第五篇外伝 五章
「おう、空いてるかオヤジ」
「ああ……って、ひでえなおい。ここは医者じゃねえぞハナガラス」
ハナガラスは全身ボロボロのまま、縞猫屋に駆け込んだ。家よりもこっちの方が近かったからだ。正直、家まで帰れる自信がなかった。行き倒れてしまえば、せっかくの勝利に傷がつく。それよりは縞猫屋に迷惑をかけて愚痴をこぼされた方が、よほどマシというものだ。
「少しやられただけだ。酒もらえるか」
「バカ言ってんじゃねえよ。酒なんか飲んだら血が噴き出しちまう」
「心配すんな。余計な血は残ってねえ」
「お前の心配してるんじゃないよハナガラス。店の床や壁に血なんかついてたら、他の客が怯えちまうだろ。今、水と手ぬぐい持ってきてやるから、顔ぐらい拭きな」
「へっ……客なんか1人もいねえじゃねえか」
ハナガラスが悪態をついている間に、親父は桶と手ぬぐいと焼酎の入った器を持ってくる。
「おう、焼酎か。いいじゃねえか。梅干しでも出してくれよ」
「飲むんじゃねえよバカ。これで傷口洗うんだよ。それにしても、おめえは梅干しが好きだな」
「この店で梅干しよりマシな食い物なんかねえだろうよ」
そんな軽口を叩きながら、男2人で、もたもたと手ぬぐいを絞っていると、店の戸が開いて、1人の客が入ってきた。
「こんばんは……まあ、どうしたのですか?」
入ってきたのは、先日あった背の高い、洋装の女。顔の半分を髪で隠している女だ。
「いや、ちょっとな。たいしたことじゃない。このバカが、ちょっと怪我しやがってな」
女はハナガラスに近付くと、怪我の様子をまじまじと見つめた。ハナガラスはフン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
「あの、よろしければ私にやらせてくださいな。こういうことには心得もありますから」
「そうかい? まあ、男がやるよりは気分もいいだろう。な? ハナガラス」
「……まあ……オヤジにやられるよりはな。頼めるか?」
「はい。ただ、あの、私でも良いですか? 嫌なら嫌と、お気を使わずに言ってくださいね」
申し訳なさそうに言う女を、ハナガラスがちらりと見る。何を気にしているのかと思えば。
「顔のことか?」
「はい。怖がる方も多いので」
顔の左半分を髪で隠してはいるが、動けばちらりとヤケドの痕が見える。かなりひどいらしく、顔の半分がまるまる灼けていた。左目も開いておらず、見えてはいないようだった。
ハナガラスは、女の顔を見つめながら、いつもどおり、不機嫌そうに言った。
「それぐらい怖かねえよ。そこのオヤジを見てみろ。ヤケドもしてねえのにあのツラだ」
「ちげえねえ。ハゲてきたから、髪で隠すこともできねえ」
オヤジが自分で言ってゲラゲラ笑うと、女もクスクスと笑った。
「では、失礼しますね」
女が手ぬぐいを濡らし、慣れた手付きでギュッと絞る。そして、懐から真っ白な木綿のハンカチーフを取り出すと、それを焼酎の入った器に浸した。
手ぬぐいで汚れと血を拭っていく。汚れるたびに洗い、何度も、丁寧に拭いた。最後に、焼酎に浸したハンカチーフを傷口に押し当てて消毒する。
「お顔だけでよろしいですか?」
「ああ、顔と頭は派手に血が出るんだ。体は殴られただけだから」
「そうですか。ではこれで、しまいにしましょう。オヤジさん、終わりました」
女が言うと、オヤジは汚れた手ぬぐいや桶を奥へと引っ込めた。
机に、焼酎で濡れたハンカチーフが残る。酒臭く、血で汚れている。女がそれを手に取ろうとしたのを、花鳥が止めた。
「待て。それは汚いから捨てろ。今度、もっといいやつを弁償するから」
女は少し迷っていたが、最後はうなずいた。
「わかりました。でも、安物ですから。お気になさらず」
「なら、そのうちな。じゃ、とりあえずの礼と言っちゃなんだけどな、一杯おごらせてくれ」
「おう、そうしな。ただ働きすることはねえよ。もう店は閉めるから、他の客のことは心配しなくていい」
奥から戻ってきたオヤジも、花鳥の提案に賛同する。
「ええと……それなら、一杯だけ」
女は申し訳なさそうに言うと、ハナガラスの横に腰掛けた。
「はいよ。ハナガラス、おめえがちゃんと払うんだぞ」
「迷惑料も込みで払ってやるよ」
「お前の迷惑料? だったら店の建て替えでもしてもらわねえと、わりにあわねえよ」
オヤジは笑いながら、店の暖簾を片付けると、酒の用意をはじめた。
女の前に、野性的な赤みを帯びた酒が置かれる。オヤジは焼酎。ハナガラスは、血のめぐりがよくなるといけないと女に言われたので、渋々ながらも番茶を飲んでいた。
女はぐいと杯を開け、ほう、という熱い息を吐いた。
「ああ、美味しいですね。これは何のお酒ですか?」
「山葡萄だよ。よかったら、後で持って帰んな」
「ありがとうございます」
「オヤジ、俺の分も用意しといてくれ」
「おめえは駄目だよハナガラス。せめて今日明日ぐらいは大人しくしとけ」
