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すべての今日と僕のために

作者: kayu



        序


 目を覚ますと、三月は十四日になっていた。

 冬というには軟弱な日差しが暖かく、しかし春にもなりきれない不断な寒さの続く今日この頃、僕は例によって例のごとく、漫然とした遮光カーテンの薄暗がりの中で腐ったヘドロのように目を覚ました。

 小さくつまらない部屋だ。そこに僕が一人。足の側の壁にある大きな窓を覆う星空模様の遮光カーテン。開けた所で日差しは入らないことはいやというほど知っている。ごちゃごちゃとつまらない物に溢れたつまらない部屋。なにもつまらないのは物だけではないだろうが。

 楽しいか/楽しくないかと訊ねられれば――

「楽しいもんかって」

 僕は声を出してみる。

 乾いた空気を伝って壁にぶつかり、とくになんという変化もなく僕の耳に僕の声が返ってくる。天井と目が合う。じっと見つめ合う。二階の住人のいびきを一切邪魔しないデタッチメントな天井クンは今もこうして顔色ひとつ変えずただそこにある。

 小さくつまらない部屋だ。そこに僕が一人。

 僕が一人、そこに居るだけだった。


 ところで。

 たんなる建造物であるところの天井それ自体に生物よろしく二つの眼が付いているはずもない事くらいは……僕だって承知しているつもりなので、安心して欲しい。

 もっとも、君が冗談の通じる相手であるか否かは僕にはわかりようもないのだが。


     ○


 小さくつまらない僕の部屋ではあるが、だからといって外がここよりも素晴らしいものであるという保証はどこにもないことは容易に想像がつく。素晴らしい一面と素晴らしくない一面が重なり合わせねじり上げられた二枚の雑巾のように存在する外の世界。絞れば臭い汁が出るか旨い汁でも吸えるのかは……いや、この例はちょっと良くなかったかな。あまり想像したくない。

 ともあれ残念ながら、誠に遺憾ではあるが僕がそのホワット・ア・ワンダフル・ワールドを探すというようなことはない。探さずにはいられないというような熱意も無いし、日が暮れるまで探すほどの暇も無い。ちょっと探してみようかなという気分も余裕も無いのだから仕方ないだろ。暇を持て余しているようでいて、実際には頭の外も内も忙しくしている僕には、探す必要が無い。

 いや、少し、違うな。

 それは今までの僕の話であって、今ならばそう、その必要は「無かった」と言うべきだったろう。

 その程度がお似合いだ。

 今までこの小さくつまらない部屋に住んでいて、つまらなくないなにか素敵なものを求める必要に迫られることがなく済んでいたのは、なんのことはない、それは学校という〈外〉が僕の社会の内にあったからだ。

 この小さな部屋に比べて広く大きく、素敵なものたち――を含むそれなりなものたち――がそれなりに溢れている学校。この二箇所を行ったり来たりしながら僕は、まあ「それなりに」楽しんで生きていたんだと思う。

 学校生活は結構面白かったし、また結構以上に忙しかった。だからそれで十分だった。

 僕にしては十分すぎるくらいに、幸せだった。

 でもそれももう終わった。学生と呼ばれる、楽しいことをただ楽しむためだけに楽しむというモラトリアムの引力から弾き出された僕は社会と同じ時間の速さの中で生きることを余儀なくされた。

 が、実際はどうだったか。それは火を見るよりもこの姿を見れば明らかだ。

 僕は〈あわい〉に嵌ってしまっていた。

 僕は今や完全に、溝渠の底のヘドロになり果てている。この小さくつまらない部屋の底で、汚泥として、ただ生きている。



        起


 寝ぼけた足で掛け布団を払う。夢の国は本日分の営業を終了したようなので、仕方なく、乱雑に、布団を畳む。途中、毛布だけ引っこ抜いておく。

 重ねて畳まれた布団は適度な厚さを持っており、二度寝をするための玉座として丁度いい。実に丁度いい。まるでそのようにして使われるために設計されているようだ。実に丁度いい。

 いつもならこのままダラダラと、顔も洗わず飯も食わず本当にただダラダラと寝転んで時間を空に費やすのだが、しかし今日は何となく気持ちがむにゃむにゃしてそんな気になれなかった。

 なれないのだから、また仕方がない。

 ひと月前の今日、日本では、可笑しなお菓子のお祭りがあった。日本全土のうら清らかなる乙女たちがその初々しい心を(きらめ)かせていたそのころ、日本全土の男子たち(の中でもごく限られた特性を持つもの以外)は、ぎゅうぎゅう握り締めた手の中でぷるぷるふるえる小さな肝っ玉を、精神を削りすり減らし尖らせたか細いプライドでいまにも突き割らんとしていたことだろう。

 多くの恵まれない男子諸君にとっての恐るべき祭り事。一方でその不幸な野郎どもに贈られる温情。下賜(かし)(たまわ)るとはまさにこの事か。(説明するのもみっともないがこれは掛詞である(洒落を説明するのがみっともないというのと、肝心のそれ自体が駄洒落の出来損ないみたいでみっともないというのは別に掛かっていない))

 そして。

 それからひと月たった今日もまた、特別な日である。互いに強く絡み合う暦の上の二つの紅い丸と丸は、いかに製菓業界からの陰謀であろうとも、それは恋に恋し、性欲に欲情する学生たちには相変わらずの一大イヴェントなのである!

 温情にも返却期限がある!

 愛情にも返却期限がある!


