第5話 【過剰な練習の果てに】
嵐はいつも、焦る心に吹き荒れる。
声が途切れ、母の背中が遠く感じる瞬間。
でも、かすれた声で、誰かが囁く。
「一緒に、ゆっくり取り戻そう」
揺らぎは、嵐の中でこそ、温かさを帯びて響き始める――。
(AIイラストによる挿絵で、物語の情景をそっと彩っています)
・希望と不安の波・
亨にコンテスト参加を伝えた翌朝、教室の窓から差し込む光が机を優しく照らしていた。
9月中旬の陽射しはまだ夏の名残を残しながら、窓ガラスに残る雨の跡を淡く輝かせていた。
黒板の文字をノートに写しながら、綾乃は頭の中で決意を繰り返す。
(予選まであと少し……母のあの時の気持ち、私が歌うことで確かめたい)
ペンの先が紙を滑るたび、昨夜の亨の穏やかな微笑みが浮かび、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
でも同時に、不安の波が押し寄せ、指先がわずかに震える。
クラスメイトの話し声が遠くに聞こえ、誰かの笑い声が響く中、綾乃はノートを閉じた。
・決意の表明・
放課後、芽に報告する。
「コンテスト、出ることにしたんだ」
芽が一瞬目を丸くする。
「……え、ほんとに?」
芽のポニーテールが軽く揺れ、制服の袖をまくった腕が緊張で少し固くなっているのが見えた。
綾乃は少し照れくさそうに眼鏡のフレームを指で押さえ、頷く。
芽は数秒言葉を探すように黙ってから、急に顔を輝かせた。
「綾乃……! すごいよ、ほんとにすごい!」
芽は綾乃の両肩を掴んで嬉しそうに揺らす。
「ずっと『歌えない』って言ってたのに……こんなに早く決意してくれるなんて……!」
芽の声が少し震えていた。
「私、綾乃の声ずっと好きだったよ。優しくて温かくて……でも綾乃が自分を閉じ込めてるみたいで、見てて辛かった。だからコンテスト出るって聞いた瞬間、胸が熱くなった」
芽は綾乃の手をぎゅっと握る。掌の汗と指の力が強く伝わってくる。
「私も全力で応援する! 文化祭の練習も一緒にがんばろうね。綾乃の声がみんなに届くところ、私も見たいから」
綾乃は芽の温もりに胸がじんわり軽くなるのを感じ、眼鏡越しに芽の笑顔を見つめた。
胸の奥で小さな灯がまた少し強くなった。
・コンテストに向けて・
そして今日から凪沙でのレッスンが本格的に始まった。
亨はまず基本から。
「立って。背筋を伸ばして、肩の力を抜いて」
綾乃は椅子から立ち上がり、眼鏡を指で押し上げて姿勢を正す。
亨が自分の腹部を軽く叩く。
「息はここから。腹式呼吸だよ。胸じゃなく、下腹部を膨らませるイメージ」
綾乃は息を吸う。腹がゆっくり膨らむ。胸の奥まで空気が流れ込む感覚が新鮮だった。
「いいよ。次は吐く。ゆっくり均等に。『スー』って音で」
綾乃は『スー』と吐く。10秒、15秒……。
息が途中で震えそうになるのを必死に抑える。
亨は優しく見守る。
「息が途切れないように。下腹部を支えて安定させる。これがサポートだよ」
次にハミングを始めようとしたところで、亨がふと気づくように言う。
「君の声、どこか抑え込んでる感じがするんだけど……何か、心に抱えてることある?」
綾乃は少し迷って眼鏡のレンズを指で拭い、口を開く。
「実は……母は声楽家なんです。昔、私と一緒に歌った時……私の声で母の歌が台無しになったって言われて……」
亨は静かに耳を傾ける。
穏やかな目が、すべてを受け止めてくれるようだった。
「それ以来、母の前では歌えなくなって……。でも、母の昔のテープを聴きたい気持ちがどうしても残っていて、いつもこっそり聴いていたんです。……なのに、途中でハーモニーがぷつりと切れてしまうのが、すごく寂しくて……」
