第九章
直巳は令と別れた後、部屋に戻った。
伊武に戻ったことをメールで伝えると、10分ほどで伊武が帰ってきた。
「ただ……いま……」
外の匂いをまといながら、伊武が部屋に入ってくる。直巳はおかえり、と声をかけてから、熱いコーヒーを煎れて差し出した。
「何か、おかしなことはあった?」
直巳がたずねると、伊武はカップを持ったまま、ふるふると首を横に振った。
「異常……無し……椿君……は?」
「俺は、天使教会の人間と話をした。昨日、夏恵さんと話してた、アキコという女性だ。後は、令とも少し話したよ」
その言葉に反応し、伊武がピクリと眉を動かして、直巳のことを見つめる。
別に、天使教会の人間と接触したことを責めているわけではない。ただ、直巳に怪我などの異変がないかをチェックしているだけだ。
伊武は頬が少し赤くなっているのを見つけたが、怪我というほどでもないし、直巳も何も言わないので、黙っていることにした。黙っているだけだ。忘れることはない。
問題は、誰がやったのかということ。天使教会という立場があるアキコが突然にビンタするとは思えない。それに、天使教会と揉めたなら、直巳はこんなに冷静ではないだろう。ということは、やったのは令だ。
令が直巳をビンタした――それを頭に叩き込むと、伊武は静かにうなずいた。
「そう……話を……聞か……せて……」
「ああ。まず、アキコと話したことだけど――」
直巳は、アキコとの会話内容を伊武に伝えた。アキコの考え、目的を。
特に、悪霊のようながものがいる、ということと、天使禁制が迷信である、ということは、間違いがないように、しっかりと伝えた。
直巳が話し終わると、伊武は大きくうなずいて、質問をしてきた。
「椿君……は……そいつの……話を……どれくらい……信じた……の?」
「信じてない。というよりは信じられない」
直巳が否定すると、伊武は静かに微笑んだ。
「私も……同じ……」
「だろうね。伊武は、俺よりも彼女を疑うはずだ」
アキコの話は、たしかに筋が通っているように聞こえる。ただ、一点だけ破綻しているのだ。そして、それは絶対に無視のできないこと。
「アキコは天使禁制が無いと、迷信だと言い張っている」
それが、アキコの話を信じられない理由だった。
この神社内に、天使避けはある。間違いなくある。迷信ではない。それは、人造天使アブエルを付けている伊武が体感していることだ。伊武は、この神社内でアブエルの力を、天使の力を使うことができない。
正確に言うと、使うことはできるが、伊武は耐えられないほどの苦しみを味わうことになる。普通の人間より何倍もタフな伊武が音を上げるぐらいだ。それを迷信だと切って捨てるというのは、おかしな話だ。
そして、もう1つの違和感。
「悪霊は……わかるのに……天使禁制が……わからない……というのも……おかしい……」
伊武の言ったとおりだ。
天使教会であれば、実際に存在する天使禁制の方に気づくだろう。天使付きの1人でも連れてくれば、すぐにわかることだ。存在が確認できる天使禁制は無いと言い張り、あやふやな悪霊はいると言い張っている。
「アキコの話は彼女の願望だと思う。花鳥と天使禁制はなく、悪霊はいる。そうであれば、アキコの大義名分が成り立つ」
直巳が自分の意見をまとめる。間違ってはいないと思うが、伊武は難しい顔をしていた。
「……伊武? 何か気になることでもある?」
「あの……アキコの話は……どこが嘘……なんだろう……」
「どれが?」
「うん……花鳥……天使禁制……悪霊……全部……嘘……なのかな……」
伊武に言われて、直巳は令の話を思い出す。彼女も、花鳥、天使避け、悪霊の存在について話していた。
「令は、花鳥と天使禁制はある。悪霊はいないと言ってた」
「なら……アキコと……真逆……だね」
「だとしたら、令の方が信じられると思うけど……」
「そう……かな……私は……まだ……結論を出さない方が……いいと……思う……」
「――気になることがあるの?」
直巳の質問に、伊武はうなずいて肯定した。
「天使教会は……悪霊を……退治しようと……しているんでしょう……? なら……その悪霊って……何……? ただ……でっちあげた……だけ?」
悪霊の存在。それは、アキコが無から生み出した存在なのか。自分の話のつじつまを合わせるためだけに作り上げたものなのか。
「その可能性は……高いんじゃないか?」
直巳が言うと、伊武は申し訳なさそうに、小さく首を横に振った。
「じゃあ……天使教会の人間を……襲った……犯人は……何? 本当に……人間?」
「あ、いや……うん、そうか……それが残るか……」
あれが人間の仕業だとは思えない。伊武はそう言っていた。たしかに、犯人の姿も足音も見つかっていないし、凶器の想像すらできないのだ。その可能性は高い。
「なら……悪霊は本当にいて……アキコは真実を――」
そこまで言って、直巳は令の言葉を思い出した。
悪霊なんて、いるわけがないでしょう。
あなたまで、そんなことを言うの?
