第二十二章
神社の人々が帰ってきた後、直巳達は天使教会のことや、令の割れた窓について、必死で言い訳を捜索した。
天使教会は調査をしたが何もないので帰っていった。令の部屋の窓は、天使教会が外からはしごをかけた時に、誤って割ってしまった。屋根の調査をするつもりだったらしい、と。
令や夏恵も話を合わせてくれたので、他の人々が疑問に思うこともなかった。夏恵は窓の弁償代も天使教会から受け取っていると言って、薄めの札束を見せた。後で聞いたが、どうやら夏恵のヘソクリらしい。直巳は、内緒よ、と言われ、そこから一枚もらってしまった。
そして、直巳は借りていた自分の部屋に戻り、ぐっすりと眠った。もう、何が何だかわからないぐらいに熟睡した。羽奈美家はうるさいからと、菜子と令も直巳の部屋に来て眠った。もう、何か言う気力もないので、黙って受け入れた。菜子は寝相が悪く、何度か顔を蹴られた。
直巳が目を覚ましたのは、午後2時のことだった。眠ったのが6時ぐらいだったから、たっっぷり8時間は眠れただろう。
四日目の朝。直巳が起きた時、令はもう、部屋にはいなかった。書き置きの一つも無い。
シャワーを浴びて、缶詰で適当に食事を済ませていると、菜子も目を覚ました。
「……お腹空きましたー……頭ベタベタしますー」
菜子はシャワーを浴びて、直巳のTシャツを着て、コーンの缶詰を食べた。
「Tシャツ借りて、ご飯食べて……なんか、お泊まりみたいでドキドキしますねー」
「……缶詰っていうのがキャンプみたいだけどね」
直巳もコーンの缶詰を開け、そのままスプーンを突っ込んで食べた。
身支度を整えて外に出ると、多くの屋台が準備を始めていた。
もう開店しているお店もある。午前中、直巳が寝ている間から準備をしていたのだろう。
それから夕方になるにつれ、屋台も見物客の数も増えていった。
境内を覗く。神楽の舞台も、すっかり準備が出来ていた。
「おや、椿さん。よく眠れましたか?」
夏恵に声をかけられた。彼女は巫女服ではなく、上品な着物姿だった。
「ええ。おかげさまで。賑やかになってきましたね。お祭り、楽しみです」
直巳が言うと、夏恵は目を細めてうなずいた。
「色々な――本当に色々なことがありました。でも、あなたのおかげで、こうして無事に祭りを行うことができます。ありがとうございました」
夏恵が深々と頭を下げる。直巳は、慌てて頭を上げてもらった。花鳥神社の当主に人前で頭を下げさせるのは、何かやばい気がする。
「いえいえ! 僕は僕のやることをやっただけですから! 頭をあげてください!」
「そうですか……まあ、こんな婆に頭を下げられても困ってしまいますね。後は、ゆっくりと祭りを楽しんでください。出店も自由に。あなたの代金はツケにして、こっちに回すよう言ってありますから。何でも好きなだけ楽しんでください」
お祭りの屋台フリーパス。夢のような響きではあるが、伊武もいない今、1人で屋台を堪能するのはちょっと複雑な気持ちだ。
「ああ、それから。7時から令が神楽をやりますので、ぜひ見てあげてくださいね」
「へえ、令が踊るんですか」
「ええ。一応、それが祭りの目的なんです。まあ、細かいことは言わずに、みんなが楽しんでくれれば、それが一番なんですけどね……ああ、いけない。呼ばれてる。それでは」
夏恵はどこからからスマホを取り出すと、誰かと話をしながらどこかへ行ってしまった。祭りの当日だ。当主が忙しくないわけがない。スマホとは洒落たおばあさんだなあと、直巳は笑いながら境内を後にした。
参道に戻ると、人も屋台も賑わっていた。定番のたこ焼き、お好み焼き、チョコバナナ。どれもお祭り独特の雰囲気を盛り上げている。