綾乃は目に涙を浮かべながら続ける。
眼鏡が曇り始め、慌てて袖で拭う。
「その声は……父の声なんです。父は私が小さい頃に亡くなって……でもテープには母の声しか残ってないの」
亨は静かに頷く。
「そうか……君の声で、母さんの寂しさを埋められるかもしれない。父さんのハーモニーも……君が繋いであげられるよ」
穏やかに微笑みながら続ける。
「じゃあさっそく、母さんのテープのフレーズをハミングで練習してみようか。母さんの歌と父さんのハーモニー、そして君の揺らぎを重ねて……少しずつ取り戻していこう」
綾乃は涙を堪え、頷く。
「……はい」
母の「揺籃の歌」の最初のメロディ。
綾乃はハミングで歌う。
揺らぎが自然に出る。
亨は「いい……その揺らぎ、恐れないで。ビブラートは喉で作るんじゃない。息のサポートと共鳴で、自然に出てくるものだよ」
次に口を開いて発声。
「『アー』で、母さんのフレーズを」
綾乃は歌う。
「……♪ 揺籃の歌を……」
声が震え、外れる。
喉が締まる感覚が蘇る。
(母はいつも言っていた。「喉を締めて、息を止めないで。完璧に合わせなさい」その言葉が、喉を締めつける……)
亨が気づく。
「喉が締まってるね。母さんから、そう教わったの?」
綾乃は頷き、眼鏡の下の瞳を指で拭う。
涙がにじむのを隠すように。
「……はい。母はいつも、『喉を締めて、息を止めないで。完璧に合わせなさい』って……」
亨は少し考え込むように目を細め、穏やかに言った。
「それは……喉を固定して支える、という意味で言ったんだと思うよ。プロの歌手は喉頭を下げて安定させるために『締める』って表現を使うことが多いんだけど……子どもにはそれが『締めつける』っていう意味に聞こえちゃったのかも」
綾乃は息を呑む。
(……母さんは、私を守ろうとして……?)
亨は優しく続ける。
「完璧を目指すのは素晴らしいけど、喉を締めすぎて息を止めてしまうと声が硬くなる。ここでは喉を開いて、息を流して。揺らぎを恐れないで」
綾乃の目が熱くなる。
(母の教えは、私を守ろうとしてくれたのかもしれない。でも亨さんの教えは……私を解放してくれる)
レッスン終了。
亨は「今日はここまで。毎日続けると喉が慣れるよ。でも無理は禁物」と優しく囁く。
綾乃は頷くが、心の中で思う。
(もっと……早く、母に届く声になりたい)
帰宅後も一人で練習を続ける。
毎日2時間以上、母のテープを何度も再生しながら重ね歌い。
・焦りの代償・
3日目にはかすれ始め、4日目にはほとんど声が出なくなり、5日目には鏡の前で涙が止まらなくなった。
喉の奥が焼けるように熱く、息を吸うだけで針で刺すような痛みが走る。
でも学園祭の練習もある。
無視して続けた……翌日も、その翌日も。
文化祭の練習で芽に「声、大丈夫?」と心配されても『平気』と強がるしかなかった。
1週間後、スタジオで亨に報告。
「声、少し安定してきたかも」
亨は微笑むが、綾乃の声がかすれているのに気づく。
「喉、休めてる?」
「平気です……もっと練習したいから」
亨の表情が曇る。
「焦りは禁物だよ。喉は繊細だからね。数日休めば回復するけど、無理を続けると声が変わってしまうかも……僕みたいに」
綾乃は強がる。
「母の寂しさを……早く温めたい。また一緒に歌えるようになりたいんです」
数日後、声が完全に枯れた。
鏡の前で喉を押さえる。
高音が出ない。かすれ、息が漏れる。
「まだ……出せるはずなのに」
綾乃は喉を押さえ、鏡に映る自分の顔を見つめる。
眼鏡の奥の瞳が、疲れと焦りで曇っていた。
亨の声が耳の奥でかすかに響く。
「焦りは禁物だよ……」