     ○


「それにしても」

 ――「学生たちにとっては」かあ。僕は誰にともなくセンチメンタルな顔つきで溜め息をひとつ吐く。そうだ。僕はもう学生みたいな愉快な存在なんかじゃないわけだから、この祭りに参加することも許されてはいないだろう。

 それにしても。

「コイツか……。今日の変な違和感の正体はこのお祭り騒ぎのにおいだったんだな」。まあ実際に縁日が出ているという訳でもないのだけれど。などとどうでもいいことを思いながら僕はトイレに行く。三月もなかばといえど北海道はまだ十分すぎるほど冬だ。さむい。すごくさむい。

 なんとか寒さに耐えつつ用を足した所でふと玄関のドアが気になる。妙に気になる。開ければ単に外に繋がっているというだけのただの扉が、特に昨日から何も変わった様子はなくそこにあるようだが、しかし気になる。妙に気になる。違和感の正体がどれだけくだらないものだったかということはもうあらかた見当がついたはずなのに、異様に気になってしまう。

「……おーい」

 なにもない静かな不気味さに怖ろしくなった僕は耐え切れず声を出してしまう。情けない、藪の向こうの蛇に怯える蛙のような声。

 ゆっくりと、ドアノブに手をのせる。金属のメタルでできたそれは外の温度と同じくひんやりと冷たい。そのまま金色のノブを握る。金色といってもこのボロアパートの一室のドアノブが本物の金でできているはずがないから金メッキか何かで、その中身はなんだろう、真鍮とか?そのへんの事情は僕は知らないし知りようもない。知る手段を知らない。何しろ高卒ニートだからな。ははは。でもさすがに僕と一緒で中身が空っぽってことはないだろう。偽物ならばまだいいほうだ。

 などと、どうでもいいことを長々と考えていたおかげでだいぶ落ち着いてきた。同時に精神的負傷も負ったがこれは仕方ない。何者でもない以下であることは紛れも無い事実だし、ニートであることに甘んじている僕の責任だからな。

 落ち着きを取り戻し、またも自尊心を失った僕は、ゆっくりと玄関ドアを開く。果たしてそれはなんとも呆気なかった。扉の前にはなにもない。今日までの雪が昨日までと同じように冷たいコンクリートの地面を覆っている。

 恐怖の正体なんて呆気ないものだ。「え?これだけ?」なんて言いたくなってしまうくらい。


     ○


 それから僕はまた考えることにする。

 といってもそれはこれからのことじゃない。将来のことなんていくら考えても際限がない。かといって現状を見渡しても暗い気持ちなるだけだ。こういう時は昔話を思い出すしかない。

 僕は過去について考える。僕の過去について。

「楽しいことなんて無かった」と、過去を振り返って呟く人もいるけれど、それは単にその人にとっていろんなことがまだ過去になっていないというだけのことだ。

 過去、あるいは思い出に。

 僕は幸福だから、今までの話を振り返ってみても楽しかった思い出に溢れている。相対的に言えば今が不幸だから思い出が幸福なのだということと思ってしまいがちだがそれは間違いであり、本当の幸福とは絶対的に普遍的な存在であり、誰しもの感じうるところなのだが全ての人がそれに気づく事ができるというわけではなく、今までの人生でその絶対不変な幸福の存在に気づくことの出来なかった人というのも多くいるだろうし、またそういった人々は学問と科学に頼むところがあるので、その思考と比較から一偏の相対主義に陥っていまうことも多くあるだろうから、ともすれば一見して僕の事を「幸福な過去に溺れる不幸者」だと勘違いしてしまう人もあるだろうがしかし、

 ――やめよう。

 さっき言ったばかりじゃないか。現状を見つめてしまえば一気に暗渠の底なのだ。もうそういうのは止めにして、美しい思い出に浸ろう。

 そうだ。

 その通りだ。

 僕は不幸でつまらない。

 だから許して欲しい。

 いつまでも暖かい布団の中で惰眠をむさぼることを。

 幸福だったあの頃に泥濘むことを。


 具体的な過去について思い出し、語ろう。



        承


 自分の限界っていうのはある程度大人になれば自然とわかってくるもんで、自分が壊れるほどの無茶は自然としなくなってくもんなのよ、と言ってくれたのは確か高校生の頃に付き合ってた恋人のお母さんで、今じゃもうまともに付き合いもないような人の親のことをどうこう言うのは憚られるけど、そのお母さんという人が、まあどこをどう見ても昔ヤンチャしてました、というか、黙っててもそういう方向へ道案内してくれるような奴らがわらわらと集まってきそうな、夜中の街灯(ネオン)みたいにピカピカ光っている人で、それはだから、その、昔の彼女のお母さんをそういう目で見てたってわけじゃないけれど、はっきり言ってしまえばすんごい美人だったわけ。まあ当然なんだけど自分が惚れた人の製造元なんだから、僕が好きになる何らかの要素を持っていたって不思議じゃないし、実際に「あーこのつり目がちな二重(ふたえ)と茶色っぽい猫っ毛は母親譲りなのな」とか「この姿勢の良さはやっぱり家の教育なんだろうか」とか。思ってしまうわけだけど、全く恥ずかしい気持ちはない。恥ずかしい気持ちはないにせよ堂々と観察するわけにもいかないので、居心地悪く視線をふらふらさせながら終始へらへらしていたと思う。そりゃあ「このおっぱい吸ってりゃあのおっぱいになるだろうな」なんてことが頭をよぎった時はさすがに、よぎった思いがよぎり去る前にどうやったら自分で自分の首を切り落とせるかを一瞬考えたけど、一瞬だけに留めてやめた。当然だ。自分が今この瞬間になにを考えていたって外に出さない限りそれはあるもないもおんなじことで、外に出さない限りにおいてはどうしたって構わないのだ。知りようのない不安にどうこう策を講じることができないように、言葉にしていない他人の考えをどうこうすることはできない。それは認められるとか認められないとか、許されるとか許されないとかの問題ではないのだ。

 そんなことはどうだっていいから。

 それだけそのことにすぎないから。

 でもとりあえず僕はそんな風にしてひとまず自分の愚劣な感情をまあまあ許せる程度に薄めてなだめる。よしよし。僕が彼女の母親越しに彼女を見ていたからといって、それ自体なんら恥じ入ることはない。木を見て森を見ずと言うが、僕は森を見ながら一本の木の美しさについて思い巡らせていたわけだから、むしろ誇るべきことだろうと思う。

 ……いや、さすがにそこまでは思わない。僕だって馬鹿ではない。

 すでに馬鹿を晒しているということについては、考慮に入れない。


 昔話を思い出しながら、このままなんの気なしにコンビニでも行くようにしてふらっと死んでしまったら、それはそれでアリかもしれないと思った。アウトサイダー・アーティストのように、幾つもの小説の断片だけ残して誰にも認められることのないまま不遇の死と共に伝説になる。