直巳は試しに、たこ焼きを買ってみることにした。
「はい! いらっしゃい! いくつにします?」
威勢の良いおじさんが、声をかけてくる。
「あ、一つで」
「はいよ! 一つで400円ねー」
さあ、ここからが本番だ。店頭で合い言葉を言うと受けられるサービスですら、チャレンジしたことのない直巳だ。
「あの……俺、椿って言います」
「へえ、洒落た名前だね! 俺は沼田っていうんだ! はい、じゃあ400円ね!」
おかしい。こんなはずじゃない。夏恵さんはたしかに言っていた。屋台の代金はツケにしておくから好きに楽しめと。なのにこれはどういうことだ。このおじさんが沼田だということがわかり、小銭を請求されているではないか。
直巳は顔を真っ赤にして、代金を払うためにモソモソと財布を取り出した。
「兄ちゃん、この辺の人じゃないねえ。祭りの見物に来たの?」
沼田のおじさんが――予定外の自己紹介をしたので知っている――気さくに話しかけてくる。直巳は小銭を取り出しながら答えた。
「ええ。まあ、手伝いというか……そんなところです」
「へえー、手伝いねえ……ん? あれ? もしかして、あんたあれかい? 夏恵さんの言ってた若い手伝いの男って……兄ちゃんのことかい?」
「ええ……多分、そうだと思いますけど……」
直巳がそういうと、隣りの焼きそば屋の若いお姉さんが口を出してきた。濃いメイクに茶髪で妙に可愛いという、お祭りの屋台によくいるタイプのお姉さんだ。
「おじさーん。多分、このお兄さんだよ。あれ、たしか椿っつってた気がするしー」
「あれ!? ああ、そうかい! じゃあ金はもらえねえよ! あぶねえあぶねえ! 夏恵さんに怒られちまうとこだった! ほら、持ってきな! もう一個いるかい?」
沼田のおじさんは金を受け取らずにたこ焼きを押しつけてきた。さらに、もう一個持っていけとすら言う。これが花鳥神社の当主の力か。直巳は夏恵の権力に安っぽい戦慄を覚えた。
「あ、いや。一個で大丈夫です。ありがとうございます」
直巳はぺこぺこと頭を下げて受け取ると、今度は焼きそば屋のお姉さんが声をかけてきた。
「ねえ、若ー。うちの焼きそばも食べてってよー。もやしたっぷりだよー。おごっからさー」
「あ、どうも――若?」
「若でしょー? 夏恵さんから聞いてっから。マジすごいね」
お姉さんはそう言いながら、慣れた手付きで焼きそばを詰めていく。妙に盛りがいい。
「お待たせー。沢田の焼きそば超美味かったって、夏恵さんにちゃんと言っといてねー」
「ど、どうもー……」
沼田さんのたこ焼きに続き、沢田さんのもやしたっぷり焼きそばも手に入れてしまった。さらに近くの屋台も、なんだなんだと覗き込んできている。
このままだと大変なことになりそうだったので、直巳はその場を去ることにした。
目立たないよう、物陰で隠れるように、たこ焼きと焼きそばを食べる。味はすごく普通だった。焼きそばに関しては、何だか味がボヤっとしている。超美味いどころか、ややまずいと言ってもいい。がんばれ沢田さん。
「つ、椿さんがお祭りでボッチ飯してますー!」
突然、声をかけてきたのは菜子だった。巫女服を着ているのは昨日と同じだが、髪をきちんと結んで、和紙でくるんでいる。
「どうしてお祭りでボッチ飯なんですか! 言ってくれれば、菜子が一緒に食べたのに!」
菜子は信じられないものを見た、とでも言うように、わなわなと体を震わせている。
「い、忙しいと思ったんだよ!」
「椿さんにお祭りでボッチ飯させるぐらいなら、仕事なんか抜け出します!」
「わかったから、ボッチ飯って連呼するのやめてもらえる?」
「いいから、一緒に食べましょう! ほら!」
