5月28日 04:41(金)
「っ…!」
思わず声を上げかけた。目の前には真っ黒い、塊だ。真っ黒い塊から真っ黒い手が伸びている。これはなんだ。これはなんなんだ…!頭の中で問う暇もなく、その黒い手が俺に伸びてきて、俺はすかさず持っていた一升瓶の中の塩水をその手にひっかけた。すると瞬時にその手がびくびくと痙攣し、小さくなっていく。小さく?いや、黒い塊の中へ入っていく。なんだよこれ、さっきまで人みたいな形をしていた癖に、今はただの塊になっている。萎んだ右腕がそこから生え、ぐにょぐにょとグロテスクに蠢いている。ぞっとして血の気が引く思いながらも、俺はななを探すことにした。黒い塊に注意しながら、周囲を見回す。
(隠れるも何も、1Kの部屋なんて隠れるところに限度があるからな)
まず、意思があって隠れているのかどうかすら分からない。隠れるとしたら?まずクローゼットの上のロフトを見てみるが、人影はない。ロフトに上がって、布団をめくってみるけれど、いない。ここじゃない。違う。と、ふと下にいる黒い塊を見た。見た、じゃない。違う。目が合った。
「ひっ…」
さっきまで確かに人の形をしていて、急に塊に…なんて、思っていた。しかし、違うのだ。その塊の表面は、何かビニールのような、ツルツルとした透明な皮のようで、その中に、人が入っているのだ。体や首を奇妙に折り曲げてそこにいる。顔が、奇怪な形に曲げられた首と顔。それがにたり、にたりと笑う。
トン、トン、トン…
トントントン…
それが笑いながら、再び、クローゼットのドアを叩いている。そこらへんにあるものを適当に叩いているのだろうか。気持ち悪い怖い。思わず、後ずさった。手は再びぐにゃぐにゃと伸び、関節を完全に無視して自由に動いている。胃から何か競りあがってくるような気持ち悪さを覚えてすぐに目を逸らした。ロフトから飛び降りて、廊下へ出る。
そうしたらトイレか。これも個室だから、とドアを開けるが静まり返っている。何もない。そうしたら、次は風呂場、と、さっと体を動かして風呂場を覗き込んだ時だった。
(え…)
ない。
ない、ない…ない。
なくなっている。あのテディベアが。包丁も消えている。確かに刺して、ここに。
さっと血の気が引いていく。汗が、今までにないくらいだらだらと流れる。汗をかいた足の裏が、少し滑る。
トン、トン、トン…
トントントン…
これで無事にななを見つけられたとしても時間内に人形に塩水をかけなければ意味がない。その人形は、風呂場にあるとばかり思っていたのに、ない。そうだ、人形は移動をすると言っていた。どうするんだ、どうすればいい。いや、違う。それよりもまずななみだ。はやる鼓動で全身が揺れているような気がする。落ち着け、なんて言葉はまるで役に立たない。それに、そうだ。
風呂、トイレ、ロフト、そしてクローゼット。ここ以外に人が隠れる場所なんてこの家にはないのだ。だとすれば、ななみはどこにいる?違う、ななみはどんな形でここに存在しているんだ?
ななみが消えてから約2日、その間は、いったいどうしていた?ななみは結局、儀式を終了さえられなかった。儀式が終了しないままに時限で強制終了を食らっていた。時限切れイコール夕暮れのかくれんぼのタブー、それが神隠しとするならば、ななみはやはり、実体として隠れてはいないのか?だとしたら、どうやって探せばいいんだ?
心の片隅に留めていた疑問が、実体としての存在への希望を打ち砕き、絶望として広がる。実際、どうだよ。俺は、今、ヤツに見つかっても平気でいる。そうしたら、やはり鬼の権利は俺にあるままという理論は正しいということだ。それなのに、ななみが見つからない。なながどこにもいない。いたとして、それは実体を持ち得ない、いわば幽霊のようなものなのか。ぞっとした。それをどうやって探せばいい?だらだらと冷や汗が流れる。どうしようもない、本能が訴えかける。でも、投げるわけにはいかない。大事な、妹なんだ。
霊的なものを見つける場合はどうしたらいいんだ?そんな方法はぱっと出てこない。何か、何かないのか。焦る。初めから詰みかよ、悪態をつきながらポケットにいれていた自分の携帯を見る。4時52分、タイムリミットまであと30分。冗談じゃないぞ、何一つしないまま、俺まで隠されてたまるか。何か、手がかりはないか。必死で考えて、考えてそして、ふと、ある出来事が頭を過ぎった。
そういや、あの携帯電話…なんで勝手についたんだ?