 悪くない――がしかし、僕にはそんな魅力も人脈もないし、やるならまずはヴィヴィアン・ガールズたちの物語を二万頁ほど書いてからでないと意味がないと思って諦めた。そんなのは無理だ。


     ○


 ナルコは抹茶のアイスが嫌いだった。僕が呑気な顔で幸せそうに食べているのをいつも不思議そうに見ていた。甘いものも緑茶も好きなのに、抹茶アイスや抹茶チョコは食べられないという彼女のほうがよっぽど不思議なのだが。

「えーなんで食べれるのー?」

「抹茶アイス好きなんだよ。いいじゃん」

「よくないよー。苦いじゃんそれ。わけわかんなくなんない?」

「なんないよ。それに自分だってリプトンの紅茶よく飲むじゃん。お茶なのに甘いって、あっちのほうがわけわかんないよ」

「あーれーはー、いいの。美味しいし」

 今よりは多少小説らしいものを書いていた高校時代、僕らはそうやって部活終わりの教室でだらだら喋るのが常だった。

 音楽室でのミーティングが終わると、ナルコは学校を出てすぐ近くのコンビニへ行く。僕はタラタラと楽器を片付けて、そのまま一年六組の教室で待つ。ただ待っているのも淋しいから僕はノートを開き書きかけの文章を頭から読み直す。「自分の書く文章はどうしてこんなにもつまらないのか」とどうしようもなく死にたい気持ちになりながら、それでもそんなことを言っていても仕方がないので続きを書き始める。ほとんど泣きながら書いては消して書いては消してを繰り返すのだけどいっこうに面白くならない。ああ僕には才能というものがないんだ。何か事を為すには才能と信念と行動力が必要だというが、果たして僕に欠けているものはなにか。全部か。はぁ。と溜息をひとつ。

 だいたいそんなことをしているうちにナルコがコンビニから帰ってきて「あーもう書いてるし! 私が帰ってきてからって言ってるじゃん!」とビニール袋をカシャカシャ鳴らしながら僕の前の席につく。「僕の前の席」ということには彼女なりのこだわりがあったようで、一度僕が一番前の席にいた時にはびっくりするほど怖い顔で後ろに下がれと促してきた。促すというより命令、あるいは脅迫に等しかった。

 ナルコがいつものように僕の前に陣取ると椅子を九十度回転、「ふぅー」と、僕のものとは全く感触の違う溜息をひとつ。

「ハイこれけーくんの分ね」

 スーパーカップが机に叩きつけられる。彼女は何事をするにも若干勢いをつけすぎるところがあった。僕は一旦ノートを閉じて脇にずらし、机の上に飛び散った水滴を軽く拭いてアイスの蓋を開ける。その動作に合わせるようにして木のスプーンが置かれる。彼女はタイミングというかリズム感がよく、とても気の利く人だった。利発で勘の鋭いところが好きだった。嬉し恥ずかし惚れなおし、彼女の方を見上げると、ナルコはもうさっさと自分の分を食べていた。

「食べないのん?」

 まあいいや。僕はアイスのカップを手のひらで軽く温めながらナルコを見る。僕は彼女の自由放任支持なところも好きだった。

 ナルコは背もたれを使わない。ぴんと糸で吊られたような美しい姿勢で夕焼け空の紅い窓をじっと見つめる。ナルコはこの教室から見える景色が好きだと言っていた。この時間、小高い丘の上にあるこの学校の四階教室からは紅く染まった湖が見える。

 僕もその景色が好きだった。同じくらい、怖かった。

「さてさて。先生の原稿はどこまで進みましたかなァ?」

 しかつめらしくノートを開いてナルコが言う。どこまでもなにもないですよ。僕の情けない弁明は聞こえていないのか聞く気がないのか、素晴らしく良い姿勢のまま、黙って頁を進めてゆく。

 最後の頁まで終わったあと、「一応確認ね」といった感じで次の頁を覗き込んでから「ふむぅん」と深い唸り声と共にノートを閉じる。

「……いかがですかね?」

 とりあえずのご機嫌伺い。しかしそれにはなんの意味もないということを、僕は知っている。彼女から直接感想を言われたことはない。彼女が僕の書くものをどう思っているのか、訊いてみたことはある。それに明確な回答をもらったことは、まだない。


     ○


 ナルコに宛てて書いたものは、彼女の手によってパソコンで清書されファイリングされ、部室の片隅に置かれるようになる。

 端から彼女に向けてしか書かれていないし、だいいち自分のような素人が書いたようなものを半特定多数の人間に見せようなどということは怖ろしくて考えようともしなかった。もし誰かに見せようよなんて言われたら、僕は間違いなく反対していただろう。ひょっとしたらノートを焼き捨てていたかもしれない。

 ところが彼女はそれすらも想定の内で、はじめから僕に相談することもしなかった。僕の書いたものはその全てにおいて、惜しげもなくふんだんに、公開されることになる。

 僕の創作ファイルは部室の楽器棚に置かれていたのだが、僕ははじめそのことに全く気づかなかった。それはその棚が僕の部活生活範囲外の棚だったからというのもあるのだが、なによりその棚がクラリネットパートの楽器棚だったというのが大きい。

 吹奏楽部全楽器中で最も女の子らしいと言っても過言ではないクラリネットパートの団結力は凄まじくかつ静穏で、ファイルは最初の数日間で棚に戻されることもなくあっという間に読み回されたらしい。僕の書いたものはパート内に温かく迎え入れられたらしいが、女の子の伝達力は本当に怖ろしいもので、ファイルはクラリネットパートに留まることなくファイルの存在は着実に他のパートへも読み広められていった。

 これも後になって判明したのだが、ファイルには注意書きとして僕に知らせないように明記されていたらしく、波及速度に対してかなり後になるまで僕はこれらの出来事を知ることが出来なかった。だからこのファイルがいつ頃作られたものなのか明確にはわからないのだが、ファイルの存在が広まり始めてからもしばらくの間は、ほかならぬ僕の手によって、作品の更新が続いていた。