そういうと、菜子は勝手にたこ焼きを取り、口に放り込んだ。
「ほふ……これで……ほふほふ……ボッチ飯じゃ……ほふ……ないれふよ……」
「はいはいそうだね。熱かったんだね」
熱いたこ焼きをほふほふしている菜子は可愛かったが、巫女装束でやることなのだろうか。まあ、菜子なら他の人に見つかっても、笑って済ませられるだろうが。
「あー、熱かった……それよりほら! そろそろ、お神楽始まりますよ! お姉ちゃんの晴れ舞台なんですから! 見ないと許しませんよ! ほら! その美味しくない焼きそばをさっさと食べちゃってください!」
「わかった! わかったって! 美味しくないってはっきり言ったね!」
「もやしだらけだから、沢田さんのでしょ? あの人の焼きそば、もやし多いのに塩足りないから美味しくないんですよ!」
ああ、だから味がぼやっとしてるのかと納得しつつ、直巳は残りを片付けて、菜子に腕を引っ張られて、境内まで向かった。
菜子と一緒で目立っているせいか、途中、屋台の人間から声をかけられた。ただ、内容が若だの羨ましいだのと、直巳にはよくわからなかった。
時刻は、後数分で夜の七時になるところ。
舞台の前には、多くの人が集まっていた。舞台上に、まだ令の姿はない。雅楽の演奏者が集まって、もぞもぞと準備をしていた。
「間に合いましたねー。お姉ちゃん、時間に厳しいですから――ほら! 来ました!」
菜子が興奮した様子で直巳の腕を引っ張る。直巳は言われるまでもなく、ちゃんと舞台を見ている。
舞台袖から、令が出てきた。その瞬間、観客の感心したような声が広がり、カメラのフラッシュがいくつも焚かれた。
令は巫女服の上から、何か豪華な――直巳はそれを何と呼ぶのかは知らないが――をつけて、しっかりと化粧もしていた。
そこまでなら、直巳の他の神社で見たことがあるのだが、特徴的なのが、頭の羽根飾りだった。これは他で見たことがない。いくつもの真っ白な羽根がつけられた飾り。聞くまでもなく、これが花鳥を現わしているのだろう。
ゆったりとした雅楽に合わせて、令が舞う。舞台の周りに置いてあるたいまつが、その幽玄な雰囲気を強調していた。
浮き世離れした姿、非日常の美しさ。まるで、絵画の中から出てきたようなとは、このことだろう。
「お姉ちゃん……綺麗ですねー」
「……そうだな。すごく綺麗だ」
ぽーっとしたような菜子の言葉に、直巳の素直に答える。舞台上で舞う巫女は――令は本当に綺麗だ。嘘をつく必要はない。
そして、神楽を見ている直巳は、あることに気づいた。
頭につけた羽根飾り。どれも真っ白なのだが、一枚だけ、真っ黒な羽根が混ざっていた。端っこの方に一枚だけ。でも、たしかに真っ黒な羽根。
あのカラスを祀るという約束――令はたしかに果たしているのだ。この神楽は、花鳥だけではなく、あのカラスにも捧げているのだ。
観客も気づいているだろうか。あの、一枚だけ入っている黒い羽根に。やがて、黒い羽根の由来もきちんと整理されて、みんなに伝わっていくのだろうか。そうなれば、カラスも満足だろうと思う。あれが、あまり良い存在だとは思えないけども。
そんなことを考えている間にも、神楽は続いていく。令は淀みなく舞い続け、観客はその姿に見とれていた。神楽の意味や、振りの意味など、わかる人間はほとんどいないだろう。それでも、みんな心を惹かれるのだ。美しい人が、美しく舞っている。それで十分だ。
そして神楽は滞りなく終わり、観客から拍手が巻き起こる。直巳は笑顔の菜子と顔を見合わせながら、たくさんの拍手をした。
舞台から退場する令。最後に、黒い羽根だけが直巳の視界に、一瞬だけ映った。
