まるで、カラスの羽根のように。濡れ羽色、というやつだろうか。
直巳が観察を終えると、それを待ち構えていたように、マルファスはお辞儀をした。
「ソロモン霊72柱が1人。悪魔マルファスと申します。詐欺師の総統、カラスの悪魔でございます。以後、お見知りおきを――まあ、すでにお会いしておりますけれども。直巳様のおかげで、無事にこの姿を取り戻すことができました」
カラスの時のように、しわがれた声ではない。むしろ、穏やかで優しい声だった。聞いていると、心を奪われてしまいそうなほどに。これが、詐欺の悪魔の力なのだろうか。
「そうか……あの青年の――ハナガラスの力の源がマルファスだから、悪魔だから、俺の神秘呼吸が通用したんだな」
マルファスの放ったカラスは、直巳の左手に触れて嫌がった。あれでもしかして、カラスや青年の力の源は、魔力だったんじゃないかと、直巳は疑ったのだ。
そして、マルファスが令に取り憑いたので、直巳はその魔力を根こそぎ奪って無効化しようとした。その前に、マルファスが逃げだしたのだが。
「ええ、そのとおりですよ。私は、魔力を使って天使禁制を行っていたのです。あの神社全体に結界を張って、カラスを生み出して、ハナガラスに力を貸してね。令にまで渡されるとは想定外でしたが。ああ、よろしければ、後で魔力を返してもらえると助かります」
マルファスは悪びれもせずに、そんなことを言う。直巳が返事をしないと、マルファスは何事もなかったかのように言葉を続けた。
「契約の内容は変わってしまいましたが。ハナガラスも納得していたようですし。私も、これから長きに渡って、あの神社から力を得ることができます――満足しておりますよ」
マルファスは嫌味ったらしく言った。直巳はやはり、返事をしない。
空気の悪くなっている2人を見ると、アイシャは溜め息を吐いてから言った。
「ま、そういうことよ。悪魔マルファスと、以前の花鳥の巫女――慶との間に契約があった。お互いが勝手に結んだ契約がね。私は悪魔の主だから、悪魔の契約を邪魔するわけにはいかないの。悪魔が令の命を奪おうとしてるから気を付けなさい、とは――言えなかったのよ」
悪魔の契約を、主であるアイシャが邪魔するわけにはいかない。それも、直巳を騙すことになるから、ということでは、理由にもならない。
「それが……俺に何も知らせずに、神社へ送り込んだ理由か」
「ええ、そうよ」
アイシャは悪びれることもなく答えた。
「はっきり言うけど、マルファスさえ戻ってくれば、それでよかったの。慶を助けることは、最初から考えていなかった。でも、それだと直巳、あなたが納得しないでしょう。だから、悪魔を裏切らない程度のアドバイスを伝えたの。それが、私に出来た限界よ」
「最後の最後まで、巫女から目を離すな――か――」
それがヒントだとも言わなかった。言えなかったのだろう。それでも直巳が令を助けることができたのは、アイシャに対する、一種の信頼があったからだ。人間的に信用できるとか、そういうことではない。ただ、アイシャが無駄な激励をすることはないと、そう思っただけだ。
「たったそれだけで、巫女の命を助け、悪魔の契約を変えさせるのですから。さすが、アイシャ様の見込んだ人間、というところですね」
マルファスが直巳を賞賛する。しかし、何か不愉快だった。バカにされているような、嫌味を言われているような――気のせいだろうか。彼女のこれまでの行動から、良くないイメージがついているから、素直に受け取ることができないのだろうか。
直巳は何も返事をしなかった。したくなかった。疲れていたのもある。この、過去から続く凄惨な話――花烏奇譚の全容を知ってしまったことで。ただ、それ以上に、何と言っていいのか、わからなかった。
マルファスが帰ってきてよかった――令も助かってよかった――そんな気には、なれない。だからと言って、誰を責めていいのかも、わからない。
アイシャを助けるために行動した悪魔達を責められるだろうか。
その悪魔の契約を守るために、口を閉ざしていたアイシャを責められるだろうか。
天使教会か? シモンか? ハナガラスか? それとも、慶か?