 僕が知るところとなったのは、受験勉強としばらくぶりの大きなスランプで新作が全く書けなくなっていた頃に届いた一通の手紙がきっかけだった。

「どうしても伝えたい事があったので、本当はいけないのですが手紙を書きます。」

 そんな不吉な書き出しから始まる手紙を読んだ時、僕は心底驚いて、本当に意識が飛びそうになった。喉から心臓を掴まれたかと思った。

 なにが起こっているのか、わからなくなった。

 例えば下駄箱にでも入っていれば、あるいは何らかの恋文だとか、そういうことも考えられたかもしれないが、

「小説を書くのをやめないでください。」

 そんなふうに締めくくられる手紙が自分の楽器ケースの上に置かれていたら、青ざめもする。

 自分の身近な人ただ一人にしか読ませていない、読ませる気もないつもりで書いていた小さく拙い文章が、まさか絶対に読まれてはいけないような部活仲間の誰かに読まれている。

 もっといえば。例えばもし自分の書いたものが他の部員複数名にも見られていたとしたら――例えばあのトランペットパートにでも読まれていたとしたら――。僕は目の前の空間がゆっくりと沈んでゆくのを感じた。


     ○


 僕の小説がどんな風に読まれているのか、誰かから直に感想を聞いたのはそれが初めてだった。

 差出人不明の手紙。

 女の子らしいメルヘンチックな便箋と封筒に、女の子らしい柔らかな文字で書かれた文章。

 しかしそこに書かれている内容は苛烈だった。

 四枚に及ぶ便箋には可愛らしく崩された文字で、いかにして僕の文章に出会ったのか、僕の文章がどれほどに素晴らしいと思えるか、そして手紙の差出し主が僕の文章に――僕の文章ごときに――どれほど助けられ、生きる活力を得ているかが、決して稚拙ではない言葉遣いで書かれてあった。だから書くのをやめないでくれとの願いが、書かれてあった。

 手紙そのものの優しげな雰囲気とは裏腹に、その文面からは叫び声が聞こえた。

 はっきり言って嬉しかった。

 こっそり書き続けていた瑣末な文章が見られていたという恥ずかしさはあったが、しかしそんな文章でもこんな風に人の心に響くのだという事実が嬉しかった。喜びの感情は、何度も何度も、読み返す毎に高まった。

 しかし書けるもの自体は高まる気持ちに比例しなかった。

 書こうと思えば思うほど、手は震え思考は止まった。今までだって一人の人に向けて書いていたのだから要領は変わらないはずだ。なのに書けない。

 悪いものは悪いものを呼び、僕は成績も下がり、部活を引退すると同時に学校に対する熱が完全に冷め、授業が完全に受験対策になる頃にはほとんど学校へは行かず、卒業式も欠席し、結果として大学受験にも失敗した。

 もちろん僕が受験に失敗したのはそれだけが理由じゃないだろう。元々の成績だって特段誉められたものではなかったし。だけどこの結果がまた更なる悪循環を生んだ。

 人生が腐り落ちるのを感じた。

 僕は物語を、完全に書けなくなってしまった。

 丸一年たっぷり休むと人は大復活するか大墮落するかどちらかだ。もう二年になる僕がどちらの人間か、あまりにも明らかだろう。



        転


「彼女にとって僕の小説とはなんだったのか」

 僕はあの頃、慰めが欲しかったのかもしれない。

「彼女にとって僕とはなんだったのか」

「あなたが居なくては駄目よ」と。

 ならばなぜもっと切実に返答を求めなかった?

 例えば、もし、そうじゃない、コトバじゃない、何かはっきりとした輪郭のあるものを提示されたとしたら、僕にそれを握り締めることはできたのだろうか。


     ○


 暗渠(あんきょ)に淀むヘドロとして、泥濘(ぬかる)んだ日々を堆積する。

 無益だ。無意味だ。つまらない、小さな世界。

 しかしなぜか。

 僕が部を引退した頃からだ、こんな何もない、ただただ何もないこの部屋に、なぜかどこかから贈り物が届いていた。

 年賀状からクリスマスまで、時期や文化を問わず贈られてくるさまざまのもの。はじめにクリスマスプレゼントが届いた時は実家からかと思い訊ねてみたが違うらしい。

 そのうち贈り物に小さな手紙が付くようになった。そしてその文字には見覚えがあった。

 あの手紙の字だ。

 僕は二言三言しか書かれていない幾つもの手紙を見て、とてもやりきれない気持ちになった。

 救いようのない自分のような屑を、こんな風に気にかけてくれる人がいる。それに対して自分は何もできない。本当に、何もできていない。涙すら出なかった。

 ひと月前、また贈り物が届いた。ヴァレンタインデイ。添えられていた手紙はいつにも増して短く、強い言葉だった。

「あなたのことが、大好きでした」

 僕は携帯電話を手に取りメールの受信履歴を遡った。

 八件目。

 どうしていまさらそんなことを言うんだろう。遅すぎだよという憤り。でも彼女もきっと長いこと悩んだんだろう。だから僕も悩んで、悩む余地もない事実に悩んで、そして答を出した。遅すぎても時間がかかっても未来は未来としてそこにある。