はっとしたのとほぼ同時に、動いていた。もしかして、もしかしたら!黒い塊がまた手を伸ばしてきた。それに塩水をかけて、それを振りほどきクローゼットの中に急いで入った。ななみの携帯電話の待ち受けが煌々と光っている。そうだ、さっきまで無人だったはずのクローゼットなんだ。ついてる筈ねえんだよ、電源が。それに、あの黒い塊がこんなにこに固執してるのも、もしかして、もしかしたら…!クローゼットの片隅、ななの携帯が置いてある他、何もない空間に俺は叫んだ。
「…っ、井坂ななみ!みーつけた!」
すると、どうだろう。すっと、不透明なものが見える。ななみだ。ななみがいる。不確かだけど、確かに見える。ななみは目を瞑り、眠っているようだった。嬉しさが押し寄せるが、ぐっと堪えて、続け様に再び叫んだ。
「次は、チコが鬼!」
<章=5月28日 04:48(金)>
ぞわっと鳥肌が立つ。一瞬だった。何かが冷たいものが体を駆け抜ける気がした。吐き気がする。クローゼットの外で待つ、鬼。隔てたのはたった一枚の板。恐怖、あの長瀬だったものが頭の中によぎった。それでも目の前には妹、守らなければならない、守りたい、その一心だった。続け様に、大きく声を張り上げる。
「いーち!」
カウントを鬼が自ら取るのかわからない、でも時間が欲しい。自らカウントを出しながら、手を動かす。これがアウトだったら、笑えるけれど。
「にーい!」
コンコン、とそこら中を叩く音が消えている。しめた、思いながら、一升瓶の蓋をあけた。
「さーん!」
なるべく言葉を伸ばして、時間稼ぎをする。大きな声で言う。万が一の時、今井にも聞こえるようにだ。
「しーい!」
一升瓶の中の塩水を妹の頭からかけた。
「ごーお!」
手足からつま先まで万弁なく。そこらに適当にしまわれていた小さなハンカチを破いて、それに塩水を含ませた。
「ろーく!」
塩水を含ませたハンカチをななみの口に無理やり突っ込んだ。どれほどの効果があるかは、期待できないが。
「なーな!」
口を閉じさせて、あとは時間を待つ。俺の声だけが響く、無音。しんと静まり返った部屋が、帰って恐怖を煽った。
「はーち!」
言葉が震えている。音がしない分、自分の心臓の音が鮮明に聞こえる。うまくいく、だろうか。
「きゅーう!」
成功したって、もしかしたら、長瀬が…頭を重苦しく過る問答。だけど、だけど…ななみを見た。苦しげに眉根を寄せている。駄目な奴だ、本当に。
俺どころか、人様まで巻き込みやがって、嘘ついて。それでも、
「じゅーう!」
たった一人の妹だから。
俺が守ってやるからな。
一際大きく、俺は叫んだ。
「もーう、いーよ!」
瞬間だった。
ベチン、ペチン、カタン…
コンッ、ベチン…ガタッ…
トン…とさっきまで鳴っていた音は、不規則で、何かもっと生々しい音に変わった。何を打ってる?どこらへんにいるんだ?
音を聞いて、大体の位置を把握しようも、音がでかい。
コン…ベチッ、トン…
ガシャっ、ベチ…
何を叩いてる?何で叩いている?まったくわからない。
が、臆している時間もない。タイムリミットも、近い。時間切れは神隠し、暗い暗い闇の中へ葬り去られる訳にはいかない。生唾をゴクリと飲んで、そうして、一升瓶に口をつけ、塩水を口に含んだ。残り少なかった一升瓶の中の塩水を、すべて口に含み、空になった瓶をななみの隣に置いた。最後の塩水は、塩がそこにたまっており、信じられないくらい塩辛く、思わず噴き出しそうになつところをぐっとこらえた。
強制終了、させるしかない。
(なな、兄ちゃん、行ってくっかんな)
塩水を口に含んだまま、ななの長い髪を撫でた。
最悪、死ぬかもしれない。けど、しない後悔より、する後悔だ。
そっと膝立ちになり、クローゼットを静かに開けた。
思わず、口を押さえた。黒い黒い塊は、窓際にいた。淡い街灯の光を受け、グロテスクに光り、辛うじて丸いと言えるような歪な黒い塊から長い腕を2本生やし、それでそこら中を叩いているのだ。叩いている、というより、打ちつけている。ダランと垂れ下がった右腕で、ベチンベチンとそこら中を叩き周り、もう一つの腕と手で、床をはいずる。重そうなその黒図体を引きずって、
ベチン、ペチン、カタン…
コンッ、ベチン…ガタッ…
引きずって、俺を探している。
しかし、時間もない。俺は声をあげてしまわないように、口を手で押さえたままそっとクローゼットから出た。
コン…ベチッ、トン…
ガシャっ、ベチ…べちっ…
黒い塊に、十分注意をしながら、人形を探しに廊下に出た。
最初に探しに出た時は、風呂場にいなかった。すると、他の場所か。めぼしい場所は、どこだ。そんなのわかるわけないよな…地道に、声あげないように、探し…
(…あった)
しかし、思いの他、人形は単純なところにあった。
クローゼットを出て、すぐ左にある、短い廊下。風呂場の前。そこに置いてあった。心臓がドキリと鳴った。驚きに?嬉しさに?それともこの、簡単に見つかってしまう場所にあったことへの恐怖?
