第3話 小さな異変
「遅かったねぇ。もうすぐ出番だよ」
町唯一の古い劇場に入ると、ふくよかな女性が声を響かせる。
ソラはアラトリア一座という旅一座の歌姫として旅をしていた。今はこの町――コートリーの劇場を借りてショーを開いている。いまどき珍しい旅一座のために客足は多くて満席が続いていた。
女性、ビリア・ジェンナは一座の母役のような性格で、食事や洗濯など家事を担当していた。
「またやらかしたんだよ」
ソラは笑って、楽屋に逃げ込むように向かった。楽屋のドアを閉めるとドアの向こうから大歓声が聞こえてきた。一座のピエロが滑稽なしぐさをしているのだろう。
ソラは埃っぽいベッドに帽子と上着を投げ置くと、クローゼットの前に置かれていたトランクを開けた。金色の金具が錆び、木の表面には傷がついていた。中には雲を捕まえて入れたように白い綿のようなものが入っていた。
それを掴むと、ソラは魔法で空中に浮かせた。雲は畳まれていてしわを伸ばすかのように元の形に戻った。ウエディングドレスよりも質素なドレスだ。
まだその下にあり、それらには色もついていた。メリナリアブルーやローズピンク、ラベンダーシャンパンなどなど淡い色から、色のために作られたようなドレスまである。
『ただいまー!』
掃除のしていなさそうな窓からレオが入ってきた。
小さな体だったが小さすぎる窓を通るには一苦労で、生えている小さな羽をたたまなくてはならなかった。窓を抜けられた時には純白の羽が埃まみれだった。
『ちゃんと渡したよ』レオが自信たっぷりに言う。
「ありがとう。どれがいいと思う?」
ソラは服に関してはあまり興味はないが、人前に出るのだから恥じないようにしておくべきだと気を遣っていた。白のドレスのほかにも色鮮やかなドレスを浮かせ、どれを着ようかと迷っていた。
『スカイブルー!』
レオは自分の縞模様と同じ色を選んだ。
ドレスをていねいに掴み、身体に引っ付けるといつの間にかドレスはソラの身体を包んでいた。着ていた服は掃除していない床に落ちた。
淡いグラデーションが美しいスカイブルーのドレスはオフショルダーで脇から縦方向にダーツの入った緩やかに裾が広がる形だ。いくつかあるドレスの中でソラがもっとも気に入っていた。
「ファスナー上げて」
ソラはブロンドの髪を持ち上げ、レオに背を向けた。レオは爪でファスナーを引っ掛けた。出来だけソラの肌に爪を引っ掛けないように。
それほど女性らしい性格でもなかったため、ソラはフリルやリボンといったものはあまり身につけた事がなかった。ドレスを着るには気分が乗らない上に、自信もない。しかし、来場客のために少しでも綺麗にして出ようと心がけていた。
床に落ちた服を拾い上げ、ソファの背にかけ、残ったドレスをトランクの中にしまいこんだ。
埃をかぶった電球が並ぶドレッサーの前に座ると、ソラは鏡をのぞきこんだ。鏡を見るたびに自分にはドレスが似合わないと思った。
ソラはほとんど廃れた櫛で絡まった髪を梳かしながら、髪型をどうするかを考えていた。ずっと前のショーでは髪の毛が手入に慣れていないのか元に戻ろうとピンが飛んでいった事がある。危うく人に当たりそうになったが、壁に穴を開けただけだった。髪を纏めるとレオにピンを刺すように頼んだ。ピンを見えないように捻じ込むと髪の具合を確かめた。
「今度は大丈夫」
自己暗示のようにソラはつぶやくと、トランクのほうに行き、中からトランクと同じような小さな箱を出した。その箱のふたを開けると中には三つのティアラがあった。
どれも光が当たるとさらに輝き、ダイアモンドダストのように美しい。その中から一つ選び、ソラは鏡の前に戻ると、自分の頭に載せた。箱の中にあれば三時間は眺めていられたが、自分の頭に載っているとどうもしっくりこない。
「どう?」
ソアはレオのほうに向くと頭に載ったティアラを指した。レオは羽で浮かび、ティアラの乗っかった頭と同じ位置にとどまった。
『ちょうど真ん中!』
レオが鼻に皺を寄せ、怯えたように尻尾を下げた。