令の否定の仕方に違和感を覚える。
この言い方だと、何か思い当たることがあるようにしか思えない。
「……本当にいるのか? 悪霊が」
直巳はもう一度、情報を頭の中で整理する。令とアキコは何と言っていたか。花鳥と天使避け、それから悪霊の存在。
もし、2人の言葉が、どちらも真実なのだとしたら。それが成立する条件は――。
花鳥はいる、いない。天使禁制はある、ない。悪霊はいる、いない。
悪霊なんているわけがない。あなたまでそんなことを言うの。
アキコは悪霊を消したい。そうすれば天使避けも花鳥も迷信だと証明できる。
「――まさか」
直巳が1つの答えに辿り着く。
それは恐ろしい答えだった。
相手が伊武とはいえ、こんなことを口に出してもいいのだろうか。
「……聞かせて……驚かない……から……」
とまどう直巳に向かって、伊武が落ち着いた声で言う。
「……推理だよ。あくまで推理だ。そういう考えもあるってだけの」
直巳は溜め息のような深呼吸をしてから、自分の考えを伊武に伝えた。
「悪霊が花鳥のことだとしたら……話が成り立つ」
令の信じている花鳥が悪霊だとする。悪霊が天使禁制の力を持っている。アキコは悪霊を倒したい。倒せば、花鳥も天使禁制も消える――迷信だったと言い張れる。
伊武は直巳の話を聞くと、考え込んでから口を開いた。
「アキコの……天使禁制の……否定は? 悪霊が……天使禁制を……していると……言えば……介入の理由は……強くなる……よね……?」
伊武の意見は、アキコが天使禁制に気づいているが、とぼけている。というのを前提とした話だ。直巳も、そうだとは思う。気づかないわけがない。
「……アキコが天使禁制を肯定したとする。そうすると、花鳥の存在を肯定するか、悪霊が天使禁制を持っているか、ってことになるよね」
「うん……そうだね」
「アキコは花鳥の存在は認めていない。なら、花鳥イコール悪霊だと言っていることになる。それは神社側の反発を受けることになって、結局は強制的な制圧になってしまう」
「アキコは……あくまで……穏便に……神社側に……協力したいって……こと?」
「そうじゃないかな。それだと、アキコの考えにも一致するし――」
直巳はそこで口を閉ざしてしまった。
たしかに、何もかもがアキコの考えと一致するのだ。何もかも。あまりにも綺麗に一致しすぎる。そして、アキコの理屈に穴が見当たらない。
だが、アキコの考えを肯定するということは、令の考えを否定することになる。
天使教会を信じて、令を否定する――それでいいのだろうか。
令を信じてやりたいが、そうするには材料が足りなすぎる。
「……花鳥が姿でも見せてくれれば……令を信じられるんだけどな……」
直巳が呟くと、伊武は小さく笑った。
「椿君……まだ……仮定だよ……考えすぎないで……」
「あ、ああ……そうだな……アキコに流されてるのかな。よくないな」
直巳が申し訳なさそうに言うと、伊武はにこりと笑った。
「大丈夫……だよ……私は……アキコのこと……信用して……ないから……」
「それは、どうして?」
「悪党ほど……よく喋る……ものだから……聞かれても……いないことを……」
理屈ではないのだろう。伊武は、直感的にアキコを疑っている。
「――そうだな。話しが出来すぎてて怪しい……そんなところで終わりにしようか」
「うん……それじゃ……ご飯……食べようか……私……作るね……」
昼食は、伊武がチャーハンを作ってくれた。味はなかなか、量はすさまじい。
それから、頭を使ったから、ということで、買っておいたシュークリームを出してくれた。
疲れた頭に、クリームが染みていくようだった。




