第2話 何気なかった日常
『あーあ、まただよ』
少女はケイトコーンを見送り、事態を収拾したが雇い主に事を言わなければならなかった。
「レオだって望まないのに働かされたくないでしょ?」
『そうだけど、何度目なの? ソラ、また協会に怒られるよ』
「雇い手も働き手もお互い釣り合わなきゃ」
そう話していると少女の手を誰かが引っ張った。小さな手の感触に少女は目線を下に向けた。そこには踏まれそうだった女の子がいた。胡桃色の髪に丸いグレーの眼。目の周りが少し赤く、額には小さな切り傷があった。
「……これ」
そう言って差し出したのは、品物の詰まった紙袋とキャスケット帽だった。紙袋は重くて、今にも下につきそうだったが、頑張って持っていた。
「ありがとう。でも、置いててもよかったんだよ?」
膝を折り曲げ、少女は紙袋と帽子を受け取った。女の子の頭を撫で、額の傷に指を置いて頭の中で呪文を唱えると傷はすっかり消えた。
「お姉ちゃんは、動物としゃべれるの?」
少女は自分の長い髪を整えながらキャスケット帽を被る。
「「心話」って言ってね、動物としゃべれるんだよ」
「わたしはしゃべれるようになるの……?」
女の子の純粋な疑問に少女は笑みを浮かべた。
「なるかもしれないし、ならないかもしれない。けどね、優しく問いかければ、相手も答えてくれるはずだから」
膝を伸ばし少女は立ち上がると女の子の手をとった。
「お家は?」
「向こう」
元気よく指差す方向はメンンストリートの北方向だった。具体的に言ってほしかった少女は少しがっかりした。じっくり探してる暇がなかった。
「そっかぁ……、お姉ちゃんこれから忙しいから、この虎に送ってもらうからね」
嗅覚の鋭い動物なら見つけられると考えた。
「名前はレオ。あなたのお家を見つけてくれるから、尻尾を持ってついて行って」
少女は抱えていた紙袋の端を少し裂き、呪文を囁きながら紙の上に指を滑らせた。紙には文字が浮かんだ。
「レオはこの紙をこの子のお母さんに渡して」
レオに紙を銜えさせると、女の子に虎の尻尾をつかませた。レオは小さな羽で飛び上がり、女の子の腕に負担がかからない位置になった。
少女は女の子の頭をなでてた。
「もう、迷子になっちゃダメだからね」
虎と女の子を送り出すと、キャスケット帽を深く被った。
女の子が足を止めた。それとともにレオも止まった。女の子はは後ろを振り返った。
「お姉ちゃん名前は?」
帽子のつばを少し上げた。
「ソラ・ルリー!」
ソラは幼いころから「心話」が出来た。
心話というのは、動物などの生き物と話す事が出来る稀な能力だ。心で話す事も言葉で話す事も出来、人間側からは人間の言葉でも伝える事が出来る。逆には鳴き声などとして聞き取れず、言葉として聞き取れた。本人には母国語以外を聞き取るようなものだった。
「またやったのか、ソラ」
「ライアン、レオと同じ事言ってる。権限はあるし、他に何のために使うっていうの?」
精肉店の店主と話していた少年ライアンをソラは肘で突いた。
「お前らしくていいけどさ」
ソラは紙袋をライアンに渡すと、そのまま腕をグイッと引っ張った。
「謝りにいくから」
ケイトコーンのデュリューの飼い主を見つけるために、走ってきた道を戻る事にした。本来なら並大抵の事ではないが、レンガに穿たれた足跡をたどって馬のいない馬車を見つければいいだけだ。
「俺何もしてねぇのに」
ライアンはつぶやいた。
馬のない馬車はすぐに見つかった。運転手と思しき、男は悪態を喚き散らしていた。ソラは歩み寄って、出来る限りの状況を話した。
「申し訳ありません……」
ソラはケイトコーンの雇い主に対して頭を深く下げたが、次に顔を上げた時には笑みを戻していた。普通なら胸倉を掴まれていただろう。しかし、ソラには少し違う空気が纏わりついていた。
「しかしながら、彼には自由に生きる権利があります。あなたはケイトコーン、デュリューを傷つけました。その時点で彼には自由になる権利が与えられます」