これから毎年、あの黒い羽根が飾りに加わるのだろう。そして、この神社は、花鳥と一緒に、あの真っ黒で大きなカラスも祀り続けるのだ。
直巳はそんなことを考えながら、ふと、気になることがあった。
この神社で祀っているのは花鳥だ。そういう名前がついている。
さて、それならば。あのカラスには、何という名前をつけるのだろうか。
神楽が終わった後も、花鳥祭は滞りなく進んでいった。令はたまに姿を現わしては、若干ぎこちないながらも、上品な笑顔を振りまいていた。そのたびに、みんなが花鳥様、巫女様と声をかける。まるで、地元のアイドルのようだった。花鳥の巫女というのは、昔は本当にアイドルのような存在だったのかもしれない。
夜も10時を過ぎると、屋台は閉まり、一般客もほとんどいなくなっていた。
特に終わりのアナウンスが出るわけではないが、境内が閉まった時点で、今日の祭りは終わり、という雰囲気になる。
11時にもなると、屋台はシートをかけられ、人影もなくなる。ただ、祭りの後というわけでもない。これが後2日続くのだ。明日への予感があるので、寂しい感じはなかった。
だが、直巳は明日の朝には帰るつもりだった。もう、花鳥は帰ってきた。祭りも無事に終わった。これ以上、残っていることもないだろう。
直巳は、明日の朝に帰るのだと夏恵に伝えるため、羽奈美家へと向かった。すっかり顔なじみになっているので、玄関から居間に通される。部屋には日本酒の匂いが立ちこめていた。明日も明後日もあるというのに、大人達は初日の打ち上げを陽気に楽しんでいる。
それも無理はないかなと、直巳は思う。天使教会のプレッシャーや、不可解な事件もあり、花鳥祭自体が中止になる恐れすらあったのだ。これは祭りを無事に開催できたお祝いでもある。祭りは後2日残っているが、睡眠不足と二日酔いぐらいは何とでもなるだろう。大いに盛り上がって楽しむべきだ。
直巳が居間を見渡していると、上座にいる夏恵が手招きしてきた。直巳がそばに行くと、豪快に肩を組まれた。
「ほら、みんな! 若様が来たよ!」
夏恵が大声で言うと、場の大人達が若様だ若様だとはやし立てる。
直巳は苦笑いしながら、軽く頭を下げて、夏恵に耳打ちした。
「夏恵さん。屋台の人にも言われたんですけど、若様ってなんですか?」
「借りは返すと言ったじゃないですか。あなたはよくやってくれた。天使教会を追い出し、祭りも成功させたんです。あなたが若様で、誰も文句は言いません」
「いや、だから……それがどうして若様になるんですか」
「この神社を差し上げると言ったじゃないですか」
直巳達が自分の目的を明かした時のことだ。もし、祭りを成功させたらこの神社を差し上げると、夏恵は言っていた。伊武は婆さんがボケた、と一蹴していたが。
「あー……そういえば、そんな冗談も言ってましたね」
「冗談? 何が冗談なものですか。神社は差し上げる。つまり、令を差し上げるということです。まあ、婿入りしてもらいますが。若い2人で、この花鳥神社をもり立てて――」
「は!? いやいやいや! そんな話聞いてないですよ!」
神社を差し上げるというのは、令を嫁にやる、ということだったらしい。直巳は驚いたが、この場に伊武がいなくてよかったなと、冷静に思っている。
「おや? 令が気に入らないとでも? 身内の贔屓目を抜きにしても、あれは美人でしょう。見合いの申し出もひっきりなしですよ」
「ま、まあ……美人だとは思いますけど」
実際に美人だとは思うので嘘ではないが、ここで令が美人じゃないとは言えない。そんなことを言えば、酔っ払った大人達に何をされるかわからない。
「そうでしょうとも。あれは姉様にそっくりの美人だ。こう言っちゃなんだが、椿さんが普通に生きてたら、令のような娘と結婚するのはとてもとても……顔立ちも普通ですし」
