第五篇外伝 九章
それから、ハナガラスはシモンを昼も夜もつけ回した。
シモンはお供を引き連れて、花鳥神社近くの宿に泊まっていた。
昼間はあまり外にでない。出たとしても、暇つぶしのようなもので、特に何かしているというわけでもなさそうだった。
そして、夜になると毎日花鳥神社に向かい、慶と会っていた。2人は夜の神社を散歩するだけだったし、常に天使教会と花鳥神社の人間が一人ずつ、付いていた。そのうちの1人は、必ず、あの髪の長い、気味の悪い女だった。
たまに、小さいのが、慶にちょろちょろとつきまとっていた。あれはたしか、夏恵とかいう慶の妹だったか。花鳥の巫女ではないが、みんなに可愛がられていた。シモンにも臆することなく話しかけている。シモンも悪い気はしないのか、それとも慶に良いとこでも見せたいのか、外国の珍しい菓子なんかを渡して、可愛がっていた。
ハナガラスは藪に隠れ、時に木に登り、そんな慶達の様子をじっくりと観察していたが、シモンは手を握るどころか、触れることすらなかった。無理に迫る様子もない。慶から出ている拒絶の雰囲気を感じたのだろう。根性無しめ、いい気味だと、ハナガラスは笑う。
慶がシモンに付き合っているのは、彼の力が必要だから。それ以上のことを何もさせないのは、その力を証明できていないから。
それでも、慶を、花鳥の巫女様を呼び出して一緒に歩けるという優越感はすさまじいものがあっただろう。夜の逢瀬は、たったの20分ほど、神社の中を歩くだけだったし、歩く道も、いつも同じだった。それでもシモンは満足そうな顔をしていた。
一つ妙なことがあるとすれば、シモンはいつも、何か箱のようなものが入った袋を持ち歩いているということだった。巫女様への贈り物かと思っていたのだが、それを渡す様子もない。荷物入れの巾着にしては大きいし、一度も開けることはなかった。
それが、5日続いた。ハナガラスは、心を殺して、その様子を見つめ続けた。
そして毎晩、アキラの宿へ向かい、その結果を報告していた。
アキラは、そうですか、ご苦労様ですといい、ハナガラスを丁寧にねぎらってくれた。飯も食わせてくれたし、頼んでもいないのに肩も揉んでくれた。一緒にいれば必要以上にくっついてくるし、世話も焼いてくる。背中まで流そうとしてくるので、丁重に断った。女というのは現金なものだなと、ハナガラスはそら恐ろしくなった。
そして、6日目の夜のこと。
いつもどおり、巫女とシモンは夜の散歩をしていた時。
突然、神社の参道に、夜空を割って光が降ってきた。
ただごとではない。流れ星でも落ちてきたかと思うほどだった。
ハナガラスは直感的に理解した。これがあの――天使降臨というやつか。
ハナガラスは離れたところでも、その衝撃とまばゆさを感じていた。
そして、花鳥神社に天使禁制が存在しないことを理解した。そんなものは、最初からなかったのか。ある時からなくなったのかはわからないが。
巫女やシモン、そしてその取り巻き達も、驚いた様子で、少し先にいる天使を見つめている。
天使は、人の体に、口の長いトカゲのような頭を乗っけていた。ハナガラスはその生き物の存在を知らなかったのだが、それはワニの頭だった。
そして、天使は、全身に強い光をまといはじめた。「天使の奇跡」を放つ前兆だ。
それに飲み込まれれば、人間はどうなるかわからない。天使教会なら、それを知らないわけがないだろう。
取り巻き達は腰を抜かしているが、シモンと、横にいる髪の長い女だけは落ち着いていた。そして、女がシモンに何やら耳打ちをすると、シモンは持っていた袋から箱を取り出して天使に向けた。縦横20センチほどの、真っ白な箱だった。
シモンは箱を開けて、中身を天使に向ける。
次の瞬間、天使から強い光が放たれる。
光はシモン達の方にも飛んでいったが、箱が光を弾き、慶も取り巻きも、全員を守った。
ハナガラスは、光に照らされた箱の中身を一瞬だけ見た。
――指。たしかに、人の指のようなものが見えた。あれは一体何だ?