でも心は焦っていた。
母の寂しさを早く温めたい。
亨さんの出せない声も、私の歌で……
その想いが、喉をさらに締めつける。
翌朝、学校の廊下で芽に会った。
芽はいつもの明るい笑顔で駆け寄ってきたが、綾乃の顔を見てすぐに表情を変える。
「綾乃……顔色悪いよ? 声、大丈夫?」
綾乃は俯き、かすれた声で呟く。
「……声が、出なくて……」
芽の目が一瞬大きく見開かれ、すぐに優しく細まる。
「え……そうなの!? 無理しちゃってたんだね。ちょっと待ってて!」
芽はそう言うと教室の方へ小走りで戻っていった。
数分後、手に小さな紙袋を持って戻ってくる。
「これ、食べて。休憩しようよ」
紙袋の中には売店で買ったミルクチョコレートと温かいレモンティー。
芽は綾乃の手を引いて階段の踊り場へ連れて行く。
・踊り場での優しい時間・
そこはいつも誰も来ない静かな場所。
窓から差し込む朝の光が階段の手すりを優しく照らしていた。
二人は階段に腰を下ろす。
芽がレモンティーのペットボトルを綾乃に渡し、自分もチョコレートを開ける。
「喉が痛いときは甘いもの食べると少し楽になるって、お母さんが言ってたよ」
綾乃はレモンティーを両手で包み、掌にじんわり熱が伝わるのを感じた。
「……ありがとう、芽」
声が掠れてほとんど囁きに近い。
芽は少し黙ってから、ぽつりと話す。
「綾乃、最近ずっと頑張ってるよね。文化祭の練習でもコンテストの準備でも……私、見ててすごいなって思うけど、無理してないかな?ってちょっと気にしてたんだ……」
綾乃はボトルを握りしめ、目を伏せる。
「……最近、レッスンに通ってるの。凪沙っていう喫茶店にボーカルスタジオがあって、亨さんっていう人に歌を教わってる」
芽が目を丸くする。
「亨さん? え、そうなの!? いつから!?」
綾乃は少し照れくさそうに眼鏡を押し上げながら、ぽつぽつと話し始める。
「雨に濡れながら駆け込んだ喫茶店で……声を出せなくなった人なんだけど、ギターを弾きながら口パクで歌ってる姿を見て……。それ以来、週に何回か通って、声の出し方とか息の仕方を教わってるの」
芽はチョコを一口かじりながらじっと綾乃を見つめる。
「……すごいね。綾乃がそんなに誰かに教えてもらってるなんて想像できなかった」
綾乃は小さく笑う。
「最初は怖かったけど……亨さんは『完璧じゃなくていい』って言ってくれるんだ。揺らぎがあってもいいって。だから少しずつ声を出せるようになった」
芽の目が優しく細まる。
「それで最近、綾乃の声が変わったんだ……優しくなったっていうか、もっと心に届くようになったっていうか」
綾乃は頰を赤らめ、缶を握りしめる。
「……芽にそう言ってもらえると、嬉しい」
綾乃は目を伏せ、続ける。
「母さんの寂しさを……早く埋めたい。亨さんの声も……」
芽は綾乃の肩にそっと頭を寄せる。
「うん、わかる。でもさ、綾乃の声が大好きだから、無理して壊れちゃったら……私、悲しいよ」
芽の声が少し震えていた。
「私ね、明るく見えてるかもしれないけど、ホントは綾乃が頑張ってるの見て、いつも勇気もらってるんだ。だから……綾乃が壊れちゃったら、私も……なんか、歌えなくなっちゃう気がする」
綾乃の目から涙がぽろりと落ちた。
レモンティーの熱が、涙と一緒に胸に染み込む。
「……ごめんね、芽」
芽は首を振り、綾乃の手を握る。
「謝らないで。一緒に休憩しよう。今日は練習お休みでいいよ。お菓子食べて、ゆっくり話そう」
二人はしばらく、階段の踊り場でチョコレートを分け合い、レモンティーを飲んだ。
芽が「このチョコ、甘くておいしいよね」と笑うと、綾乃も小さく頷く。
