第五篇外伝 十三章
「慶! 何をした! 貴様ァ!」
シモンが慶を怒鳴り付ける。怒りだけではない。焦り、怯え、恐怖――それらが混ざった、臆病者の声だった。
慶は胸から血を流したまま立ち上がる。花吹雪が、慶にまとわりついている。
そして、シモンに向かって両手を広げて言った。
「花鳥神社禁忌・花鳥血花式と言います。巫女の力で、花鳥様を無理矢理にお呼びしました。御神刀を巫女の血で穢したので、怒って姿を現わしたのです。これが花鳥の巫女の奥の手です」
慶はシモンの方に手を差し出す。花吹雪がシモンを襲った。
「これでもう、あなたの天使の力は使えません。天使を喚ぶこともできない。その、傷を治すという剣も使えない――さあ、私が欲しければ、もう一度殺し合ってくださいまし」
慶は笑顔だった。花吹雪が、怒ったように慶に吹きつける。
「まあ、花鳥様。お怒りならば、あなたが慶を殺してくださいね。きっとですよ。そうすれば、慶はずっと、あなたのおそばにいられますから」
慶は怒り狂う花吹雪に、じゃれるように手を伸ばしていた。
シモンは慶の姿に戦慄した。胸から血を流し、愛する花鳥を怒らせて、それでも笑っているのだ。美しい――たしかに美しいが、彼女はもう、この世のものではない。
いや、そもそも最初から、彼女は人の身で手に入れられるような存在ではなかったのか。
「邪悪――お前が一番の邪悪だ! 慶! 天使の力で、滅びるがいい!」
シモンが、「殉教者」を使うために、自らの腕をラズイールで切った。
大量の血が流れ、空から一筋の光が降ってきて――花吹雪にかきけされた。
「あ……ああっ……天使様……天使様っ!」
シモンは天使の光が届かぬことに恐怖した。
その様子を見て、慶がクスクスと笑う。
「言ったでしょう? 花鳥様の天使禁制は、本物なのですよ」
「この――異端がぁ!」
もう、シモンにとって、慶は愛情を向ける女性ではなかった。天使に逆らう異端そのもの。自らの存在を脅かす、邪悪の塊だった。
天使こそ喚べないが、ラズイールの力は、弱いながらも続いている。ただ、ラズイールの回復の力が発動している間は、猛烈な苦しみに襲われるが。
「羽奈美慶――貴様を異端として、この場で処刑する! 天使教会辺境伝道師! 田神左衛門が! 天使の代行者として!」
シモンがラズイールを構えて、慶に斬り掛かっていく。一度は愛した女だが、迷いはなかった。天使教会だから、などという理由ではない。例え、シモンが天使教会でなかったとしても殺そうとしていただろう。男同士の気持ちをもてあそび、殺し合いをさせ、喚びだされて怒る花鳥とじゃれている。羽奈美慶――この女は、人間の世界に存在してはいけない。
「死ね! 邪悪の巫女め!」
ラズイールが慶の体に吸い込まれていく。慶はシモンを見据えたまま微笑んでいるだけで、かわそうともしない。死んでもいいのだと、本気で思っているのだろう。
シモンの斬撃に容赦はない。慶を真っ二つにしようとしている。
そして、ラズイールが慶の体に吸い込まれていき――弾き返された。
「――まだ、動くか!」
ハナガラスが、ラズイールを木刀で食い止めている。腹に穴が空き、肩には畳針が埋まって、全身に魔力暴走が発症している、ハナガラスが。
「この女に守る価値などない! 人の命を、そして花鳥すらも弄ぶ、邪悪の塊だ! それがなぜわからない!」
「お前は巫女様に怯えただけだ! 手に入らないから、自分の言いなりにならないから、殺そうとしているだけだ! 自分を守るために、巫女様への気持ちを捨てたのだ!」
「貴様――魂を囚われたか!」
シモンがハナガラスの土手っ腹、ラズイールに貫かれた箇所に蹴りを入れて、吹き飛ばした。
「――ごふっ」
ハナガラスの口から、ぱあっと血が噴き出す。まだ生きているのは、腹に巻いたサラシのおかげだ。これがなければ、内臓が出て、とっくに死んでいただろう。
ハナガラスが、血を吐きながら立ち上がる。気力だけだ。もう、木刀を構える力すらない。
一方のシモンは無傷。例え怪我を負っても、ラズイールで回復することができる。
もう、誰が見ても勝負は付いているだろう。
誰が見てもだ。たとえば、ずっと端で見ていた麻有であっても。
シモンがラズイールを構える。ハナガラスにとどめを刺すつもりだろう。
今度こそ、ハナガラスは死ぬ。間違いなく。
「ちっ――ハナガラス! お前に力を貸してやる! シモンを殺す力を!」
麻有は叫んだ。何事かと思い、全員が麻有を見る。何を言っているのか、という目で。
「代償は、シモンの持っている箱! 何としてでも取り戻してもらいます! どうですかハナガラス! 私と契約をしますか!」