「くっ……このっ……菜子と同じことを……! 姉さんは俺のこと、かなりのイケメンだって言ってくれてるんだからなー!」
つばめは弟への評価が甘いので、当然信用ならない。ちなみに、直巳のつばめに対する評価はさらに甘い。可愛いと評判のアナウンサーを見て、「姉さんの方が可愛いじゃん」と思う程度には病状が進行している。
そんな直巳の叫びも無視して、夏恵は何かを思いついたようにポンと手を叩く。
「おお、そうか。今日は祭りの日だった。なら、夜這いだ夜這い。他の男なら切り落とすところだが、若殿なら見てみぬふりをしますから。さ、令は部屋にいますから。早く早く」
「人の話を聞けババアー!」
直巳が叫ぶと、酔っ払った男達が立ち上がった。
「ご当主様をババアとは失礼な! 義理の祖母になるんだぞ!」
「令ちゃんの何が不満だ! あんな美人、滅多にいないぞ!」
「そういやこいつ、菜子ちゃんと仲良かったぞ! そっちじゃないのか?」
「何ぃー? 菜子ちゃんにまで手を出そうとは鬼畜か貴様!」
わらわらと酒臭い男達に、よってたかって絡まれる。
「うるせえー!」
キレた直巳が叫ぶ。部屋に立ちこめる酒の匂いで、少し酔ったのかもしれない。
「おお、いい度胸だ! よし! 表に出ろ! 令ちゃんにふさわしい男かどうか、俺達が確認してやるからな!」
「な、なんだ!? 何をする気だ!」
「いいからこい! 俺達が鍛え直してやる!」
そのまま、直巳とおじさん達は連れだって表に出ていった。
その後の記憶が、直巳にはない。
次に直巳が気が付いたのは、深夜、借りている離れの部屋だった。
「あれ……? なんだこれ……? どうしてだ?」
パンツ一枚で布団の上に転がされている。全身が土で汚れているし、なんか体も痛い。
水でも飲もうかと立ち上がると、パンツがズルッと落ちた。ゴムが切れているらしい。
「なんだ……? なんでパンツが駄目になってるんだ?」
直巳が辺りを見回すと、スマホにメッセージが届いていた。
直巳が携帯を開くと、メッセージは菜子からだった。
「大盛り上がりでしたね!」という文章と共に、何枚かの写真が添付されていた。
そこには、おじさんとパンツ一枚で取っ組み合う直巳。おじさんにパンツを引っ張られ、思いきりパンツが食い込んでいる直巳。転がされて土まみれになる直巳。次は俺だと言わんばかりに直巳を囲む、パンツ一枚のおじさん達。真冬に、羽奈美家の前で。
「……相撲?」
そうか相撲か。俺は無数のおじさん達と相撲を取って気絶したのか。だからパンツが駄目になっているのか。いや、そうじゃなくて、どうして相撲になったんだ。
とりあえず、周りで見ている人達も楽しそうなので、変なことにはなっていないだろう。
よく考えてもわからないので、直巳は水を飲んで、もう一度寝ることにした。
パンツは変えるのも面倒くさいので脱いだ。
翌朝。部屋の目覚まし時計が鳴り、直巳は5時ピッタリに目を覚ます。いつ、目覚ましをセットしたのかは覚えてないが、早く帰ろうと思ったのでちょうど良い。
とりあえずシャワーを浴びて汚れを落とし、着替えを済ませる。簡単に荷物を整理して、帰る準備をした。余った食料はそちら使ってください、伊武の荷物は後で送ってくださいとメモ書きを残して。何かあっても、後で携帯で連絡を取ればいい。
本当は掃除もしたかったのだが、今回は勘弁してもらおう。直巳は自分の荷物を持つと、部屋を出た。
数日間住んでいた、小さな離れを見る。やっと帰れるという気持ちと、少し寂しい気持ちの両方があった。
「お世話になりました!」
直巳は声に出していい、気持ちに区切りをつけ、帰るために入り口へと向かっていった。