 深刻になるのはよそう。明るく行こうじゃないか。未来を祝うのだ。幸せを迎えるのだ。ありがとうを届けるのだ。

 愛にも、返却期限がある。


     ○


 僕は事件を起こさなくてはいけないと思っていた。始まらない日常から何かを始めなければいけないと思っていた。つまらない世界の何かを変えねばならないと焦っていた。

 僕のこの世界に、何かが起こってくれなければと、願っていた。


 対して。


 僕の書くものには事件がなかった。

 僕は変化しないことを怖れていた。そしてそれと同じくらい、変化することを怖れていたのかもしれない。

 僕がどうしても逃れたかったつまらない日常を、僕自身が書き続けていたのかもしれない。

 そして、それを見透かされるのが怖かった。

 夕日が沈み、物語が終わる頃になっても、何も、起こらないのだろう。


     ○


「あの人、今いくつだっけ?」「今年で二十六かな」「ってことは、僕がかよってた頃は二十二、三ぐらいか……」「そうなるね」「えぇー、見た目より若いなぁ。あの人……」「そうそう! あはは。あの人さ『大人っぽい』って言われるとすんごい怒るのよ」「落ち着いてるし、見た目からして頭良さそうだからってのも、あるんだけどね」「うん。あるね。」「言った方も、褒めたつもりが怒らせちゃったら申し訳ないよね」「申し訳ないってw たしかに、無駄に申し訳ないねw」「『無駄に』なんて言ってやるなよ」「でもずっと『大人っぽいねー』って言われてきたから嫌んなっちゃったみたいよ」「そっか」「……うん」「……でもきっと、そういうところが、きっかけだったんだろなって思う」

「……そっか。」


「で、いつにするの?」

「うーん、彼は早いほうがいいんじゃないかって言ってる」

「そ。で……自分としてはどうなのさ?」

「そうだねえ……実を言うとさ、結構いつでも良かったりすんのよね。別にっていうか」

「別にってことはないでしょう。だってそのためにこっち戻ってきたんでしょ? 引越しまでしてさ」

「いやいやいや、もともと実家がこっちだから引越し自体はそんなに大変なもんじゃないのだよ(エッヘン)」

「いや引越しの大変さ話はどうでも良くって……。あーじゃあアレは?親には?もう言ってあるの?」

「ああ、親ね。うん、あっちの親にはあったよ。『良い子だねー』って頭なでられちゃった! へへへ。……あ!それはお母さんにね!女の人にだからね!」

「いいよ、そんなムキにならなくても」

「あ、そっか。キミはそういうの気にしないタイプだったもんね」

「はいはい。どうせ僕は過去の人ですよ」

「卑屈んなんなよおー」

「いいんですぅ。僕はそういう人間なんでぇ。――じゃなくて。そっちの親御さんはどうなのさ」

「あたしんとこの親御さんかい? うーん、概ねおっけーな感じではあるんだけどね……」

「ははあ。アレか、『お前に娘はやらーん!』的なシーンが繰り広げられたんだな?」「ないない」「えーないのー? なんかそれはそれで残念」「なによ残念って」「そりゃあ残念でしょうよ」「でも、まあ反対されたのは事実なんだけどね」「そうなの? あんなリアクションしといてなんだけど、ちょっと意外かも」「あーほらうちの親ってさ、結構厳しいじゃん? だからっていうか」「まだ早い、みたいな?」「そそ」「ふーん。でもあの人だって結構いいとこに務めて仕事してんじゃん」「まあねぇ……」「それこそお父さんの仕事にも似てるとこあるし」「あー、いやいや、それはちがくてね……」「ん?」「反対してるのは主にお母さんなのよ」「へぇ、それはまた意外」「まあなんとなくわかる気はするけどね。お母さんも若い歳の差婚で結構苦労したらしいし」「そうかぁ」

「あ、でもねでもね、お父さんはむしろ喜んでるの!『さっさと嫁に貰ってくれー』って彼に酔っ払った勢いで言っちゃうくらいなんだから、もう!」

「あぁ……そうなんだ」

「その後も二人で、お母さんに聞こえないようにベランダに出て長いこと話しててさ、あとから彼に聞いたんだけど、『教育の仕事はつらいよなあ〜』とか『いいか、年下で、はじめはしおらしい素振りを見せてても、結局は尻に敷かれる事になるんだ。心しておけよ……』とか、挙句の果てには『あいつは母さんによく似てるから‥‥君の好みと俺の好みは似た者同士似た者同時だってことだな!』『間違っても俺の嫁さんには手を出さないでくれよ!』だって。信じられる?『ガハハハ!』じゃないわよ。ホント」

「……ん、良いじゃん。いい感じで。幸せそうじゃん?」

「そうかな? 彼だってその時は気まずそうなフリしてたけど、私達の家帰ったらすんごい楽しそうに言うのよ? お父さんも無神経だし彼も調子良すぎよ」

「それぐらい砕けた関係ってことで、いいんじゃないかな。うん。家族って感じで、いいと思う」

「そう? なら、いいんだけ、ど――――あっ」

「なに?」

「いや……私、その……」

「あーなに? またウチの事でしょ。いいよそっちじゃないから。気にすんなって言ってるじゃん?いっつも」

「うん、でも……ごめん」

「それにこの事で謝られるの、そのことのほうがあんまり好きじゃないし」

「あ……そうだったよね。うん、あの……ご、めん」

「謝るなって言われても、また謝っちゃうところは相変わらずなのな」

「あー…………んー……」

「もういい加減に学習しなさいよ。知りあってからもう何年になるのさ」


     ○


 久々に会ったナルコは一段と美人になっていた。久々といっても丸一年も経っていないというのに、ナルコの方は立派に大人の女性になっていた。楽しそうに今の話、これからの未来の話をするナルコの瞳は美しく輝いていて、僕はまたいつかのように、その瞳に吸い込まれていた。

「さすがに日が暮れたら寒いね」「明日は雪だって言ってたなぁ」「えー! 雪はいやだなあ……」「あはは、ホントよく転ぶよね」「うーわー。まだ覚えてんの?」「目の前でアレ、だったからね」「やめときなよ〜そういう性格」「性格じゃどうしようもないな」「でもホントに良く覚えてるね」「忘れようがないって所もある」「私は、けっこう忘れてるなあ」「まあ、そんなもんじゃない?」「二人の約束も、二人の時間も」「そういうものだよ。人間って」「そういうのって、さびしい?」「うーん、さあ?どうなのかな」「またそうやってごまかす……」「別にごまかしてはいないって」

 対して僕は、いつまでも過去の話しか出来なかった。過去にしがみついたまま、一歩も前に進んでいない。

 後ろへ後ろへと過ぎ去ってゆく過去に、しがみついたまま。


 ごまかしてるよ。

 私は、けーくんに訊いてるの。

 けーくんは、結婚する私を、けーくんを忘れていく私を、けーくんは、さびしいって思う?