そのうちに天使は光の筋となって、真っ直ぐ夜空へ昇り、消えてしまった。
まるで夢のような光景だった――悪夢と言ってもいい。天使というのは、あれほどにすさまじいものだったのか。冬だというのに、ハナガラスのこめかみに、一筋の汗がこぼれた。
光のせいで目がチカチカとするが、そんなことを言ってはいられない。
花鳥は、目と耳をシモン達の方へと向ける。
シモンは箱を閉じながら、慶を気遣っていた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、私は何とも――あら? 腕にお怪我を」
慶がそういって、シモンの腕を見る。シモンの服の袖からは、ぽたりぽたりと、血が流れ出ていた。服を着ていても流れるぐらいだ。それなりに出血しているのだろう。
「ああ――少し、やられましたかね。でも、平気です」
そういうと、シモンは腕を隠すようにした。慶も、それで納得したようだった。
そして、慶はシモンの持っている箱を見ながら、真剣な顔でたずねた。
「私達を守ってくれたのは、その箱なのですね」
シモンは箱を見せながら、得意気にうなずいた。
「はい。これがある限り、天使からこの神社もあなたも守ってみせましょう」
「その箱には、何が入っているのですか」
シモンは少し悩んでから、横にいる髪の長い女を見る。女が黙ってうなずくと、シモンは箱の中身について話を始めた。
「この箱の中には――天使の腕が入っているのです。私はこれを使って、あなた達を、この神社を、天使から守ることができるのです」
天使の腕――シモンはたしかにそう言った。巫女の取り巻きは、怯えたようにのけぞる。
シモンは笑いながら、「悪さはしません」と笑った。
慶は興味深そうに箱を見る。シモンはそれをわかっていながら、箱を袋にしまった。
「天使の腕……そうでしたか」
それだけを言うと、慶は観念したようにうつむいた。
「私の力は証明できたと思うのですが」
慶とは逆に、得意気な声でシモンは言う。
「ええ。たしかに見ました」
「では、結婚していただけますね」
シモンのその言葉を聞くと、慶は顔をあげて、笑った。まるであやかしのように、冷たくも怪しい笑みだった。
そして、慶はきっちりと手を揃え、頭を下げて言った。
「――はい。私は、あなたの妻になりましょう。私と神社を、末永くお願いいたします」
ハナガラスは一歩も動けなかった。
全員が立ち去って、しばらくしてから、ふらふらと立ち上がった。
神社から出て、まるで亡者のように、よろよろと町を歩く。
そのうちに、トン、と。誰かに体を受け止められる。アキラだった。
ハナガラスは、ふうと溜め息を吐くと、彼女から離れて自分の頬を何度か叩いた。そして、「よし」と呟くと、アキラが話しかけてきた。
「先ほど、神社の方が光っていたような気がしましたが」
「天使だよ。神社に天使が落ちてきた。間違いない。俺はたしかに見た」
「まあ、なんということ……天使禁制は、本当に破れてしまったのですね。それで、お怪我などは?」
「ない。巫女達も無事だ――シモンが守った」
「シモンが? あの、巫女様を狙う男がですか?」
「ああ。シモンが妙な箱を開けると、それが天使の光を弾き返した」
「箱……ですか。どのような箱でしたか?」
「白くて小さな箱さ。何で出来ているかは知らんが、シモンはずっと持ち歩いていた」
「箱の中身が、重要なようですね。中には何がはいっていたのでしょうか」
アキラの質問に、ハナガラスは一瞬だけ見た、箱の中身を思い出す。
指。あれはたしかに人の指ように見えた。
そして、シモンは巫女に、それを、「天使の腕」だと言った。
「ちらりと見えたんだが、人の指みたいなのが見えた。あいつらは、天使の腕だとかなんとか言ってたが」
天使の腕。ハナガラスがそう言うと、アキラは、ハッとした表情を見せた。
「それは、聞いたことがあります。きっと、天使遺骸というものです」
「天使遺骸?」