「何を言われても、すっきりは、しないでしょうね」
黙り込む直巳に向かって、アイシャが言った。
「そうだな――この気持ちを、どうしたらいいかわからない――いや、自分がどんな気持ちなのかも、はっきりとは言い表せない」
アイシャは静かにうなずくと、優しい声で語りかけてきた。
「どうすれば、あなたは納得した?」
「――無理だよ。俺のところに来た時点で、完全にゆがんでいたのだから」
そう。Aから話を聞いた時点で、令と出会った時点で、話はすでにゆがんでいたのだ。直巳がどうこうできるわけではない。だから、胸に引っ掛かったものを、直巳が自分が取ることはできない。
「それでもね。過去は変えられないけど、令は、未来は変えることができたでしょう。あなたはマルファスも令も、そして神社も守ったのよ。結果だけ見れば、上出来じゃない」
アイシャが言う。慰めのつもりだろうか。直巳は溜め息を吐いた。
「巻き込まれただけだ。実感がないよ。何が何だかわからないうちに終わったんだ。アイシャ達に、良いように使われて――俺も、伊武も――ああ、うん。そうだな」
そう、自分だけではない。伊武も巻き込まれているのだ。他人のことまで考えたとき、直巳は自分が落ち着かない理由が、ようやくわかった。
「アイシャ。俺は怒っているんだよ。悪魔の復活に力を貸すとは言え、やり方はあるだろう」
騙されたから、怒った。シンプルな答えだ。そうするしかなかった、というのはわかる。だが、それはアイシャの理屈だ。巻き込まれた直巳や伊武の理屈ではない。
「気持ちの問題ってやつね。わかるけど、いまさらどうにもできないわ。そうね――」
アイシャは、スッとマルファスを指差した。
「報酬として、マルファスを直巳の使い魔にしてあげるわ。執事にしても、メイドにしても、奴隷にしてもいい。まあ、何をしてもいいわ。死なない程度ならね。せっかく、無事に戻ってきたのだから」
アイシャに報酬として差し出されたマルファスは、反論もせずに、直巳に向かって深々とお辞儀をした。
「それが、アイシャ様のお望みなら従いましょう」
マルファスは顔をあげると、余裕のある笑みを浮かべながら言った。
「直巳様。ご命令を」
「ない――あ、いや――」
直巳は、ないと即答したのだが、すぐに、1つだけ確認しておきたいことを思い出した。
「1つだけ、聞きたいことがある」
「どうぞ。なんなりと」
「最後、令が別人のようになっていたけど、あれは――」
ハナガラスからマルファスの力を譲り受けて、アキコを倒した。そこまではいい。その後、何かに取り憑かれたようになり、伊武に襲いかかってきた。あれは一体、何なのか。
直巳がたずねると、マルファスは、「ああ、あれですか」と言ってから、答えた。
「慶ですよ。慶の怨念――とでも言いましょうか。最後の最後まで、神社から天使を追い出す、という慶の願いが効いていたんでしょう。私の力は、その願いと結びついている。そういう契約でしたからね。力を使えばアキコも倒す、伊武希衣も倒す。そういうことです」
「そうか――慶の怨念――」
マルファスの力は願いと結びついている。力を受け取った令は願いにも支配される――それはわかる。わかるのだが――なら、令が最後に言った言葉は、なんだったのだろう。あれも慶の願い――呪いが言わせた言葉なのだろうか。それにしては、まるで。
マルファスは直巳の考えを見抜いたかのように、フッと笑い、懐かしそうに言った。
「もしかしたら、本当に悪霊になったのかもしれませんね――あれは、そういう人間でした」