     ○


 彼女は最後まで僕の名を呼ぶことはなかった。

 鞄にはナルコ渡すはずだった桜色のキャンディと二十枚ほどの短い小説が入っている。

 僕の小説を読んでも感想というような感想を一度も語ることのなかったナルコ。もしこの小説を読んだら、ナルコはなんと言っただろう。やはりなにも言わなかっただろうか。

「これ、新しい住所だから、よかったら遊びに来て」

 レストランのコースターには店のマスコットであるオレンジの人魚が描かれている。その裏に筑紫明朝でプリントされたような美しい字でこの近くの地名が書かれている。通ったことはあるかもしれないが、意識してそこへ行ったことはない。



        結


 歩いて三分のスーパーマーケットに申し訳程度に併設してあるいつものコインランドリーは、いつもと同じようにして開店してそこにあった。ただ、いつもと違う感じがするのは、それが木曜日だったというところにあるのかもしれない。

 奥から二番目のクリーム色の縦型洗濯機が僕のいつもの場所だ。入り口一番手前のドラム式洗濯機のほうが新しくて性能もいいのだろうけど、僕はなんとなくこちらの旧式を使っている。

 水曜日の見慣れた景色と何らの変わりもない木曜日のコインランドリー。一つの屋根と別々の入り口を持ったスーパーマーケットの方とは比ぶべくもなく、どうやって経営を保っているのかわからないほど客の入りは少ない。現時点でもこうして僕一人しか人の姿はない。

 「まあ。」

 平日の昼間からコインランドリーで呑気にお洗濯というのも人生極まれりという感がある。

 僕の他には無数の洗濯機と乾燥機があるだけのオスのチョウチンアンコウみたいな建物の中にごうんごうんと重たいモーターの音が響く。色気のないBGMのなかで僕は読みかけの本を取り出す。

 暇つぶしのために読む本には意味なんて必要なく、ただ連なった文字が日本語の文法的に正しければそれで良い。咀嚼するようにページを繰る。咀嚼もただ食べるため、生きるための機械的な動作の一つに過ぎない。

 かような、暇つぶしもままならない思考の雑音をどうやって無視しようか思考するほど馬鹿らしいことはない。はあ。と溜息をひとつ。遅れて扉が開く。なんのことはない、コインランドリーの引き戸が開いただけのことだ。ああ、僕の未来への扉もこんな風にいとも容易く開けばいいのに。重たすぎる。そんなに仰々しくなくたっていいのにといつも思う。僕には荷が重すぎるのだ。レールに蝋でも塗っておいてくれ。

 入ってきたのは女性だった。

 一列しかない洗濯機に向かい合うようにして並んだベンチソファの一番奥に僕は座っている。女性は入ってくると僕の方を横目でちらりと見てから見なかったふりをして、一回分数百円を掛けるにはいかにも少なすぎる衣類を洗濯機へ放り込んでゆく。ここにある洗濯機、縦置き式とドラム式ではその容量が微妙に異なり、ドラム式のほうが大きい。そのことは明記されているし、ぱっと見でもすぐに分かるのだが、はたして彼女が選んだのは入り口すぐ横のドラム式洗濯機だった。

 いつでも逃げられる。

 まあそうだろうな。女の人はただ女だというだけで不利であるし、男はみんな、十八を過ぎればおっさんだ。

 僕はなるべく「あなたの下着なんてこれっぽっちも見ていませんよ」という顔をしてみる。ただのまぬけ顔が、ただごとじゃないまぬけ顔になるのを感じ、恥じ入る。

 ふんわりとした栗色のセミロングが乾いた空気を包んで女性のうなじを隠している。

 一度の洗濯には、その量に関係なく三十分以上かかるのだけど、女性は洗濯機の前をいっこうに動こうとしない。さすがに僕でも作動中の洗濯機の中から下着を盗もうとは考えない。それともひと続きになったベンチソファから僕の何らかの卑しい想念が感染するのを怖れているのだろうか。わからなくもない。

 僕はまた本を栞のところから開いて読み始める。

 さっきまでどこを読んでいたかというのは栞しか知らない。僕は同じような一文を何度も読んでいる気がする。それもどうでもいい。

 女性が椅子に着いたらしい。ギッと軋む音がしたので、たぶん洗濯機の近くにおいてあるパイプ椅子の方に座ったのだろう。賢明である。僕は賢明で聡明な女性が好きだ。また木曜日に来ればこの人に会えるだろうかとも考えたが、それはちょっと怖ろしいものがあるなと思ってやめた。

 しばらくすると僕の方の洗濯機が止まった。気まずい感じなのでこのまま帰ってしまってもいいのだけど、コミュニケーションもクソもないこんな場所では無用の気遣いだと思う。衣類だってびしょびしょなわけだし。

 洗濯機のなかの被洗濯物を取り出すと僕は隣にある三つの乾燥機のところへ移動する。このコインランドリーは洗濯機自体も少ないが、その洗濯機に比べて乾燥機は更に少ない。こんな設備で商売が成り立っているのは毎週利用している僕と、ほんの僅かでも洗濯物が溜まるたびに利用するらしいこの女性のお陰であるだろう。この施設の所有者は我々にもっと感謝すべきだ。僕はいま替えのパンツが欲しいと思っていたので、例えばそんなものを恵んでくれると助かる。

 とはいえ、この簡素で質素な洗濯施設が成立しているのはほかならぬ、大本のメスチョウチンアンコウであるところのスーパーマーケットの方がそれなりに儲かっているからなのだろう。建物の形から見ても、どう考えてもオーナーは同一だ。付属品は付属品らしく慎ましやかに日常の業務をこなすのみである。

 乾燥機に衣服の全てを詰め、僕はまたベンチソファに戻る。その際ちらりと女性の方を見てみたのだが、わかったことがある。この女性、ただ者ならぬ美人である。

 かと言ってどうとなるわけでもなし、僕は黙ってまた本に目を戻す。

 乾燥機の駆動は十分百円とキリよく決められていたが、実際には二百円分は使わないととても鞄に入れて持ち帰れるほどに乾いてはくれないので、結局のところ最低でも乾燥だけに二十分は要することになる。

