第6話 ライアンの心配性
ライアンはほとんどソラが横たわっていたベッドのそばから離れなかった。
レオは楽屋の扉から窓、窓から扉へと歩いたり飛んだりしながら室内を何往復もしていたが、ついに耐え切れなくなったのかソラが気を失ってから一日目の夕方に街に出て行ってしまった。
寝る時と食事を取るとき以外は椅子に座り、ずっと考え事をしてはソラの寝息を見て無力感と安心感に浸っていた。
魔物を連れたあの少年は闇黒師だとライアンは確信していた。魔物が蠢き、魔人が徘徊し、魔王が猛威を振るった全盛期、人間にも魔王側につく者がいた。それが闇黒師と呼ばれる者たちで、通常では出来ない魔物を従わせる事が出来た。
魔物は通常人を襲う。衝動的に快楽――感情があるとするなら――を求めるように。それは例外ないはずだったが、闇黒師だけは違った。
容赦出来ない相手だというのに、十二、三歳の男の子が目の前にいた。あまりに幼い。幼すぎた……。
それが心が隙を無意識に作ってしまいこんな事になってしまった。
だが、あの少女も一つの原因でもある。そう考えるのは酷い事だとライアンはわかっていた。
あの場で見捨てる事も今の全責任を押し付ける事も出来るはずがない。考えたくもない結果になろうと、ソラは実際したように臆する事なく身を挺して守るだろう。そしてほんの少しも責める気はない。ライアン自身もそうする。
二人で全力を出せば、少女を守らずともあの男の子を拘束する事も無力化する事も出来ただろう。だが、あの時あえて少女が傷つかない確率の高い方法をとった。
結果、それは運がよく、少女を守る事が出来、ソラはほとんど助からないような深手から瞬時に回復した。
だが、ライアンは自分自身の力のなさに叩きのめされていた。初任務以来の深い屈辱。自分があまりに非力だと思い知らされた。
太ももに肘をつき、指を絡めて作った拳を口元に当て、何度も同じ考えを繰り返した。
ただ一つ理解出来ないのは、ソラの右手から放たれた光。右手に魔物は封じ込められていない。あれは魔術を使った時の光反応でもない。
いったい何がソラの命を救ったんだ? やはり左手の魔物が宿主を死ぬのを拒み、助けたのか?
何度もその問を繰り返したが、答えは出なかった。
二日経ってソラは目を覚ました。
リボンを巻かれた腕を伸ばし、何かを掴みとろうとしているようにゆっくりとくうを掻いた。ハッとしたように腕の動きを止め、胸元に下ろす。
ぼんやりとした眼差しで天井を見、それから周りをぐるりと見渡した。左側の椅子に座っていたライアンのところで目を止める。
「ライ……アン……?」
水分を取っていなかったからか少し声がかすれていた。
「私どうしたんだろう……そっか、戦ってたんだ」
自分の役目を果たせなかったと唇を噛みしめた。そして押し殺すような声で「誰も死んでないよね?」と言う。
「ああ、お前が死にかけただけだった」
重くしないように茶化した風にそう言った。
「そっか」とソラが泣きそうな顔で笑うのを見ると、ライアンは心臓の奥が爪で引っ掻かれたように痛んだのを感じた。
いつだってそうだ、とライアンは思う。
まるで朝起きるように腕を伸ばし、背中を解しながら上体を起こしたソラはライアンへと手を伸ばした。
「頭の傷は大丈夫?」
ソラの手がライアンの額の髪を掻き分けると、かさぶたになりかけている切り傷があった。
ぐっと指でその傷を押され、ライアンはソラの手を止めさせようとしたが、ソラの目があまりにも真剣だったから水をさせなかった。
ズキッと痛みがぶり返した。指は傷をなぞり、ゆっくりともう一度往復する。
するとソラの瞳は少し見開かれた。指を離し、手を下ろすと自分の手をまじまじと見つめ、それからライアンの額を見た。
「たぶん、癒力があるんだよ」
少し自分の能力が信じられないのかつぶやくように言う。
