第5話 痛みと目覚め
叫びと咆哮が同時に聞こえ、赤い血が舞い、辺りは静まり返る。埃っぽい空気を裂く甲高い悲鳴。
女の子はソラの腕の中で泣き叫んでいた。
ソラの背中に木の槍が一本刺さり、血があふれ出している。さらにはかけらのような木片も腕や足に刺さって血が流れていた。幸いなのか直撃したのはその一本だけだった。
ライアンは少年の瓦礫の雨をやっとしのいだが少年の表情に気づくも遅く、少年の攻撃目標がソラになった瞬間、レオの叫びが大気を震わせた。レオの声を聞き取ったソラは笑みを浮かべた少年が自分たちを狙っている事に気づいた。
だが、すでに槍は目の前に迫っており、ソラは足に力を入れて膝で立つと、腕の中に女の子を匿い、槍に背を向けた。
『ソラ!』
レオは咆哮すると、慌ててソラのもとへと駆けた。
倒れたソラの背中から血が流れ、床へ広がっていく。レオはその匂いに顔をしかめ、おろおろしながら鼻でソラの身体を優しく押す事しか出来なかった。
ソラは少しうめくと、腕の中から女の子を押し出した。
「ほら……逃げて」
辺りは静まり返り、小さな女の子の嗚咽が聞こえるだけだった。
少年の笑い声がじわじわと響き始めた。狂っている。眉間にしわを寄せたライアンが確実に少年の足を撃ちぬいた。笑い声をあげていた少年は愕然とし、その場に崩れた。ライアンは取り押さえようとして駆け寄っていこうとしたが、少年は魔物の灰に包み込まれ、風に流れるようにして侵入してきた壁の大穴から出て行ってしまった。
女の子はソラを心配そうに見つめ、舞台のほうへと駆けていった。
『ソラ……ソラ……』
「ソラ!!」
ふと我に返ったライアンはソラの名を呼び、彼女のもとへ駆けた。
血が広がりすぎている。もう一目見て助からない事を悟った。
意識を失ったソラの額には汗が浮かび、髪が張り付いていた。さらに多量出血の恐れがあり、背中の異物を取り除く事も出来ず、ソラをむやみに動かせない。
ライアンはただ見ている事しか出来なかった。
突然、ヒューヒューと音を鳴らしていたソラの呼吸が止まった。
ライアンは目をきつく閉じ、拳を握りしめた。しっかりと瞼を押し上げ、ソラの胸の前に節々が白くなった手をかざすと、「アーシャ・ゼーレ」と震える声で出来るだけ毅然に唱えた。光が灯ったライアンの手のひらを、突然ソラの手が掴み、術をやめさせた。
「ソラ……お前……」
ソラはライアンに顔を向けると、青くなった唇に笑みを浮かべた。
「私、痛くない……ほら」
手を伸ばし、指を何度も開閉した。瞳にはしっかりとものが映っている。
ライアンはその言葉を信じられなかった。
だが、ソラは背中からの痛みを感じていない。じっと目を凝らしても表情や瞳の奥にも苦悶はまったく見えなかった。
心話と同時に耳でもレオの声を聞き取ったソラは腹を殴られたような衝撃で、少年が自分たちを狙っている事に気づいた。
しかし、すでに少年が飛ばした槍は目の前に迫っていた。避けられないと理解するより前にソラの身体が動いていた。足に絡んでいた灰を無理に振りほどいて膝で立つと、腕の中に女の子を匿い、槍に背を向けた。身を挺して女の子を護るしかなかった。
ソラが自分の腕を見ると傷は血を残したままジワジワと塞がっていく。背中には痛みがなく、不快な感覚しかなかった。
「背中のを抜いて」
普通ならこれを抜く事は出来ない。異物が動脈を切っている場合、切った異物を抜くとさらに血が流れ出てしまうからだ。
しかし、ソラは血を体内から失う事なく、槍を抜けるとわかっていた。
ライアンは心もとないソラの言葉を信じるしかない。ソラの身体を慎重に抱え上げると、背中の槍を握った。
「いいか、いくぞ」
歯を食いしばってソラは、必死に呼吸を整え、痛みを我慢しようとした。刺さっている間は痛みがなかったが、除去しようとすると神経に刺激を受けてしまう。
今まで経験した事のない痛さを我慢する。炎豹に背中を裂かれてもこれほどまでに不快な痛みではなかった。
しかし、今我慢している痛みは背中に槍が刺さった痛みではなかった。
さらには何かが起こっているのがわかった。右手がうずく、内側から何かが突き破り出てきそう。右半身が引き裂かれそうな痛みがある。魔物に乗っ取られるのかとソラ自身思ったが、違う。
