タヌキの恋
「さばえ近松文学賞2014」落選作品の改稿です。鯖江に関するモノを登場させるのが条件。
金曜日の夕方。天井初音は、梅田の職場を出て、お初天神通を南に向かって歩いていく。今日は、大学時代から付き合っている平野徳一とのデートである。
お初天神通の南端、通称「お初天神」と呼ばれる「露天神社」に着いたとき、南側から徳一が歩いて来るのが見えた。初音は手を振って駆け寄った。
徳一は、京都の大学の法学部、法科大学院を経て司法試験に合格、司法修習を終えて、昨年から大阪地方裁判所で裁判官として勤務している。一方の初音は同じ大学の教育学部を卒業、人材サービスの会社に就職し、阪急梅田駅に近接するオフィスビルで、採用や社員教育に関する企画営業に携わっている。
今日は、お初天神通にあるという徳一のオススメの店に飲みに行くということで、このお初天神を待合せ場所に設定した。ちょうど、二人の職場の中間地点に当たるので、位置として合理的だろう、と徳一は言ったが、初音が思ったのは別のことだった。ここは、近松門左衛門の有名な人形浄瑠璃「曽根崎心中」の舞台となった地で、今でも縁結びの神社として知られている。そんな場所をデートの待合せに使うなんて、ロマンチックじゃないか、と思ったのだ。
「ここって、近松門左衛門の『曽根崎心中』ゆかりの地なんでしょ。」初音は切り出した。「うちの近くに、近松門左衛門のお墓があるんよ。それだけじゃなくて、『近松記念館』とか『近松公園』まであるんよ。大げさよねぇ。」
初音は、尼崎生まれで、今も尼崎市の塚口あたりの実家に住んでいる。近くには、境内に近松門左衛門の墓標がある広済寺や近松記念館、近松公園があり、尼崎市が一帯を「近松の里」として整備している。
「『近松の里』か。うちの実家の鯖江でも言うとるわ。」徳一が苦笑いしながら言った。「近松門左衛門が鯖江で幼少時代を過ごした言うてね。鯖江市がそれをネタに町おこししようとしてるわけよ。『ちかもんくん』なんてキャラクターも作ってさ。」
徳一の実家が福井県の鯖江だということは知っていたけれども、鯖江が近松門左衛門のゆかりの地だということは初めて聞いた。
「へえ。ちかもんくんってどんなん?鯖江のキャラだけに、メガネかけてたりして。」初音がふざけて言うと、徳一は、「かけてへんよ。その、鯖江イコールメガネ、ていうステレオタイプやめれ。」と返してきた。
初音はふと、学生時代のことを思い出した。大阪の進学校出身の初音は、大学入学時は、黒縁のメガネをかけた、オシャレとは縁のない典型的なガリ勉娘の風貌だった。初音は、中学時代にソフトボールをかじったこともあるので、ソフトボールのサークルに入会した。同級生の徳一と出会ったのは、そのサークルでのことである。
その風貌だけに、初音が男子学生たちの注目を集めることはなかったが、徳一だけは初音に好意をもっているようで、一人でいがちな初音によく話しかけてきてくれた。初音も、徳一のことは悪からず思っていた。
ある日、サークルの練習が終わり、初音がメガネを外してタオルで汗を拭いていると、三年生の男子メンバーが「天井ちゃん、メガネ外したらかわいいやん。」と声をかけてきた。それを聞いた他のメンバーも初音のまわりに集まり、ほんまや、めっちゃキレイ、メガネやめてコンタクトにしなよ、と冷やかした。初音もその気になり、早速コンタクトレンズを買って、次の週からコンタクトでサークルに出た。メンバーの評判は上々で、初音も自分に自信が持てて性格も明るくなったような気がした。
それから数週間後、初音の誕生日の日、徳一にデートに誘われた。まず向かった先は、河原町通のメガネ屋だった。徳一は、誕生日プレゼントだ、と言って、メガネを買ってくれた。軽くて丈夫な、スポーツに適するモデル。ツルの部分は細いメタルだけれど、リムが太くて茶色っぽい色のフレームを勧めてくれた。なんかタヌキみたい、と思ったけれど、鏡で見てみると思いの外似合っていたので気に入った。徳一は、慣れないハードコンタクトを入れてほこりっぽいグラウンドでいつも目を真っ赤にしている初音が見ていられなかったのだといった。この日をきっかけに、初音は徳一と付き合うことになった。