「癒力?」
ライアンは自分の額を触って確かめた。浅くはなかった切り傷が癒合していて、皮膚に傷があったとは信じられない。
「温かくて、何か懐かしい感じがしてね……痛みが消えていった。昔、ママに癒やしてもらった時と同じ感じがしたんだ」
ライアンはベッドの脇にあるデスクの上に置かれた飲料水をグラスに注いだ。ビリアがライアンのためにと置いていたものだったが、本人は一度も手をつけなかった。飲料水を注いだグラスをソラに差し出した。
「癒者っていうあれなのか?」
ライアンも何度か聞いた事があった。それにソラの母も癒者だったの思い出した。恐らく世界一有名な癒者だ。
「たぶんね。でも、私がそうかはわかんないよ」
癒者は珍しい。先天性らしいのだが、それが現れるのはいつになるかわからない。現れたとしても使い方に難ありと聞く。
ソラはグラスを受け取り、喉を鳴らしながら水を飲み干した。
「ふーん……」
何の気もない返事をする。だが、あの力が恐らく有害ではない事がわかっただけでも安心した。何よりソラが意識を取り戻して心底ほっとしていた。
よほど喉が乾いているに違いない。グラスに二回ほど水を注いで、やっと喉を潤せたようだった。
「ウィルキーに訊いた方がいいかもな」
「そうだね。あとで連絡取って見る。それより、あの女の子は大丈夫だった?」
「かすり傷一つなかったから、ビリアに家に帰してもらった」
「あの子ね、ケイトコーンの暴走にも巻き込まれそうだったんだ……」ソラがぽつりと言う。
災難だ、とあの子に同情せずにはいられない。
ソラは少し申し訳なさそうに「トラウマになったりしないといいんだけど」とつぶやいた。
ライアン自身もそうだが、自分を助けた者の身体から血が流れている光景は忘れられないだろう。
「ソラがいたから、怪我しなくてすんだんだろ?」
こっちは気が気じゃなかった、とライアンは言いたかったが、ソラが顧みずに助ける事は明白だったためにそれを酌んで選んだ言葉だった。少しは自分の身体に負う怪我の事も考えてくれ、なんて言うだけ無駄だ。
「動ける俺らがやらなくて誰がやるんだ」
いつもの言葉だね、とソラは微笑んだ。
知識を持ち、技量を持ち、その場の対処に臨める自分たちがやらなくて、突っ立っている事に意味なんてない。それが二人の共通の価値観だった。
「レオに顔見せてやれよ。ビービ―泣いてたから」
そう言ってライアンの指差す方向をソラは見た。レオは窓から外へ出て行ったらしい。
「そうだよね」
ベッドから足を下ろし、足でブーツを探ったが近くにはなかった。ドレスを着ていてもいつも靴だけは履き替えなかった。
着ていたはずのドレスはクローゼット前のトランクの上に置かれ、ソラ自身は自分で来た覚えのないショー前の服を着ていた。ビリアが着替えさせてくれたのだろう。
裸足で窓枠に足をかけ、壁に手を添える。ソラは振り向いて、何か制止の言葉をかけようとしていたライアンに「リハビリも兼ねてだよ」と言い、窓のすぐ上の雨避けの屋根を掴んで楽屋から出て行った。
劇場の屋根から尻尾が垂れ下がっているのが見えた。空色の縞模様だ。
窓枠と装飾の段に足をかけて壁伝いに屋根へと上った。少しふらついたが、バランスを失うほどではなかった。屋根ではなく、屋上のようで椅子や洗濯物ようの柱がある。
レオは屋根の淵に座ったまま尻尾をブランブランとゆっくり動かし、物思いにふけっているようだ。普段ならもう気づいているはずなのに、どうやら今は気づいていない。
「レオ」
青空と同じ色の縞模様の背中に呼びかけた。耳がピクリと動き、ほとんど後ろを向く。パッと顔が向けられ、夜空のような瞳が潤んで星のような光が点々と映っていた。
『ボク、ボク…………ソラが死んじゃったらどうしようかって思ったァ!』