ハナガラスは、麻有の言葉を聞いているが、何のことだかわからない。それでも、シモンを倒せると言った。何をする気かはわからないが、駄目で元々。代償の箱など、くれてやればいい。
「いいだろう! お前が何者かは知らんが! その契約、受けてやろう!」
ハナガラスが麻有の申し出を受けると、麻有は口の端を歪めて笑った。
「契約成立だ――後は頼みましたよ――アキラ!」
そう叫ぶと、麻有の姿が一瞬して変わった。
あの、不気味な女の姿はどこにもない。
そこにいたのは、一匹の大きなカラスだった。
カラスが、舞い散る花吹雪をかきわけるようにして、ハナガラスの元へと飛ぶ。
ハナガラスが片手をあげると、大きなカラスは、ゆっくりとその手の先にとまった。
そして、黒い霧となり、ハナガラスの体を包んでいく。
「鬼か天狗か、あやかしか――本当にカラスのバケモノが力を貸してくれるとはな」
霧が止むと、そこには傷の癒えたハナガラスが立っていた。
体の周りに、黒い羽根をまとわせている。
「その名の通り、ハナガラスというわけだ」
真っ黒な外套が、花吹雪で翻った。
「ハナガラス――この、花鳥が巻き起こしている花吹雪のせいで、私の力はごくごく弱くなっています。慢心はしないように」
ハナガラスの頭の中に、麻有の声が聞こえる。
「動ければ十分だ」
ハナガラスは口に出して答えた。それきり、麻有は何も言わなかった。
「即死させるには――木刀では、駄目か」
ハナガラスは落ちている、天使教会の持っていたサーベルを拾い上げた。
「さあてシモン。決着をつけようか」
「貴様も――バケモノの仲間入りか! ハナガラス!」
シモンがラズイールでハナガラスに斬り掛かる。撃ち合う。力は互角――いや、シモンの方が上だった。この状況においてもまだ、シモンは自らの技術を信じていた。
「野良犬は――何をしても野良犬だ!」
シモンのたくみなフェイントに、ハナガラスは翻弄される。
「――くっ!」
首から胸へ。シモンの斬撃はするりと軌道を変え、ハナガラスを斬り付けた。
切られたハナガラスの胸からは血が――出なかった。
代わりに、バサッと、大量の黒い羽根が噴き出した。
「あの女のために――人すらやめたか! ハナガラス!」
その異様な光景を見て、シモンは悲しそうに叫んだ。
「貴様を殺せるのなら、鬼で結構、蛇で結構だ!」
ハナガラスは傷の痛みがないのか、切られた箇所をまったく気にせずに、シモンに斬り掛かった。
「お前――命が惜しくないのか!」
「そりゃあ、生きてて楽しいやつの考えだな!」
ハナガラスのサーベルが、シモンの手首を捉える。シモンは傷を覚悟したが、焦りはしなかった。ラズイールがあれば、傷はやがて回復する。次は死兵の強襲に遅れをとることはない。
バサッと。鳥の羽ばたくような音がした。
次の瞬間、シモンの手首から先が、大量の黒い羽根に姿を変えた。
「な――手が――手があああ!」
シモンは真っ黒になった手首の断面を見て絶叫する。回復する兆しはない。
「――なるほど。そういうことができるのか」
ハナガラスは、自分の中にいる麻有に向かって呟く。麻有は何も言わなかった。
「ひ、ひぃっ……くそっ……このっ……」
シモンはラズイールを片手で持とうとするが、ふらふらと揺れていた。重みではない。自分の手首が、未来永劫消え去ったという現実に、ついて行けないのだ。
「南無阿弥陀仏――天使教会相手にこれじゃ、締まらねえな」
花鳥のサーベルが、シモンの心臓に突き刺さった。
シモンは自分の胸に突き立つサーベルを、唖然とした顔で見ていた。
「な――あ――僕が死んで――お前と巫女が――生きるの――か――」
バサッと。大きな音を立てて、シモンの体すべてが、真っ黒な羽根の塊に姿を変えた。
羽根は飛び散り、花吹雪に飲み込まれて、どこかへ消えてしまった。
次の瞬間。大量の天使降臨が発生した。
シモンの体に溜め込まれていた、「嘆きの涙」が一斉に発動したのだ。
空が割れ、幾筋もの光が神社に降り注ぐ。
だが、舞い散る花びらは、それらすべてを飲み込んで、かき消してしまった。
ハナガラスは花びらに飲み込まれないよう、目を閉じて、必死で耐えていた。
それで力を使い果たしたかのように、花吹雪も止んでしまった。
「――花鳥様が、帰ってしまわれた」
慶はそう言って、夜空を見上げていた。
目の前でハナガラスが人をやめ、シモンが死んだというのに。
慶が気にしているのは、花鳥のことだけだった。
まあ、しかし。ハナガラスが勝ったのだ。これで神社も安泰――安泰にすることができる。
慶はハナガラスの元へと歩いていった。
途中、シモンの持っていた聖剣ラズイールを見つけると、それを拾った。