 そのうち女性の方も洗濯が終わり、乾燥の段に入る。

 正直言うと、この人は乾燥機にかけないでこのまま帰るんじゃないかと思っていた。平日の真昼間に怪しい男と二人きりである。一刻も早く立ち去りたいだろう。ふつう。

 栗色の髪の女性は衣服を一枚ずつ手に取りパンパンと軽く伸ばして自前のかごに放り込む。シャツとスカートとシャツとタオルとシャツと、あとなにか異様に布材の少ないもの。

 全てを回収し終えると、なにを思ったか乾燥機の方へと歩き出した。「いやいやいや」と、さすがに引き止めこそしなかったが、あれだけ全身から警戒心と緊張感を出しながらもなお、これからこの場に留まろうというのはあまり健康的な趣味とは思えない。

 とそこで。僕は自分が女性をまじまじと見つめていたことに気づいた。いや、気づいたのは僕ではない。女性のほうだった。

 彼女と目が合った。

 とっさに本に視線を戻すとそれは既に閉じられており、仕方なく表紙を見つめる。表紙は著者と題名が書かれているだけの簡素なもので、僕は「どうしてこんな粗末な文庫が、こんな値段するのだろうか」などということを考えていた。

 彼女がこちらを見ているのを感じる。

「あのー……」

 逃げられない気がする。

 この場には僕と彼女しかいないし、位置から考えても明らかにこちらに話しかけているものを聞こえなかったふりをするわけにもいかないのでとりあえず「なんでしょうか、僕に何か用でしょうか」という思いを込めた咳払いをしてみる。顔は背けたまま。

「その本、面白いですか?」

 こちらに近づきながら女性が問う。

 僕はその質問はどうかなと思う。

 僕がこの本をどう読んでいるか知ったところでどうなるというのか。彼女自身がこの本を読んでいたとしても読んでいなかったとしても、一体何を知りたいのか。そもそも何のために知りたいのかが判然としない。

 なんにしたってその質問は、唐突がすぎる。

「いやあ、よくわからないんですよ」

 彼女は続けて問う。

「でも、少しは分かっているんでしょう?」

「いえ、それがちっとも。全くわからない本なんですよ」

 ぽん、と本を目の前のテーブルの上に置く。彼女の手が、伸び、左手の三指でそれを半回転させる。

「淡い桜色に銀箔押しの題名だけの表紙だなんて……とってもキレイでかわいいですね」

 不思議な人だ。「キレイでかわいい」とはどういう状況だろう。

「でも、本当にさっぱりわからないんですよ。これだけ読んでもこんなにわからないんだったら、はたして僕は『読んでいる』といえるのだろうかと疑問になります」

「自分がまっとうな読書家ではないのではないかと、ですか?」

「そう。表面的な結果を見ればどちらも同じ事です」

 だけど。それでいいとも思う。

「わかったか、わからないか……。でも、わかろうとしたかしていないかではぜんぜん違うと思います」

「そうですね。僕もそう思います。読書家は良い読者とは限らない。だから僕は『読書家』じゃなくていい――、」

「読書家じゃないほうがいい。『自称読書家は親切心で本を読まない』ですか?」

 不思議な人だと思った。僕が思ったことと一字一句同じなわけではない、でも、一度は思ったことがあるような言葉。

「あなたは、不思議な人ですね」

 指が、すごく綺麗だ。

「初めて話した時も、先輩はそう言われましたね」



        終


 歩川さとこという人について。

 よく思い出せない。しかし彼女について「印象の薄い人だった」という人物評は正確ではない。しかし事実として間違いでもない。思い出すことができないのは僕の責任だが、それは覚えていないと言うことではない。思い出そうと思えば思い出せたと思う。しかし思い出そうと思うその瞬間まで、僕は彼女のことの一切を忘れていた。

 歩川さとこは僕から見て部活の後輩のひとりに過ぎなかった。低めの鼻と二重の目、薄めの唇から覗くクリーム色の犬歯。特別手入れをしている感じのしない真っ黒なストレートのセミロング。地味すぎず、しかし派手にならない程度に抑えられた制服の着崩しと、女の子らしく可愛らしい小物類。

 ごく普通の女の子だった。

 歩川さんは特別優れた生徒・部員ではなかったように記憶している。

 いつもどこか心ここにあらずといった感じで、何を考えているのかわからないというか、そもそも何も考えていないというか。「そんなぽけーっとして、悩みなんかなさそうでいいねぇ」とからかわれ、「そんなことないです。いまの私にとっては重大な問題なんです」と返すいつもの姿。

 現在から見て過去の自分の悩みなどというものはおしなべてつまらない些細なつまずきでしかないのだけど、ただその時にとっては重大で深刻な悩みに違いない。

 イマココの「自分」。進行方向はいつも未来で、過去を置き去りにして前へ前へと進んでゆく。それを認識してなお「自分」への思いを失わず抱き続けている。

 人生の悩み方なんてこれぽっちもわからない僕たちの中で、歩川さとこは確かに「その場所」立っていた。

 不思議な人だと思った。


 時間はすべての人に平等で、際限がなく、感情もない。非情な規律の中でひたすらに公平である。

「歩川さん、いくらか雰囲気が変わりましたね」

「そうですか? そうでしょう。まあまあそれなりに努力はしましたから」

「綺麗になったね」とか、もう少し、いくらか才気のある男なら気の利いた一言を言ってのけるのだろうけど、僕では少しばかり役者不足である。この顔で言えた台詞ではない。

「相変わらずですね」と、歩川さんが笑いながら言う。ご指摘の通り、僕の方は相変わらずというか代わり映えもしない毎日をあれからずっとやり過ごしている。「その理屈っぽいところもです」。だといいんですけどね。むしろ感情的ですよ。理屈の分かる人はこんなに無駄の多い人生を送らないでしょう。「じゃあ『偏屈』に言い換えますか?」……その鋭利で怜悧な返答は相変わらずのご様子で。「お褒めに預かり光栄です」。僕なんかの褒め言葉で良ければいくらでも。「またそんなこと言って」