「どうしたの?」
『魔物のにおいがちょっとだけする』
人間にはわからないかすかな匂いを感じていたレオは鼻をしきりに動かしていた。
「今はライアンが何とかしてくれる」
ソラは、他人任せにするのはどうも気が引けたが、出番がもうすぐだった。
「その事はビリアさんに言っておくから、何かあったら伝えて」
細身の長い手袋を肘まで伸ばしながら、身に着けると、ソラは全身を確認した。跳ねたり、折れたり、埃やシミがついていないのを確かめた。
ソラは楽屋を出て、舞台袖まで行くと、小さな男の子の服を調えているビリアにレオが魔物のにおいに気づいた事を伝えた。
「そう。ライアンは外かい?」
「いつもどおり外にいると思います。レオがにおいがするって言うから伝えたいんですけどね……」
そこまで言ってソラはレオに魔物の級を訊けばよかったと少し後悔した。
魔物は人に害を及ぼす生物の総称。「扉」と呼ばれる場所から出てくる。魔物には強さがあり、級で識別する。上から順に1、2、3、4、5とある。
今のライアンには3位級なら倒せる力があった。それでも街の中で戦えば、周りに被害は及ぶ。それだけは避けたかったが、今は戦えないソラには歯がゆいうえに、ただのわがままだと思った。
せっかく整えた頭を前の出演者の双子のピエロの大きな手でグチャグチャにされるのを避け、ソラは深く息を吸った。まだ熱気の残る客席の声が耳に届く時にはさらに大きく聞こえる。次だと思うと胃がギュッと締め付けられたようだった。
「続きまして、みなさん一音も逃さないようお静かにお願いします。玲瓏たる歌声、ソラ・ルリー!」
タキシードを着て、シルクハットをかぶった男性の声が響く。
会場を揺らすほどの大きな拍手の中、ソラは舞台に出ていく。
綺麗なブロンドはスポットライトで光り輝き、瞳の澄んだ空色はキラリと光る。緊張はどこかに飛んでいっていた。ソラは十五歳。職業は二つ、一つ目はアラトリア一座の歌姫。淡い空色のシルクのドレスを身に纏い、手には肘まであるシルクの手袋をつけ、その上から青いリボンを巻いている。
ソラは舞台の真ん中に立つと、歌い始めた。森でさえずる鳥の美しい声、海で喜びの声を上げるイルカの無邪気な声、野を走り抜ける狼の勇ましい声、どの声にも負けない澄んだ清らかな声で歌う。とても綺麗な歌声。ソラの周りだけ、世界から切り離された別の世界のようにも感じる。
歌い終わると、観客席から大きな拍手が聞こえる。ソラはドレスのすそを持ち上げ、膝を軽く曲げてお辞儀をすると、舞台裏に引く。何かが解けたように疲れのようなものがドッと押し寄せた。
楽屋のドアを開けると、中では一人の少年が埃っぽいソファに座っていた。
「早かったな」
ライアンは座員ではなかったが、ソラのもう一つの職業上の相棒だったため一座と一緒に行動していた。たまには雑用もしている。
「歌はいつもと一緒。早くもないけど……。外は?」
出て行けと楽屋の扉をソラは丁寧にライアンに示した。相棒だからと言って着替えを見られて不愉快にならないはずはない。
「見てきたけど、魔気も感じないし……」
ライアンはチラリとドレッサーの椅子に座っているレオを見た。
『そんなはずないもん!』
レオの声がだたの鳴き声にしか聞こえないライアンはその声すら聞こえないふりをして――心話者じゃないためにレオの言葉の意味はわからないが自分に対する不満だとなんとなくわかった――素直に楽屋の外に出た。
「レオのほうが当たってる。もう出番ないし、巡回にでも行こうか?」
ドア越しに反論する声が聞こえたが、ソラは無視した。椅子にかけた服をソラは身体にぴったりとつけた。着ていたドレスは落ち、元の服を着ていた。頭に載ったティアラを元の箱に戻し、ドレスを宙に浮かせて髪に刺さっているピンを抜いた。解放感を味わっているかのように髪が肩に降りた。手を櫛代わりにして、髪を梳かすと、先ほどからは考えられないほど少し梳かしただけで終えた。
キャスケット帽をかぶったソラは楽屋から出ようと、ドアノブに手をかけたはずだが、先にドアが開いて手は空を掴んだ。