「しっかしまあ、曽根崎心中ばっかりやなあ。」徳一は、お初天神通を歩きながら言った。アーケードには、曽根崎心中の徳兵衛とお初を描いたデザインのフラッグが、何種類もぶら下がっていた。
「そりゃまあ有名な曽根崎心中ゆかりの地のお膝元やからね。それにあやかって販促やろうっていうのも当然でしょ。お初天神は「恋人の聖地」にもなってるし。お初天神通商店街もカップル向けのデートスポットとして最適なんじゃない?」
「とんでもない。」何気ない初音の言葉に、徳一が強く反駁したものだから、初音は少しびっくりした。
「曽根崎心中って、あれだ。徳兵衛が勤めてた店の主人が自分の娘と徳兵衛を無理矢理結婚させようと徳兵衛の親に結納とか言って金握らせて、徳兵衛はお初って女がおるからってその縁談断ったら金返せ言われて、で返そう思ったらその金友達に貸して言われて貸したら踏み倒されたあげく結納金横領したやろ言われて、追い詰められてお初と心中することを選びましたって話やろ。そんなえげつない話販促に使うなよ。そのゆかりの地が『恋人の聖地』だって?ふざけんじゃねえ。だいたい徳兵衛かて心中選ぶ必要なんかないねん。借金の証文持ってるんやったら民事訴訟で取れるがな。詐欺罪で刑事告訴かてできるやろ。それ以前に店の主人や。本人に承諾も得ず他人の縁談進めて親に結納握らせて、断られたからって金返せって。それ、不法原因給付やから返還請求できへんぞ。本人の意思に反して結婚決めるなんて憲法第二四条違反、公序良俗違反やから・・・」
さすが裁判官だな。初音は感心したが、ちょっと言い過ぎだろう。お初天神を待ち合わせ場所に指定されてロマンチックだなと胸を躍らせていた自分が馬鹿みたいじゃないか。
「よくそれだけ次から次へと言葉出てくるねえ。さすが近松門左衛門と同じ鯖江出身。鯖江って、人の言語能力を伸ばす風土があるのかもしれないね。」
「それはない。」初音の言葉は、またもや徳一に全否定されてしまった。
「どこで生まれ育ったか、というのがその後の人格に決定的な影響を与える、というのは違うと思うんやな。刑事訴訟でいつもあるんやけど、被告人の弁護人が、被告人はこれこれこういう環境で育ったから性格的にこういうことになって、だから情状酌量して減刑すべきだって言うやつ。違うねんて。もし生育環境のせいで犯罪やっても仕方ないような性格に育ったんやったら、情状酌量で減刑やなくて、逆に刑期長くすべきやろ。犯罪やっても仕方ないような人間やねんから、そうでない普通の人間より再度犯罪行為をやる危険性が高いわけやろ。そんなやつ、社会防衛のためにできるだけ社会から隔離しといてやるのが公共の福祉により適合するはずや。しかるに今の裁判実務は社会倫理の心情価値の保護に重点を置く旧派の行為無価値論が支配的で・・・」
こういう話を始めると徳一は止まらない。仕事熱心なのは結構だがこれ以降の話は初音には何を言っているのかさっぱりわからなかった。それに、生育環境が人格形成に影響を与えることはないなんて言われたら、教育学部卒業の初音は4年間大学で何をやっていたんだということになってしまう。
「着いた。ここや。」徳一は店の看板を見上げて言った。まくし立てていた刑法理論がぴたっと止んだ。「大狸」という店である。入口の横には、店名のとおり、巨大な信楽焼のタヌキの置物が屹立していた。
入店して、案内されたテーブル席の横には、タヌキの剥製が鎮座していた。
「へえ・・・タヌキばっかり。」初音はまわりを見回しながら言った。横の剥製だけではなく、あちこちに信楽焼のタヌキの置物やタヌキの絵が飾ってあった。
「タヌキって、英語でなんていうか知ってる?」徳一が生ビールのジョッキを持ったまま聞く。
「なんやろ。聞いたことないな。」初音は答えた。高校時代は英語は大の得意だったのだが、身近な動物なのに英語名なんて聞いたことなかったことに今初めて気がついた。
