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第五篇外伝 十章

 しばらくしてから、ハナガラスはアキラをそっと離し、宿に返すことにした。

 アキラは涙を拭きながら、「いつでも顔を出してください」と微笑んだ。

 ハナガラスはあいまいにうなずき、彼女に背を向けて歩き出した。

 そのまま歩き、神社へと向かう。

 羽奈美家の前に辿り着くと、足音がしないように下駄を脱いだ。

 そして、勝手知ったる羽奈美家へと忍び込む。

 もう真夜中なので、人の姿はない。

 ハナガラスは足音を殺し、廊下をひたひたと歩く。

 そして慶の部屋に辿り着くと、躊躇することなくふすまを開けた。

「ごめん」

 後ろ手にふすまを閉めながら、眠っている慶に小さく声をかける。

 慶は静かに目を覚ますと、慌てる様子もなく身を起こした。そのまま、ハナガラスをちらりと見ると、こともなげに言った。

「――あなたでしたか。人を呼ばれたくなければ、早く帰りなさい」

 慶はハナガラスに、目もあわせようとしない。

 ハナガラスは、慶の人を寄せ付けない雰囲気に呑まれかけたが、グッと、唇に力を入れると、勇気を出して言った。

「巫女様。天使教会のシモンと結婚をするというのは、本気ですか」

「本当よ――それが何か?」

 慶は気怠げに言うと、ハナガラスの心臓が、縮こまったような気がした。はっきりとした理由はわからない。とにかく、何か嫌なものを浴びてしまったような、そんな感じがする。

「巫女様は、シモンのことを愛しておられるのか」

 ハナガラスが震える声で言うと、慶は鼻で笑った。

「神社と花鳥様を守るのが巫女の務め。そのためなら何でもします。結婚でもね」

「シモンのことを愛しているのかと、聞いているのです」

「――私が愛しているのは花鳥様だけ。他には誰も愛してなどいないわ」

 ああ――よかった――巫女様はシモンを愛していないのだ。ハナガラスは、純粋にそう思った。

 きっと彼女は、花鳥様以外は誰も愛することなどないのだ。シモンも、そして自分のことも。

 それだけではない。恐らくは、人にも人の世にも、そして自分にも興味がないのだ。ただ、花鳥様だけを見て、花鳥様のためだけに生きるのだ。その美しい顔と体は、そのための道具でしかないのだ。きっと、自分の持っている人形のようなものでしかないのだ。

 遠い存在。決して手に入らない存在。それが、ハナガラスには嬉しかった。

「他になければ、もう眠りたいのだけど。今なら家人は呼びませんから、出ていきなさい」

 慶はそう言って、小さなあくびをした。ハナガラスのことを、何とも思っていないのだろう。

 そう。慶にとって、ハナガラスなどは取るに足らない人物でしかない。いや、人として見てもらえているかも怪しい。これまで、ずっとそうだった。そして、今も。これからも――。

 ハナガラスは、慶の前に、どかっと音を立てて正座した。慶は見向きもしない。

 そして、自分を鼓舞するように頬を叩くと、一気に言った。

「私は、シモンの持っている箱を、あの力を奪ってみせます。そして、私があなたと花鳥様を守りましょう。神社もこのまま残します。天使も、天使教会も、一歩も入れません」

 慶はハナガラスを見ることもなく、黙って聞いていた。

 何も言わない。帰れとも黙れとも言わない。きっと、言葉の続きを待っているのだと思い、ハナガラスは勇気を振り絞って言った。

「もし、シモンから箱を奪うことができたら、私の嫁になっていただけますか」

 慶は、ゆっくりとハナガラスに顔を向けた。初めて目が合う。慶が自分を見ている。自分のことを考えている。その事実だけで、ハナガラスは天にも昇る気持ちだった。

 そして慶は、あの冷たく怪しい笑みを浮かべて言った。

「もし、それができたのなら。私は喜んであなたの妻になりましょう」

 ハナガラスは息を呑むと、深く、畳に額をこすりつけるように頭を下げた。

「――必ず、やってみせます」

「楽しみに待っていますね」

 ハナガラスは、頭を下げたまま、慶のその言葉を聞いた。

 それだけで、血が煮え立つように興奮した。

 そして頭を上げて立ち上がり、部屋を出ようとすると、慶に呼び止められた。

「ねえ、ハナガラス。あなたは、私のことが好きなの?」

「はい。お慕いしております」

 ハナガラスは背を向けたまま答えた。顔を見て言えるようなことではない。

「そう。いつから?」

 慶は何でもないことのようにたずねてくる。

 ハナガラスは帽子を深くかぶり直してから、答えた。

「昔、俺が神社の井戸で血を洗っていた時のことです。あのころは、よく小突き回されていましたから。その時、あなたが手ぬぐいをくれたのです。これで拭きなさい、と。真っ白で、柔らかな手ぬぐいを」

 慶の手ぬぐいは、今も部屋に大事にしまってある。一度も洗っていない。

「その時からずっと、あなたのことをお慕いしております」

「そう」

 慶は素っ気なく答える。ハナガラスはそれを聞いて、部屋から立ち去ろうとした。

 すると、背中に、柔らかな重みを感じた。

 慶が、ハナガラスの背中に抱き付いていた。

「私も、覚えているわ。あなたがずいぶんとかわいそうだったもので、思わず手ぬぐいをあげたのよ。母には、無くしたと嘘をついたわ」

「――慶様」

 小さな声で慶の名前を呼ぶ。ハナガラスの声は震えていた。

「あなたなら、できるわ。私、お嫁に行くなら、シモンよりも、あなたが良いわ」

 そういうと、慶はハナガラスから離れた。

 ハナガラスは振り返ることなく、部屋を出た。

 そのままこっそりと羽奈美家を抜け出して、神社の山を下りる。

 道に出ると、ハナガラスはあてもなく、全力で走り出した。

 興奮が冷めやらない。走って走っても、力が溢れてくるようだった。

 もちろん、わかってはいる。頭の片隅には、冷たい部分だってある。

 慶様は、箱を奪えなければシモンの嫁になり、箱を奪えれば俺の嫁になると言うのだ。

 まるで、おとぎ話に出てくる、自分勝手な姫様のようだ。

 俺は、そんなものが愛だとは思えない。

 俺もシモンも、何をしたって、あの人の愛を手に入れることなんかできない。

 それでも俺は、シモンは、あの人が欲しかった。

 愛は手に入らない。それならせめて、他のすべてを。

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