額に汗を垂らし、濡れタオルを持ち、赤い布の束を抱えたビリアが入ってきた。
「おっと、ソラ、もう一回出てくれないか? アラーナが熱だしてね」
アラーナは一座の踊り子だ。一座の中では姉のような存在でみなから信頼されている。そのアラーナが熱を出すなど珍しい事だ。
「あ、はい」
「じゃあ、出ておくれ。マグナの次だからね」
自分の代わりに外で巡回するようにライアンに言ったソラは楽屋に戻り、ビリアから受け取った衣装を身に着けた。
ススミザクロのように真っ赤な衣装でソラは舞台袖まで行くと、バイオリンを持った青年ザック・ニールソンを見つけた。黒い巻き毛に濃く青い瞳で丸みを帯びた顔立ちは清楚な雰囲気があり、虜になる女性客が多い。
「ソラ? アラーナは?」
「調子が悪いって、ビリアさんが言ってた」
舞台袖まで大きな拍手が聞こえ、ソラは再び胃が締め付けられた。予想外の二度目の出演に心の準備が出来ていなかった。
「マグナのマグマジャグリングでした。彼は髪をまた剃らなきゃなりませんね」
横からオレンジ色の石が飛び出してきて司会の男のシルクハットに乗っかった。シルクハットはすぐに燃え尽きてしまい、男の髪に燃え移っていた。
「こりゃたまげた」
慌てて手で火を消す男の姿はこっけいで観客たちの笑いを誘う。マグナが自分の髪を燃やしてしまうのもそうだが、進行どおりだった。ソラは何度見ても笑ってしまった。
「彼にやるはずだった髪が……」
くすぶっている自分の髪を舞台袖に投げた。舞台袖から「ありがとよ、これで燃やせる髪が増えたよ」とマグナの声がして観客たちはさらに爆笑。
「ではでは、続きまして、踊りたい方はどうぞお立ちになって! バイオリン弾きザックと踊り子アラーナのステップオンステップです!」
喝采とは違った歓迎の拍手を聞きながら二人は舞台に出る。ザックの持つバイオリン以外にも楽器があったが演奏者はいなかった。
出演者の違いに気づいた客は数人おり、不思議そうに指を刺しながら囁いていた。
「失礼しました。アラーナに代わりましてソラが努めます!」
客席のほとんどが立ち上がり、踊る準備をしていた。ミュージシャンのコンサートのように一緒になって騒げるのがステップオンステップだ。
ザックはバイオリンを肩に乗せ、二人はアイコンタクトをとる。
ザックが軽快に旋律を奏でると、ソラはそれにあわせ、魔法をかけた暴れまわる楽器と戦うように踊った。ショーの演出であったが、本当に戦っているようにスレスレに来る。お客たちのほうにも比較的優しい楽器が戦いに行く。
いくつも音を出し、浮かび飛び跳ね回る楽器を倒し、残ったのが三つほどになった。ソラはあまり疲れておらず、心から楽しかった。客席からも闘技場のような歓声が聞こえた。
しかし、それも一瞬にして冷え固まった。爆発音とともに劇場の壁が吹き飛ぶ。
観客の叫び声と壁を吹き飛ばしたものの薄気味悪い声が聞こえた。外の見える壁の反対側の壁にライアンが叩きつけられていた。
「ライアン!」
『魔物だよ!』
レオが舞台に走ってくる。
状況がつかめた観客は叫び、逃げ惑った。何もわからない観客もそれに釣られて逃げようとしていた。子供は泣いて叫び、大人は恐怖で顔を引きつらせていた。どこかで子供を捜す声が聞こえる。
「みんな! 落ち着いて逃げて!」
ソラは客席に向かって叫ぶと、急いで他の座員たちが混乱を抑えようと観客たちを誘導した。
「人数を確認して!」ザックの肩を掴んでソラは言った。
「気を付けるんだ」
ソラがザックの隣を通り過ぎる。目つきが変わっていた。あどけなさの残っていた顔が今ではしっかりした大人びたの顔に変わっていた。
「解放」
ソラは左の手袋を脱ぎ捨て、青いリボンを解いた。
大きな空間が開いた壁からおぞましい姿の生き物が五匹入ってきた。凶暴そうな牙や爪が並んだり、硬そうな鱗が丸太のような筋肉を覆っている。
ソラのもう一つの職業は、そのおぞましい生き物――魔物を倒す「魔封師」だった。