ハナガラスは、チッと舌打ちをして、きゅうりの漬け物を口に放り込み、番茶をすすった。まるで老人にでもなった気分だ。
「あの、先ほどから、ハナガラスというのは……?」
女は、ハナガラスという呼び名が気になっているようだった。
「ああ、こいつの名前だよ。みんなそう呼んでる。本当の名前は本人も知らねえんだから」
「ほっとけ。まあ、あんたもハナガラスでいいよ」
「そうですか。では、ハナガラス様と」
様、というのは落ち着かないが、呼び捨てだと、この女が落ち着かないのだろう。まあ、呼び名も様も好きにすればいいと思い、ハナガラスは黙ってうなずいた。
「それで、あんたの名前は?」
「私は、アキラと申します」
ハナガラスがたずねると、女は素直に答えた。オヤジも、へーなどと呑気に聞いている。
しかしアキラ。女の名前でアキラかと、ハナガラスは少し引っ掛かっていた。
「アキラか。その、こう言っちゃ悪いが……」
ハナガラスが言葉を濁しながら言うと、アキラはクスっと笑った。
「男のような名前でしょう? 大丈夫。こんなのっぽですが、ちゃんと女ですよ」
「別に女だってことを疑ってたわけじゃないが」
最初は男娼かもしれないと、少し疑っていたのだが、こうして近くで話してみれば一目瞭然だ。声も骨格も、間違いなく女のものだ。
「まあ、隣りの犬はオスでも、モモって名前だしな」
「ありゃ、隣りの婆さんがオスとメスを間違えてつけただけだ」
オヤジの妙な慰めを、ハナガラスが呆れたように返すと、アキラはクスクスと笑った。
「ああ、今日は美味しいお酒です。こんなに楽しいなんて」
笑顔のアキラ。ヤケドの痕など気にならないぐらいに美しく、可愛らしかった。ハナガラスとオヤジは、思わずアキラに見とれてしまう。
「もう一杯どうだい? おお、そうだ。あんずの酒も作ったんだよ」
オヤジが緩んだ表情で、アキラに酒をすすめる。
「オヤジよお……前から思ってたんだが、ずいぶんと洒落たものを作ってるよな」
山桃だのあんずだのと、このむさ苦しいオヤジには似合わない酒を作っている。どぶろくの密造でもしてる方が、よほど似合いというものだ。
「そりゃおめえ、こういうのがあれば、若い女が来てくれるだろ?」
「来てねえし、これからも来ねえよ」
アキラはまた、クスクスと笑った。
「それじゃ、その、あんずのお酒をいただけますか?」
「はいよ。まずかったらごめんな」
客に出す前に味見をしろよとハナガラスは言いたくなったが、オヤジとの漫才はキリがないので、黙っていることにした。
アキラは注がれたあんずの酒を一口飲み、「美味しいです」と微笑んだ。これで2杯目なのだが、態度にも顔にも、酔った様子は一切出ていない。強い方なのだろうか。
「アキラさんは、この辺じゃ見ないが、何をしているんだい」
酔って遠慮のなくなったオヤジがたずねる。それはまあ、ハナガラスも気になることだった。
「ある旦那様の元で、女中として働いております。ここからは離れたところです」
特に隠そうともせず、アキラは答えた。なるほど、女中か。身なりも仕草もいい。教養があるのだろう。きっと、金持ちの女中に違いない。
「女中さんかい。しかし、わざわざ遠くから、何でこの辺りに来たんだい?」
「逃げてきたか?」
ハナガラスが失礼なことを聞くが、アキラは、いえいえ、と手を振って否定した。
「実は、旦那様が病に伏せっておりまして。効く薬を探しているのですよ。そのために、あちらこちらを探し回っております」
「ほう、そりゃ大変だ。見つかりそうなのかい?」
「どうでしょうね……まあ、元々弱っていたので」
「弱っている? 生まれつき体でも弱いのか?」
アキラは酒に口を付けて、半分ほどをクッと飲み干す。そして、遠くを見るような目をしながら言った。
「いえ、もうかなりの年なのです。生きているのが不思議なぐらいの老人なのですよ」
それから3人は、この辺りの噂話や、ハナガラスの武勇伝をつまみに盛り上がった。アキラは、さらに2杯の酒を飲んで帰ったが、足取りもしっかりしていたし、顔色も変わってなかった。ああ見えて、ザルなのかもしれない。
アキラが帰った後、男同士でアキラのことを話す。今日あった女の話というのは、どんな男同士でも盛り上がれる話題だ。
「よぼよぼのヒヒジジイが、あのべっぴんさんをねえ。借金でもあるのかねえ」
オヤジがしみじみ言う。もったいねえ、とでも言いたげだった。
「他人の事情なんてのは、考えたってわからんもんさ。意外に呆気ないもんだったり、想像もしないような理由だったりするだろ」
「そうかい。しかし、まだ若いし綺麗なのになあ。ハナガラス。お前、嫁にもらったらどうだ」
突然の提案に、花鳥は飲んでいた番茶をブッと吹き出す。
「バカ言うな。なんでそんな話になる」
「いいじゃねえか。綺麗で賢くて、お前のことを怖がらねえ。そんな女、他にはいねえよ。それともなんだ? お前、他に好いてる女でもいるのか」
花鳥は茶碗をドンと置くと、オヤジに向かってはっきりと言った。
「そんなもんはいない」