夏恵さんに挨拶をしようかとも思ったが、あのババアは何を言い出すかわからないので、さっさと退散するに限る。夏恵さんは愉快で聡明な人だし、嫌いではない。ただ、その分、厄介なだけだ。そのうち、また挨拶にでも来ようかなと思う。
直巳は、人のいない屋台が立ち並ぶ朝の参道を歩きながら、神社に別れを告げる。
そして、入り口の石段に来たところで、掃除をしている巫女さんと目があった。
令だった。巫女服の上に、千早まで着ている。薄くだが、化粧もしているようだった。
「おはようございます」
ぼーっと令を見つめる直巳に、令がにこりと微笑んで挨拶をしてきた。
「あ、えーと……おはようございます」
直巳がぺこりと頭を下げると、令はフッと小さく笑った。
「よかった。こっちを通ってくれて。裏口から帰られたら、どうしようかと思った」
「最後だからね。ちゃんと表から帰ろうと思って」
「そう。下にタクシーを待たせてあるわ。こんな早くからじゃ、バスもないから」
「あ、そっか。ありがとう……って、どうして俺がこの時間に帰るってわかったの?」
「目覚まし。セットしたの、私だもの」
今朝、5時に鳴った目覚まし。セットした記憶がなかったが、どうやら令がやってくれたらしい。
それは非常に助かる。助かるのだが、いつセットしたのだろうか。
直巳の疑問を見抜いたかのように、令がまた、クスっと笑った。
「昨晩、楽しそうだったわね。相撲。部屋の窓から見てたわよ」
「ああ……やっぱりあれ、相撲だったんだ」
「覚えてないの? ま、終わった途端に寝ちゃったしね。大変だったのよ。あなたを担いで部屋まで連れていくの」
「え。令が連れてってくれたのか」
てっきり、おじさん達に放り込まれたのかと思っていた。
「ええ、そうよ。重いし、パンツは落ちるしで大変だったわ――気にしないで。事故みたいなものだから」
どうやら、はっきりと見られているらしい。別に見られて困るものでもないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「それは……ご迷惑をおかけしまして……」
「いいのよ。それぐらい……その、私もね。きちんとお礼を言ってなかったから。今朝、会えるといいなと思って、待っていたの」
そういうと、令は直巳に近付いてきて、深く頭を下げた。
「菜子から聞いたわ。ありがとう。神社だけでなく、私も助けてくれて……正直、花鳥様と一体化してからのことは、覚えていないの。でも、殺されてもしょうがないところを、あなたが何かして、助けてくれたって。それに、あのカラスのことも」
「ああ……カラスか……」
昨晩、令の命を狙いにきたというカラス。令を守ったり、殺そうとしたりと、行動に謎が多かった。そして、その謎は今も解明されていない。
「ま――とにかく終わったんだ。令はお祭りに集中してね。今日も神楽、やるんでしょ? 昨日見たけど、すごかったよ。綺麗だった」
「ええ。菜子と一緒に見てくれてたわね。舞台から見えてたわ――でも、あれはあなたのためじゃないわ。みんなのためにあの衣装を着て、みんなのために舞ったのよ」
「そりゃまあ……そうだけど……」
「――でも、今はね。あなたにお礼を言うために、あなたよりも早起きして、正装して、お化粧もして、ここで待っていたのよ。掃除をする振りをして――何か言うこと、あるでしょ?」
「そ、そうなんだ……それはどうも……なんか、ごめん」
直巳が申し訳なさそうに言うと、令は深い溜め息をついた。
「はぁ……いいわ、もう。わざとだったら、私の立場がないしね」
令はあきれたように笑うと、直巳に近付いてきて、神社の入り口の方を指差した。