小さな羽で飛び、ソラの胸にぶつからんばかりに抱きついた。ソラも目一杯の力で抱きしめ返した。
「大丈夫だよ」
ソラはそれしか言えなかった。いつ死ぬかなんて事は考えたってきりがない。でも、目の前のレオには私しかいない。そう考えると心臓がギュッと痛む。ソラが心話者だという以上に、二人は種を超えた強い絆を持っている。お互いに信頼し合い助け合っている。それは幼少のころからかわりなかった。
ソラの脳裏には過去が蘇っていた。散々だった初任務の事だ。あの時と同じような気がした。
「ごめんね。それよりレオは大丈夫?」
『うん、大丈夫だよ』
「ちゃんとライアンにつけてもらったんだね」
ソラはレオの銀の三日月のチャームがついた首輪を撫でる。レオの解放を制御しているのはこの特別製の首輪。封印物と呼ばれ、封じ込めている魔物に身体を乗っ取られないようにするための魔気を抑える物だ。
ソラも腕に巻いていたリボンがそれで、普段は解放を完全に閉じた状態にしなければならない。
「あの子はどうしたの?」
あの子――闇黒師であろう十歳程度の子の事。知っている闇黒師の中でも少なくとも十歳は下だ。あまりに幼すぎる。
『わからない。でも、あの子は魔物の匂いが染み込んでて、あの子の匂いがわからなかった……』
それはずっと魔物の近くにいたという事。家族、もしくは一族が闇黒師である可能性がある。
レオは落ち着きなく尻尾を振った。安心させるようにソラはレオの喉元を指の腹で撫でてやった。
「そっか……。レオが気づいてくれたから被害は大きくなかったんだよ。でも、ちょっと変だよね……あの子が連れてきたからって魔物がここまで来るなんて」
魔物は人に寄ってくるが、危険がある事を知っているために町に来る事は滅多にない。人里離れた森や山、夜であれば人気のない町外れでも人を襲う。
闇黒師に連れられたとしても、拒否する魔物がいる。幼すぎる闇黒師に従順すぎていた。十一、二歳だろうか。思い出すとソラは心が痛んだ。
「ウィルキーさんに癒力の事も訊かないといけないから、ついでに訊いておこうか、レオ」
闇黒師の少年が去ってからすぐ、劇場の壁の穴は両親が軽業師で修復術が得意なミーナが直し、他の散乱した物や破壊された物は座員全員で片付けていた。
ライアンとレオは団長の計らいにより、分担はなかった。あえて割り振るならソラのそばにいる事だった。
ソラの意識が戻った事はすぐに一座全体に伝わり、ザックやミーナ、ミーナの妹チーユが楽屋に来たが、ライアンだけしかいなかった。
ソラはレオと一緒に楽屋に戻ろうとしたが、アラトリア一座の団長ジジ・オレランドとばったり出くわし、感激の言葉と共にバシバシ背中を叩かれた。二日間眠ったままだったソラは背骨にひびが入りそうなほどの衝撃でまたふらついた。
「本当心配したんだぞ。二日が二か月に感じられたさ」
髪は短く刈り込まれ、目元には小さな切り傷があり、顎には濃いひげを生やしている。図体もがっちりしていて、どことなくライオンを彷彿とさせる。ショーでは司会を務めるが、タキシードを着ている姿はソラには可笑しく見えた。
「すみません、不注意で……」
魔物の気配に気づいていたのに、人命には至らなかったものの被害を出してしまった。さらには街中での交戦。魔断志師としての失態だった。
「気にする事はない。一座の歌姫が重体だなんて、俺の責任だ」
「魔断志師でもありますから」
あの時はもう魔断志師としてのソラだった。ドレスは動きにくかったが。
「そうだったな。……強くなったもんだ」
団長はソラの肩に手を置いた。過去の姿と重ね合わせているのだろう。優しい眼差しでソラを見た。
「さて、こうして回復した事だし、全員呼んで宴会だな」
あまり深く追求しないところが長所だろうとソラはいつも思う。気軽で優しく、それでいて団長としての責任感もある。いや、もともとの人柄だろう。