ハナガラスが初めて聞く言葉だった。ようするに、天使の死体ということだ。天使教会が、そんな物騒なものを持っていていいものだろうか。まるで邪宗か何かのように思える。
「ええ。何でも、天使の腕を切り落としたもので、不可思議な力があるそうです。きっとシモンは、それを使って巫女達を天使から守ったんでしょう」
「天使遺骸……不可思議な力……そんなものがあるのか」
「何でも、とても貴重なものだとか。同じ重さの金でも足りないと聞いたことがあります。しかし、なるほど。それでは、天使を退けるのはシモンではなく、その箱の中身、天使遺骸だということになりますね」
「ああ、そうに違いねえ。本人もそんなことを言っていた」
シモンは巫女に向かって、得意気に説明をしていた。この箱の中身を使って、私はあなたを守ることができるのだと。間違いないだろう。
「ってことは、あの箱さえぶっ壊しちまえば、シモンの企みはおじゃんか」
花鳥が言うと、アキラは不可解な顔をした。
「なぜ、壊すのですか?」
「そりゃお前、あんな男に神社を好き勝手されても――」
「あなたがその箱を奪えば、いいではないですか」
アキラがさらりと、そんなことを言った。
「……奪う? 俺が、あの箱をか? 天使遺骸ってやつをか?」
ハナガラスは、思いも寄らなかった、というような顔でアキラにたずねる。アキラは躊躇なく、首を縦に振った。
「ええ。それをあなたが奪えば、あなたがシモンの代わりになれます――神社を守ることができます、そして」
アキラは近付くと、そっとハナガラスに耳打ちした。
「巫女様を、あなたのものにすることができます」
体の芯をなめられるような、ぞくぞくとする声。そして、その大胆な提案。
「アキラ、お前――何を――」
とまどうハナガラスを見ると、アキラは優しく微笑み、囁きを続けた。
「あなたは花鳥神社の血筋のものだ。幸いに、遠いのでしょう? 縁もゆかりもないシモンよりは、よほど巫女様を娶るのにふさわしいというもの。そしてあなたは神社を潰すつもりも、天使教会を受け入れるつもりもない。他の人々も、諸手を挙げて受け入れてくれるでしょう」
「いや……しかし……俺は……巫女様を……」
ハナガラスは巫女様に、慶に強い憧れを抱いていた。それが恋慕の気持ちだとは認めたくなかった。そういう邪な心で、穢して良い相手ではなかったから。だから、巫女様を娶るなどと、考えようともしなかった。
しかし、アキラの言葉は、ハナガラスの心の封を溶かしていくかのようだった。
「あなたは愛する巫女を手に入れると共に、あなたをバカにしていた、神社の者達を見返してやることができるのですよ――ハナガラスが、神社を守る花鳥になるのです」
「俺が――花鳥に?」
嫌われ者のハナガラスが、神社を守る花鳥になる。美しい巫女、慶をかたわらに置いて。
それは、夢想することすらできなかった、夢のまた夢の話。空に憧れる地の虫に、羽根をやろうかというほどに魅惑的な提案。
「はい。それが、みんなのため、巫女様のため、神社のため、あなたのため――そして――」
アキラはふわりと、ハナガラスに身を預けてくる。ハナガラスは、反射的にそれを受け止めた。
そしてアキラは、ハナガラスの胸に手を当てながら、震える声で言った。
「ほんの少しだけ――私のためにも――」
アキラは顔をあげる。風が吹き、髪が揺れて、ヤケドの痕が見えた。
ハナガラスはその痕を。その痕を流れていく涙を、美しいとすら感じた。
「――いいだろう。やってやろうじゃないか。花鳥に、なってやろうじゃないか」
シモンを倒すため、神社と巫女様を守るため、俺のため。
そして、アキラ。お前のために。
アキラはハナガラスの返事を聞くと、音にもならない喜びの声をあげた。
「箱を――どうか、あの箱を奪ってください――花鳥亡き後の花鳥に、なってください」
アキラはしばらく泣いた。ハナガラスは、ずっと抱きしめていた。
アキラの涙で服が濡れる。
俺の心は巫女様のものだ。
しかし、この涙が乾くまでは、アキラのことだけを考えるだろう。




