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金魚

掲載日:2026/03/28

私は、春先になると、どういうわけか金魚を思い出す。

大学を出て間もない頃、私は町外れの古い出版社に勤めていた。外壁は乾いた紙の匂いが染みついたように白く剥げ、窓枠にはいつも煤が溜まっていた。仕事は校正で、赤鉛筆の先で他人の文章にささやかな修正を施すことが、私の生きがいであった。誰にも気づかれぬ誤りを見つけることが、私自身の誤りを帳消しにしてくれる気がしたからである。


その年の初夏、事務室の隅に、小さなガラス鉢が置かれた。

中には、薄紅色の尾をした金魚が一匹、泳いでいた。

持ち込んだのは、新しく入った手伝いの娘だった。彼女は休学中の学生で、雨に濡れたような声をしていた。名を聞いたはずなのに、私はしばらく覚えられなかった。ただ、彼女の話す調子が、まるで相手に寄りかかるための梯子のように、静かに差し出されるのを覚えている。


「この子、すぐ弱るんです」


 彼女はガラス鉢を撫でながら言った。


「私が見てないと、すぐ沈みそうで」


 私は、なるほどと頷いた。頷きながら、奇妙な不安を感じていた。金魚は、すでに十分に元気そうに泳いでいたからである。

娘は仕事を覚えるのが遅かった。句点をひとつ落とし、仮名遣いを二つ取り違え、校了寸前の原稿に小さな波紋をいくつも残した。だが、彼女はそのたび、少し困った顔をして、静かに私の机へやって来た。


「これ、どうしたらいいでしょう」


そう言うと、必ず私の顔を覗き込んだ。距離が近く、私はいつも返事に詰まった。赤鉛筆の先が、紙の上で小さく震えた。

彼女はよく謝った。謝りながら、どこか遠くを見ていが、その眼差しは、謝罪の形をしていながら、責任という重さを含んでいないように思えた。けれど私は、それを柔らかい無垢さだと信じた。

それから事務室の連中は、すぐに彼女に親しくなった。営業の男は飴を差し出し、装丁係は昼食に誘い、年配の作家は詩集を贈った。彼女はそれらを、雨粒を受け止める葉のように、静かに集めた。

金魚は、いつも彼女の机の上にあった。

ある日の夕方、彼女は小さな声で言った。


「水、濁ってきましたよね」


私は鉢を覗いた。確かに、透明だったはずの水が、わずかに曇っていた。


「替えた方がいいですね」


 私は答えた。


「でも、替えすぎると、この子、驚いちゃうんです」


 彼女はそう言って、結局、私に水を替えさせた。私は慎重に水道水を汲み、カルキ抜きを落とし、鉢を傾け、古い水を捨てた。金魚は、その間ずっと、私の指の動きを追っていた。

私は、その視線を、どこか誇らしく感じていた。

それから、奇妙なことが続いた。金魚の水は、すぐ濁った。私は何度も替えた。娘は、そのたび安堵した顔をした。


「私、本当に不器用で」


彼女は言った。

その言葉を聞くたび、私は、自分が器用であるような錯覚を覚えた。しかし実際には、私はただ、水を替えていただけなのである。

秋の終わり頃、出版社に小さな祝宴があった。新刊が予想外に売れたのだという。彼女は、その席で、皆に笑顔を向けていた。笑顔は、誰に対しても同じ角度で、同じ明るさで差し出されていたが、私は、なぜか落ち着かなかった。

その夜、帰り道で、彼女は言った。


「ここって、あったかいですよね」


「そうですね」


「でも、ずっといると、眠くなっちゃいそうで」


 私は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。眠るというのは、安心の比喩だと思ったが、今になれば、それはたぶん、別の種類の静けさを指していたのだろう。

 冬の入口で、彼女は数日、姿を見せなかった。机の上の金魚は、静かに泳いでおり餌は、私がやった。

水も、私が替えた。

鉢の中は、やけに澄んでいた。

四日目の午後、彼女から電話があった。風邪を引いていたのだという。声は、いつもより軽かった。

週末、彼女は私を喫茶店に呼び出した。窓の外では、初雪が舞っていた。


「来月で、ここを離れるんです」


彼女は、砂糖を溶かしながら言った。


「もう少し大きなところに」


私は頷いた。頷きながら、胸のどこかが静かに凍っていくのを感じた。


「ここで、たくさん助けてもらいました」


彼女は、まっすぐ私を見た。澄んだ目だった。だが、その澄み方は、氷の表面に似ていた。

私は、何か言おうとした。だが、言葉は、湯気のように消えた。


「金魚、どうします?」


私は、やっとそれだけ尋ねた。


「置いていきます。きっと、佐伯さんの方が上手に世話できますから」


彼女は微笑んだ。その微笑みは責任を委ね、彼女は、ほどなくして去った。

送別の日、彼女は皆に同じ言葉を残した。私は、金魚の鉢を抱えて見送った。

春になり、金魚は少し大きくなり、水は私が替え、餌も欠かさず与えた。だが、ある朝、金魚は水面近くで、ゆっくり尾を揺らしていた。泳いでいるのか、漂っているのか、判然としなかった。

私は慌てて水を替えたが水は、驚くほど透明のままだった。

それから数日後、金魚は静かに底へ沈んだ。まるで、最初からそこにいたように、穏やかに。

私は鉢を洗いながら、ようやく気づいたのだ。あの水は、濁っていたのではない。濁って見えるたび、私は自分の影を覗き込んでいただけなのかもしれない。

娘のことを、私は今でも、ときどき思い出す。あの、寄りかかるような声を。雨粒を集める葉のような仕草を。

彼女はきっと、どこかで変わらぬ調子で笑っているだろう。誰かが水を替え、誰かが餌をやり、彼女はその澄み具合を、ただ静かに見つめているのだろう。

私はもう、金魚を飼わない。

ガラス越しに泳ぐものを見ていると、どうしても、自分の姿が歪んで映るからである。


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