座員を集めるため、団長はソラとは反対方向に歩いて行った。
楽屋に戻るとザックやミーナたち一座でも年齢が近い者たちが集まっていた。熱烈な歓迎を受け、ソラは困ったように入口に立ち尽くした。
「ソラ姉ちゃんに襲い掛かれ―!」などとザックが言うから、脚に掴まってきたチーユとジョンにソラはなす術なかった。
ずりずりと引きずりながら、ザックやミーナ、マリー、ライアンのいるベッドに座った。それから女の子の母親がお礼に持ってきてくれたというお菓子をつまみながら、みんなで談笑していた。一座の者でもソラたちの戦いぶりを目の前で見るのは初めての事で、みんながあれこれと唾を飛ばしながらしゃべった。
ミーナは修復術以外にもソラの腕ような冷気魔法を覚えたいと話すし、チーユなど剣を持って魔物と戦いたいと興奮気味に語った。ザックが真剣に協会で魔法を学ぼうか、と言うのを聞きソラはウィルキーに連絡しようと思っていた事を思い出した。
「ライアンがソラを抱えてた時の気迫と言ったら、ビリアすら寄せ付けなかったぞ」
ザックがそう言って大笑いしだす。ライアンはムスッとしてザックを睨んだ。
ソラはライアンがそれほどまでに心配しているとは思っていなかった。でも、原因は思い当たる。相棒が極度の心配性だとは考えた事はなかったが。
「忘れていい事心配しすぎ」
ふっと顔を背ける。言葉に出来ない反論があるらしい。
ジョンがレオの尻尾や前足を見ながら、どこに大きくなる要素があるのかと探しているのは微笑ましかった。
それからミーナがダイアモンドダストを作り出す魔法を不完成ながらも見せてくれたり、ザックが昼間にもよく目を凝らすと星座が見えると話してくれたり、全員でボードゲームをしているとあっという間に時間が経ってしまった。
ビリアが夕食を持って来た時には、みんなでわいわいしていたために怒られてしまった。
ソラには静養が必要だと楽屋で一人食べさせるつもりだったが、ここにいた全員が反対してビリアはしぶしぶ負けた。
劇場の屋上では夕食の準備が出来上がっており、団長を含む大人数人はすでにトカイ酒を飲み干しそうだった。炎の明かりが揺らめき、小さなお祭りのようだ。
リリーピリーで煮込んだ葉肉(肉に似た植物)は最高に絶品で、三皿食べても飽きない。二日間何も食べていなかった所為か妙な空腹感を感じてソラは手掴みしそうな勢いで食べた。襲撃があった前の朝食が最後に取ったちゃんとした食事だった。
五皿目を前にした時、ライアンが葉肉のリリーピリー煮込みを取り上げるので、ソラは少し不機嫌になった。
「食べ過ぎ」
「病み上がりだもの」
病み上がりなんだからしっかり食べて体力つけろ。ビリアの説得に加勢したライアンはそう言った。ソラはその言葉を実行しているに過ぎないと言いたいらしい。
だが、食べ過ぎているのも事実。確かにふらついたりするが、自分で体勢を保てる程度だ。食べ過ぎで体調が悪くなったり、吐き気を催したりはしない。
「だったらライアンが食べなよ」
宴会でライアンは料理をまだほんの少ししか口に運んでいない。ローストしたムース肉一切れやミートパイ一欠けら、添えていた野菜をつまむぐらいしか食べていなかった。
そんな様子を見ていた一座の大人たちが、ライアンは陰気な顔だと頭にシャンパンを注いだ。髪からシャンパンを滴らせてライアンは喚いたが、酒気を帯びた大人たちには些細な独り言ぐらいにしか相手にされなかった。
みんな、ビリアが腕を振るった夕食をお腹いっぱいになるまで食べ、ソラとライアンとレオに感謝と喜びと敬意を何度も伝えた。
ススミザクロのソーダやマシュマロでアイスを包んだデザートを食べ、宴会は徐々に静まり始めた。
長い長い一日が大きな変化を起して、終わろうとしていた。