「ねえ、あそこにストライプキャットっていう、ださい喫茶店があるの知ってる? 地元の人は、しまねこって呼んでるんだけど」
「え? ああ……入ったことはないけど、知ってるよ」
「そう。あそこ、大体のものはまずいんだけど、ハヤシライスだけは美味しいのよ。言えば量も多くしてくれるから、きっと男の人でも満足できるわ」
「へえ……そうなんだ……」
「そうなの。だから、今度遊びにきたら、お礼にご馳走するわ。約束よ? いい?」
「そ、そう? じゃあ、その時はご馳走になろうかな」
「その……1人で来なさいよ」
「う、うん。わかった」
「――約束、したからね」
直巳は、先ほどから令が何を言いたいのか、よくわからない。ただ、流されるままに返事をするだけだ。
それでも令は満足そうな表情をしていた。日にちも時間も決まっていないが、たしかに食事の約束をしたのだから。生まれて初めて、男の子と。
こんな口約束で、来てくれるとは思わない。変な社交辞令だと思われているだろう。それでも、次に直巳が1人で来てくれたら、令はちゃんと言おうと思っていた。
おばあさまとの約束、どうしようか? と。
令は最後に、直巳の顔をジッと見つめた。菜子が言うとおり、そこまでいい男だとは思えない。普通の顔立ちだ。おじさん達に相撲でボコボコにされてるところも見た。ビロビロのパンツが脱げたところも見た。あんなに情けない姿も、滅多に見られるものではないだろう。
それでも令は、この顔を忘れたくないなとは思っている。
直巳は令に見つめられて、少しビクついている。先ほどから、令の発言や行動が理解できないので、何が起こっているのか理解できていない。
令は直巳の顔を眺めるのに満足すると、フッと息を吐いて気持ちを切り替えた。
「――タクシー、あまり待たせても悪いわね」
「ああ……そうだね。それじゃ、そろそろ行くよ」
もう、話は終わりということだろう。直巳はカバンを持ち上げ、石段を下っていく。
令はただ、その背中を見つめていた。
途中、直巳が振り返る。
「あ、そうだ。一つ聞きたいことがあったんだ」
「なあに?」
「あ、そうだ。あのカラスを祀ることになったんだよね?」
なんだ、そのことかと、令は内心で少し落胆する。
「――ええ、そうよ。お社を建てて、あの剣を祀るわ」
「今いるのは花鳥様だよね。じゃあ、あのカラスはなんていう名前になるの?」
「ああ……そのことね。昨晩、名前を考えたのよ。まだ、誰にも言ってないけど」
「へえ、なんていうの?」
「黒い花鳥様だから――花烏よ」
花烏か――直巳は、真っ白な花を咲かせた桜の木に、一羽のカラスがとまっている風景を思った。満開の花の中に、たった一匹のカラス。小さな黒い点のようなものだ。桜にカラスは似合わないだろう。でも、カラスはたしかにいる。花とは違う存在として、たしかに、そこにいることがわかる。
「うん――いい名前だと思う」
直巳はそう言うと、手を振って令に別れを告げた。
今度こそ、振り向くことなく、神社から去っていった。
帰りの電車の中。花鳥神社から、だんだんと離れていく。
直巳の顔は真剣なものになっていた。神社では見せまいとしていた表情。
障害はあったが、神社と花鳥は守られた。成功と言っていいだろう。
Aの望み通りになったはずだ――そう、望みどおりに。
天使教会のことは想定外だったかもしれない。それでも、花鳥、青年、大きなカラス、令に取り憑いていた何か――Aはそれらのことを知っていたはずなのだ。恐らくは、アイシャも。
事件の理由。なぜこうなったのか。それが終わると、どうなるのか。
それを聞くまで、この不思議な話が――直巳の花鳥奇譚が終わることはない。