それは槍を抜いたあとでも同じだった。ライアンが抜き取った木の槍は血を少し吸い取っていた。それを慌てて放り投げ、ソラの巨大な損傷の心配をしたが、多量出血もないようだ。
ソラは何かを感じていた。体内で何かが起こっている。背中の深手は、腕の傷と同じようにふさがっていくのがわかった。泡立つような感覚と共に神経や皮膚細胞が再生されていく。背中の感覚が元に戻るのと同時に、右腕が痛んだ。
ライアンの腕の中で、ソラは痛みに身をよじった。まるで心臓やそのほかの臓器が鷲掴まれ、無理に動かされているような痛み。何か自分以外の鼓動があるような。
ソラの身体は脈を打つように何度かライアンの腕の中で跳ねた。右手から糸のような光が流れ出たころには、痙攣も収まった。
「何なんだこれは……」
淡い輝きを放つ右手から流星の尻尾のような光が辺りへ降り注ぐ。
突然、右手から光が放たれた。温かく、流れる絹のような光。それをぼんやりと見ていたソラは、背中の深手を癒やしてくれた正体だと気付いた。
光が収まると、ソラは酷く疲労を感じた。
そして、まるで眠るのが正しい事のように、それに従った。
突然の事に目をパチクリさせるライアンの心配をよそに、ソラは苦しそうな素振り一つ見せずに目を閉じてしまった。今度は呼吸をしている。安らかな寝息だ。
「ソラ? 大丈夫なのかい……?」
女の子の手を握ったビリアが舞台裏から出てきていた。フラフラした足取りでソラのほうへ寄ってくる。
「ああ、たぶん」
ライアン自身確証がなかった。ただ腕の中で呼吸とかすかな心音が聞こえるだけだ。しかしそれだけでも安心した。
「またやらかしただけだよ……」
本当はあの瞬間が恐ろしかった。ライアン自身、それが苛立った。恐怖を感じて、動けなくなるなどみっともないも甚だしい。突然、ソラを失う事になるなんて思えなかった。自分の心臓が鉄に変わり、すべての形が失われてしまったみたいに。
どうすればいいかなんて、思いつかなかった。わかるのは目の前の事だけ――ソラの身体を貫く槍、槍から滴る血、血が床を染め上げていく光景。
最初に思いついたのは癒術だった。不得意な分野だったが、躊躇してる暇などなかった。ソラはすぐに死んでしまう。
だが、幸い意識を取り戻し、考えられない事をしでかした。槍を抜けと言い、驚いたが他にできる事もなくライアンは従った。そして、ソラはそれ以上に出血せずに、あの重傷を一分たらずで治してしまった。
次の瞬間には、心臓が冷えた。てっきりソラが魔物に乗っ取られるのかとライアンは思ってしまった。身体が痙攣し、右手から光を放ち……。
ソラの右手には魔物を封じ込めてはいない。左手の何かしらの力――悪い影響を及ぼす力ではない何か――が、重傷を簡単に治してしまったに違いない。知識の少ないライアンにでもあれが癒術ではない事はわかった。
魔術ではなく、左手の魔物がソラの命を救ったと言ってもいいのかもしれない。
(――まただ。俺は何も出来ず、助けられなかった。またかよ……)
ライアンは血がべっとりとついた服の裾を見ていた。
血溜を見て、ぽつりとつぶやいた。
「それが無茶してないって言うのかよ」
血痕のついた床を殴り付けた。
「クソッ!」
ライアンは一歩も動けなかった。腕の中にいるソラをむやみに動かしては何かが悪化してしまうかもしれないと心配になった。
自分だけこんなにめまぐるしく感情を次々と入れ替えてるのに相棒はのんきに寝息まで立てている。
ムカついて鼻をつまんだ。息がつまったソラは「ふがっ」と一瞬もがいて、再びゆっくりと寝息をたてはじめた。
「ライアン、いったいあれは何だったんだ?」
ザックが尋ねるとライアンは首を横に振った。
「わからない。でも、大丈夫なんだろ」
聞こえていないだろう当事者に向かって言う。ソラは安心しきった赤子のように眠っている。
「レオ、外を見てきてくれないか?」
ライアンがレオに直接語りかけるなど珍しい事だったためにレオは一瞬首をかしげた。
それから空気中の匂いを嗅ぎ、ソラの手をチロッと舐めてから壁に開いた大きな穴の外へと駆けて行った。
「傷は何ともないのかい?」
「あぁ……」
ほとんど気落ちしていた。悲しむ言葉さえ出てこない。
「ソラをベッドにまで運んでおくれ。ライアン、心配する事は何にもないさ」
ビリアの言葉はほとんど耳を通り抜けてしまった。
ライアンがソラを抱え上げると血がねっとりと腕を伝って、床に落ちていった。