ため息をつきたいような感覚に駆られたが、口の中には塩水。これを吹きだしたら一瞬にして終わりだ。
カタっ、ベチッ!…カラン…
ペチ、ペチ、バチッ…
窓際を這いずる黒い塊を見た。が、やはりこちらには見えていないようだった。
人形に駆け寄って、今すぐに終わらせてしまいたい!が、不用意に大きな物音を立てるのも憚られる気がして、鼻で大きく息を吸い、出す。ゆっくりとその人形に近づく。
カン、カン、たんっ…
ベチッ…ぺちん…
背後に不気味に聞こえる音を感じながら、人形に近づく。人形は水にぬれて、その周辺には小さな水たまりができている。その水の上に、人形に巻かれた赤い糸の端が浮かび、ゆらゆらと微かに揺れていた。
[終わり方]
1 塩水を半分口にふくみ、隠れてる場所から出て、ぬいぐるみを探す(途中で塩水吐かないよう注意)
2 ぬいぐるみを見つけたら、残りの塩水をぬいぐるみにかけて、口の中の塩水も吹き掛ける
3 『私の勝ち』と3回言う
頭の中で、終わり方を確認した。
ぬいぐるみを見つけた。塩水の残りはなし。だから、口に入れた塩水を吹きかけて、俺の勝ちって、3回言えば…言えば、終わりだ!
しかし、その時だった。
カタッ…カタン…!
さっきとはもっと近いところで音がした。気付かれたかと、反射的に後ろを振り返ると、そこには。
(あ…)
クローゼットのドアが開いていた。
なんで、なんで、なんで。そこから、そこのところから、ななが、ななみが顔を、出している。不安げな目で俺を、俺を、見て、そのななの後ろに、ななみは気づいてない、立っている、人が、黒い人が、女が立って、立って、ななを、ななが…
叫んでいた。
「ななみ!」
叫ぶと同時に、口から塩水が噴き出た。その瞬間、ななを見ていた黒い女が、女がすごいスピードで俺のところ、俺のところへ、来…て…
「うわああああああ!」
女が俺の前で大きく何かを振り上げた。一瞬、恐怖で腰が抜けて、尻もちをついて、そうして、その時に、光の加減でその何かが見えたのだ。
包丁。
反射的に腹をかばおうとして、背を向けた。その背に強い痛みが走った。
「あああああああああ!」
痛い、痛い痛い痛い!想像を絶する痛み。生温かい血が、背中から腰、腰から腹へ、腹へ、床に、水たまりへ、その水たまりに突っ伏した。目の前には、人形の足。赤い、赤い糸が揺れて、
後ろからはななの叫び声。そして、それと違う声が、うめくような声が聞こえる。
ぃ…いいいぃい…ざっ、ああか…ア
その不自然な音が、俺の名前を呼ぼうとしている。見つけたという、宣言をしようとしているんだ!頭の中がパニックを起こしていた。駄目だ、そんなことしたら、今度は俺が…違う、その前にタイムリミットが来てしまう。
思わず、やめろ、と言いかけた口に、水たまりの水が入ってきた。
が、それが、
(これ…微かに、しょっぱい…?)
さっき塩水を噴き出してしまった時に、おそらく、この水たまりにも塩水がかかったんだろう。俺が最後に口に含んでいた塩水は相当な濃度だった。だから、きっと、もしかしたら…!
痛む背中をこらえて、顔をあげた。そうして、声を振り出した。
「井坂、弘毅のっ…勝ちっ…」
ゴッ、コゥ…ウウウゥア、キ…っ
背後の女も声を上げる。何を言っているか、聞き取れない。聞き取れない、気にしている場合じゃない。女より、先に、3回、言わなければ、ならない。
「いさかっ、こうきの…かち!」
意識が朦朧とする。口が回らない。女のうめき声と妹の泣き叫ぶ声が頭に響く。口の中が、塩っぽい。あと、1回。
「い、さか…こーき、のっ…か、」
黒い影が、すうっと伸びていく。
『みいつけた』