馬のいない馬車を触った。何度も塗料を塗られ、ツルッとした馬車には細かい飾りがつき、多少なりとも高級感があった。
「野生から連れてきましたね? それは違法です。許可なしで捕獲する事は許されてません」
御託を並べるのが大嫌いだったソラは許可印のついていない手綱を手渡した。それと共に相手の手に「印」をつけた。
「魔断協会の権限により職の凍結です。何かある場合は、これから来る人にでも言ってください」
「お前、いったい何のつもりだ!?俺の仕事どうしてくれるんや!」
「私だって仕事ですし。魔断志師として」
魔断志師とは、魔断協会に属する者の総称である。魔断協会に属する者を「魔断志師」と言うが、一般には戦闘を主とする術者を「魔断志師」と示す事が多い。
ソラもそのうちに含められる。魔断志師にはいくつか権限が与えられている。ソラが使ったように。大抵は独断と偏見で権限を使う事が多いが、横暴に権力を振るう事はない。
相手の行為が違法行為であったとしても服役というのはほとんどなく、残虐極まりない場合にしかない。それも残りの人生のほとんどを獄中で過ごすもので、短期間は少ない。大抵は奉仕活動と違法行為の内容によって変わる。
「あんたの仕事はそれでいいかも知らんけど、俺にはこれしかないんや! ボケが!」
顔を真っ赤にして口ひげを逆立てた男は自分の商売道具に傷をつけそうなほど、馬車を示すように叩いていた。少し塗装が剥げても男はシャツについたソースほどにも気にしていない。
「そう言う事はこれから来る者に言ってください。それにケイトコーンについてもちゃんと学んでくださいね」
男はそれまで商売道具である馬車を叩いていたが、ソラがそう言うや否や、叩くのをやめて少女の胸倉を掴もうとしたが少女にスルリと抜けられ、逆に腕をひねり上げられていた。
「手を出すのはあんまりだろ」
少年がソラの前に立っていた。足を踏み込むと男の腕を引っこ抜けそうなほど引っ張った。男の体が持ち上がり、グルンとひっくり返った。尻餅をついた男は唖然としていた。
ソラはライアンを押しのけるように前に出た。
「ケイトコーンは傷つくのをどの生き物よりも嫌います。あなたは彼の痛みを身をもって感じ取れますか?」
デュリューに撃ち込んだ銃弾が自分を見下ろす少女の隣に浮いているのを見て、男は口を開いたが恐怖で声が出なかった。弾は一瞬にして消え、ガュンと男の脇辺りで響いた。弾丸はレンガにめり込み、かすかに砂煙を上げていた。
「私が与える痛みとは違います」
ソラが男に背を向けた瞬間、道に埋まった弾から根のような銀が伸び、「印」のついた男の手を絡めとった。
「お前、時々恐ろしい事するよな」
ライアンの言葉通り、ソラは動物絡みになると少々熱くなる事が多かった。「心話」が出来るためでもあり、幼少期の友達がほとんど動物だったからでもある。個人的な恨みはなかったが、少女は動物絡みになると少し味方につく事が多かった。
ソラも少々やりすぎたとは思っていた。しかし、ライアンが止めなかったのも、それ以上の事をソラがするとは考えていなかったからだった。
「でも、殴りかかろうとしたライアンよりはマシだよ」
それも当たっていた。ソラはしゃべりださなければライアンの拳が男の頬にめり込んで、今頃殴り合いの真っ最中なうえに、二人の職が凍結していたかもしれない。
「雇い主に言わずに逃がしたソラは違法だろ」
「銃で撃ったんだから、向こうは三倍。ライアンも一般人を殴ってたら謹慎だったんだから」
ソラは帽子を被り、そう言った顔には悪戯っ子に近い笑みがあった。
「殴り合いになってたら時間に間に合ってないし」
ライアンはポケットから懐中時計を取り出すと時間を見た。ラプンツェルゴールドの本体とガラスの間に挟まれた銀の針が、昼が過ぎたのを知らせていた。
「行くよ! ライアン」
紙袋を少年から取り返し、ストリートを走り出した。