「ナルコ先輩が結婚するの、聞きましたか?」

「うん。本人から直接」

「もう私たちもそういう年令になったんですよね」

「そうですね。高校生の頃から一体なにが変わったのか分からないですけど……、たぶん色々と変わっているのでしょうね」

 変わることを強いられているのではなくて、僕達は無意識の内にいつだって変わっているのだろう。自分を探したり鍛えたりするのはその「変わる方向」をなんとかして自分の意図するところに収めるための行為で、交通整理みたいなものに過ぎない。「過ぎない」と言ってもそれにこだわる人が大勢いるのだから、きっと少なくともどうでもいいことではないのだろう。

 自分のあずかり知らぬところで自分が変わってゆくという恐怖。

 一方で、何も変わらないでいるという恐怖。

 この二つは決して矛盾しない。


 ゆるやかな沈黙が僕と歩川さんの間を流れる。沈黙が苦にならないのが男女の関係として最も好ましいというような話を聞いたことがある。そして、そのような話をよく、話題に困って話したことが何度もある。

「どれくらい読んだんですか?」と歩川さんが僕に訊く。「それ」と机の上の本を指さして、僕の顔を覗き込む。

「三回くらいですかね」

 僕がそう答えると、歩川さんは僕が何を言っているのかわからないというような顔をしてしまう。

「あ! そうか! もう何回も読み終わって履いたんですね」

 とそこまで言われてようやく僕も、彼女の質問の意味を把握する。そうこれはいま四回目か五回目くらいの二ニ五頁目です。それなのにこう人に内容を説明もできないほどにしか――というか全く――読めていないというのは、恥ずかしい限りなのですが。

「先輩は本当にネガティブですね。もっと適当に自信を持って生きても、誰も怒らないと思います」

 自信という言葉の意味はなんとなくわかりますが、自信を持っているという状態がどういう状態なのかがわからないのです。想像すらできない。自分が正しいのか、正しいことはなんなのかすらわからないのに、どうやって自分の行為に自信を持てるのでしょうか。僕にはわからない。適当に抱いた僕の自信を、他の誰もが許そうとも、僕がそれを許さないでしょう。

「じゃあ私が許します」

 真面目くさって歩川さんが言うのがなんだか妙におかしくて、思わず笑みがこぼれる。「ありがとう」。僕は本心からそう言う。

「歩川さんは優しいですね」

 そう優しくされると、僕としてもどうしたら良いのかわからなくなってしまう。

「私の優しさはいつも悪意に基づいていますので」

「悪意?」

「そうです。私はいつだって私のために、相手が私に優しくせざるを得ないように悪意を持って言動を制御しているのです」

 そうか。賢い生き方だと思う。

「わたし」が認識する、「わたし」だけが知っている「この世界」。言ってしまえば「この世界」には自分自身をおいて他には誰も居ないといっても良い。だから自分の生きやすいように「この世界」を固定する。「この世界」を「わたし」のためだけのものにする。

 自分が何のために生きているか考えたことはあっても、不思議と『誰のために生きているか』は考えない。

 でも。

 それでもたしかに、この世界は自分を中心に回っている。

 だからはっきりと、「わたし」は「わたし」のために生きるんだ。


 僕は、僕のために。


 と言っても、自分の言行を統制し尽くすというのは困難なことではあるけれど。

 しかしだからこそ、僕たちはよく生きなくてはならないんだ。


「swim with the current. 時の流れに乗ってゆきましょうよ」

 歩川さんは流暢なカタカナ英語でそう言った。

 ちょっとカッコつけすぎちゃいましたかね。そう言って照れる頬がうっすらと桜色に染まる。

「私、先輩の小説が好きです。このタイミングで言うのは、なんだか弱ったところを襲う獣のようであまり好ましくはないですけど、だけど――、」

「弱ったところを襲えば成功率は上がる。殺るなら確実に殺る。正しい判断だと思うよ」

 僕が笑うと、歩川さんも恥ずかしそうに申し訳なさそうに笑う。

 だけどなにがそんなに好きなの? 本物の小説家ならもっと上手な人だって、星の数ほどたくさんいるだろうに。率直な疑問だった。歩川さんは「うーん」と左下に目線を落とし、唸るようにしてひとしきり考えこむと、いいことを思いついた! というように人差し指をぴんと立てて言う。

「左目の泣きぼくろ、とか?」

 それ小説関係ないじゃん。

「たしかに。そうですね」

 いいこと思いついたのに……とでも言いたげに、人差し指が力なく下げられる。

「それにしても、どうして僕が参っているのを知ってるの?」

 僕が訊ねると「なんとなくです」とさも当然のように答えて言う。歩川さんならそれもあるかな、と僕は思う。彼女はほんとうに僕をよく見ているし知っている。具体的な何かを知らなくてもその差異に聡く気がつくのだろう。本当に頼もしい限りである。

 本当に頼もしくて、本当に……。

「最近はなにか書いたりしたんですか?」「うん。本当にごく最近、久しぶりに一つ」「それは、誰かに宛てて書いたもの、ですか?」「……あなたは本当に、賢い人だ」「賢い(ひと)はお嫌いですか?」「いや。」

 そんなことはないよ。

 好きだよ。


「それじゃあ私は行きます。先輩もお元気で。……でもこの辺に住んでるんですよね? じゃあまた会うかも。その時はまたお喋りして下さい。わたし――、うん。それでは!」

 歩川さんはピンクのかごを持ってコインランドリーから出ていった。僕はその後ろ姿をぼうっと眺めていた。

 では、また。

 僕も帰ろう。僕は乾燥機から洗濯物を取り出し、手提げ袋に仕舞う。乾燥はもうずっと前に済んでいて、洗濯物はもう温かくはない。

 傾き始めた日が目に染みる。空気は未だ冷たく乾いているが、ここ数日でずいぶん日も長くなった。駐車場の片隅に寄せ集められた黒く汚れたざらめのような雪が、ゆっくりと解けだしていた。

 また小説を書こう。

 今度は僕のために。





   [了]


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