金魚
私は、春先になると、どういうわけか金魚を思い出す。
大学を出て間もない頃、私は町外れの古い出版社に勤めていた。外壁は乾いた紙の匂いが染みついたように白く剥げ、窓枠にはいつも煤が溜まっていた。仕事は校正で、赤鉛筆の先で他人の文章にささやかな修正を施すことが、私の生きがいであった。誰にも気づかれぬ誤りを見つけることが、私自身の誤りを帳消しにしてくれる気がしたからである。
その年の初夏、事務室の隅に、小さなガラス鉢が置かれた。
中には、薄紅色の尾をした金魚が一匹、泳いでいた。
持ち込んだのは、新しく入った手伝いの娘だった。彼女は休学中の学生で、雨に濡れたような声をしていた。名を聞いたはずなのに、私はしばらく覚えられなかった。ただ、彼女の話す調子が、まるで相手に寄りかかるための梯子のように、静かに差し出されるのを覚えている。
「この子、すぐ弱るんです」
彼女はガラス鉢を撫でながら言った。
「私が見てないと、すぐ沈みそうで」
私は、なるほどと頷いた。頷きながら、奇妙な不安を感じていた。金魚は、すでに十分に元気そうに泳いでいたからである。
娘は仕事を覚えるのが遅かった。句点をひとつ落とし、仮名遣いを二つ取り違え、校了寸前の原稿に小さな波紋をいくつも残した。だが、彼女はそのたび、少し困った顔をして、静かに私の机へやって来た。
「これ、どうしたらいいでしょう」
そう言うと、必ず私の顔を覗き込んだ。距離が近く、私はいつも返事に詰まった。赤鉛筆の先が、紙の上で小さく震えた。
彼女はよく謝った。謝りながら、どこか遠くを見ていが、その眼差しは、謝罪の形をしていながら、責任という重さを含んでいないように思えた。けれど私は、それを柔らかい無垢さだと信じた。
それから事務室の連中は、すぐに彼女に親しくなった。営業の男は飴を差し出し、装丁係は昼食に誘い、年配の作家は詩集を贈った。彼女はそれらを、雨粒を受け止める葉のように、静かに集めた。
金魚は、いつも彼女の机の上にあった。
ある日の夕方、彼女は小さな声で言った。
「水、濁ってきましたよね」
私は鉢を覗いた。確かに、透明だったはずの水が、わずかに曇っていた。
「替えた方がいいですね」
私は答えた。
「でも、替えすぎると、この子、驚いちゃうんです」
彼女はそう言って、結局、私に水を替えさせた。私は慎重に水道水を汲み、カルキ抜きを落とし、鉢を傾け、古い水を捨てた。金魚は、その間ずっと、私の指の動きを追っていた。
私は、その視線を、どこか誇らしく感じていた。
それから、奇妙なことが続いた。金魚の水は、すぐ濁った。私は何度も替えた。娘は、そのたび安堵した顔をした。
「私、本当に不器用で」
彼女は言った。
その言葉を聞くたび、私は、自分が器用であるような錯覚を覚えた。しかし実際には、私はただ、水を替えていただけなのである。
秋の終わり頃、出版社に小さな祝宴があった。新刊が予想外に売れたのだという。彼女は、その席で、皆に笑顔を向けていた。笑顔は、誰に対しても同じ角度で、同じ明るさで差し出されていたが、私は、なぜか落ち着かなかった。
その夜、帰り道で、彼女は言った。
「ここって、あったかいですよね」
「そうですね」
「でも、ずっといると、眠くなっちゃいそうで」
私は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。眠るというのは、安心の比喩だと思ったが、今になれば、それはたぶん、別の種類の静けさを指していたのだろう。
冬の入口で、彼女は数日、姿を見せなかった。机の上の金魚は、静かに泳いでおり餌は、私がやった。
水も、私が替えた。
鉢の中は、やけに澄んでいた。
四日目の午後、彼女から電話があった。風邪を引いていたのだという。声は、いつもより軽かった。
週末、彼女は私を喫茶店に呼び出した。窓の外では、初雪が舞っていた。
「来月で、ここを離れるんです」
彼女は、砂糖を溶かしながら言った。
「もう少し大きなところに」
私は頷いた。頷きながら、胸のどこかが静かに凍っていくのを感じた。
「ここで、たくさん助けてもらいました」
彼女は、まっすぐ私を見た。澄んだ目だった。だが、その澄み方は、氷の表面に似ていた。
私は、何か言おうとした。だが、言葉は、湯気のように消えた。
「金魚、どうします?」
私は、やっとそれだけ尋ねた。
「置いていきます。きっと、佐伯さんの方が上手に世話できますから」
彼女は微笑んだ。その微笑みは責任を委ね、彼女は、ほどなくして去った。
送別の日、彼女は皆に同じ言葉を残した。私は、金魚の鉢を抱えて見送った。
春になり、金魚は少し大きくなり、水は私が替え、餌も欠かさず与えた。だが、ある朝、金魚は水面近くで、ゆっくり尾を揺らしていた。泳いでいるのか、漂っているのか、判然としなかった。
私は慌てて水を替えたが水は、驚くほど透明のままだった。
それから数日後、金魚は静かに底へ沈んだ。まるで、最初からそこにいたように、穏やかに。
私は鉢を洗いながら、ようやく気づいたのだ。あの水は、濁っていたのではない。濁って見えるたび、私は自分の影を覗き込んでいただけなのかもしれない。
娘のことを、私は今でも、ときどき思い出す。あの、寄りかかるような声を。雨粒を集める葉のような仕草を。
彼女はきっと、どこかで変わらぬ調子で笑っているだろう。誰かが水を替え、誰かが餌をやり、彼女はその澄み具合を、ただ静かに見つめているのだろう。
私はもう、金魚を飼わない。
ガラス越しに泳ぐものを見ていると、どうしても、自分の姿が歪んで映るからである。