「racoon dog」徳一は正解を明かした。
「え?racoonて、アライグマちゃうの?」
「そう。アライグマイヌで、タヌキって意味。タヌキはもともと日本とか中国とか極東地域にしか生息していない動物で、英語圏にはおらんかったんやな。だからそれ用の専用名詞はできんかったんやろな。」
どうりで今まで英語名を聞いたことがなかったわけだ。初音は納得した。
「なるほど。そういえばタヌキとアライグマって似てるもんね。でも、アライグマはもっと黄色っぽいかな。」初音がグレーがかった茶色の体毛に覆われたタヌキの剥製を見ながら言うと、
「それは違う。」また徳一に頭ごなしに否定された。今日はそればっかりだ。
「アライグマはタヌキと同じようなグレーっぽい茶色。あるいはタヌキよりグレーっぽいかもしらん。見た目は非常に似てるけど、見分け方としては、アライグマのしっぽにはリング状の模様があるけどタヌキにはない、タヌキは両足と肩が黒い、アライグマの手はモノをつかんだりできるけどタヌキの手はイヌと一緒でそんなことはできない。タヌキはイヌ科やもんね。アライグマを黄色っぽいと思ってしまうのは「あらいぐまラスカル」の影響やろね。アライグマはあんな色ちゃう。あの色はレッサーパンダや。」
「そんなことよく知ってるね。文系なのに。」初音は感心した。
「好きやからね。タヌキとかアライグマとかレッサーパンダとか。」
そう聞いて、初音は、学生時代、徳一がタヌキっぽいメガネをプレゼントしてくれたことを思い出した。コイツ、私の顔がタヌキとかアライグマとかレッサーパンダっぽいのが気に入って付き合っているということか?そう思うと、少しムカついた。
「なんで、好きなの?」初音は聞いてみた。そこで、「初音に似てるから」なんて答が返ってきたら、それはそれでうれしいかもしれない。でも、違った。
「昔、住んでた家の近くに動物園があってね。西山動物園ってとこ。ちっちゃい動物園やねんけど、レッサーパンダだけは多くてね。レッサーパンダの繁殖数では全国でもトップレベルらしい。こいつがかわいくてね。休みの日とかヒマがあるたびにしょっちゅう見に行ってたわ。」
初音は、思わずクスリと笑った。さっきまで難解な刑法理論をまくし立てていた徳一にそんなかわいらしい過去があったなんて。
「それでかな。あの系統の顔が好きになったんやろな。タヌキとかアライグマとか・・・」
徳一の言葉が止まった。どうしたの?初音が徳一の顔をのぞき込むと、徳一は目をそらして宙を見上げながら、
「初音とか、な。」と続けた。
やっぱりそのオチかよ。初音は吹き出した。そして、「あんた、言ってることおかしいよ。」と突っ込んだ。
「なんで?どこが?」徳一が怪訝そうな顔をする。
「だって、さっき、生まれ育った環境とその後の人格形成には関係ない、って話してたやん。それなのに、あんた、幼少時の体験に、めっちゃ影響されてるやんか。」
「そういえば、そうやなあ。」そう言うと、徳一は、ビールのジョッキをあおった。「認識が、間違っとったかもしらんな。」
初音は少し拍子抜けした。徳一が自分の考えを簡単に曲げることなんて滅多にないからだ。またいつものように、「それは違う」とか言って反論されるに決まってると思っていた。
「その、西山動物園ってとこ、行ってみたいわ。生育環境とその後の人格形成は無関係やって言い張る人の人格形成にまで影響を与えてしまうような動物園って。」
「そうやな。来月の連休当たり行くか。ついでに、実家の両親にも紹介しとくわ。」
え?それって・・・。初音はびっくりして徳一の方を振り返った。お酒のせいか、そうでないのか、徳一の目のまわりは真っ赤になっていて、タヌキのようだった。
でも、次の瞬間、初音は「アホ!」と怒鳴って徳一のほおをひっぱたいていた。
だって、徳一、大きな声でこんなこと言うんだもん。
「オレは鯖江出身者として、レッサーパンダの繁殖に協力する義務があるんだ!」