喉の痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
芽は最後に、優しく言った。
「綾乃の声は、焦らなくても、ちゃんと届くよ。だって、私にはもう届いてるから」
綾乃は芽の肩に頭を寄せ、静かに涙を流した。
胸の奥で、熱いものがゆっくり溶けていく。
無理を続けた痛みはまだ残っている。
でも今はこの熱が、喉の奥まで染み込んでいくようだった。
・亨の声の記憶・
放課後、綾乃は芽と別れて凪沙に向かった。
階段の踊り場で感じた熱が、まだ肩に残っている気がした。
芽の笑顔とチョコの甘い後味が、歩くたびに胸に蘇る。
でも喉の痛みは隠せない。
凪沙の扉を開けると、亨がカウンターから顔を上げた。
綾乃の顔を見るなり、穏やかな表情が一瞬曇る。
「……綾乃。声、どうした?」
綾乃は少し気まずそうに喉を押さえながら呟く。
「声が……枯れて、出なくなって……」
言葉が掠れ、途切れ途切れになる。
亨は静かに綾乃を座らせる。
「僕も、そうだったよ」
少し目を伏せ、亨は続ける。
「昔……僕も、君と同じように焦っていた」
亨は掠れた声で、ゆっくり語り始めた。
「あれは22歳の秋。インディーズで少し名前が売れて、メジャーデビューの話が決まった頃。300人キャパのホールで人生初のワンマン。喉に違和感があったけど、『プロなんだから完璧に』って自分を追い込んだ」
そこで亨の目が少し遠くなった。
「ステージに立った瞬間、声が出なかった。マイクには荒い息だけ。客席のざわめきが刃のように心を切り裂いた。あの瞬間、僕は自分の声を殺したんだ」
亨の息が少し乱れる。
(私と同じ……)
綾乃は胸が締めつけられるのを感じ、思わず亨の手を握りしめた。
「病院で、心因性の失声症だって言われた。心が開かない限り、声は戻らない……自分で喉を固くしてたんだ」
店内の薄暗い灯りが、亨の顔に長い影を落とす。
亨はふと、カウンターの奥に飾られた古い写真立てに目をやった。
「あの写真……覚えてる? 祖父だよ」
綾乃は小さく頷く。あの雨の夜、初めて見た笑顔の老人。
小さなギターを抱えて、優しく微笑んでいる。
「この凪沙は、もともと祖父の店だったんだ。毎晩、仲間を集めて歌ってた。『音楽は、誰かの心に届けば、それでいい』って、いつも言ってた」
亨の声が少し震える。
「声が出なくなった後、僕は子供の頃の聞いた、その言葉を頼りに街を彷徨った。雨の夜、びしょ濡れで駆け込んだのが、この凪沙だった。祖父がかつて営んでいた店……まるで、誘い込まれるように、僕はここにいたんだ」
亨は懐かしそうに目を細め、続ける。
「祖父が年老いて店を続けられなくなった頃、先代のオーナーが雨宿りに来て、祖父の歌に救われた。そして遺志を受け継いで店を守り続けてたんだ。そして、今度は僕が、同じように雨に濡れて駆け込んだ」
亨は綾乃の目を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「先代は僕を見て、こう言った。『義雄さんが呼んだんだろうな』」
亨の声が一瞬途切れ、掠れた息を吐く。
「祖父の名前を聞いて……僕の心が、ようやく溶けた。ここが僕の居場所だと、初めて思えた」
亨は深く息を吐き、掠れた声で締めくくる。
「先代は店を僕に託し、静かに去っていった。それが……この凪沙の始まりだった」
そして、亨は綾乃の手を強く握り、優しく微笑む。
「君があの夜に『あの声、聞こえました』って言ってくれた瞬間、ここはまた『誰かの声を待つ場所』になったんだ」
綾乃は涙をこらえきれず、亨の手を強く握り返した。
「……亨さん、私も……同じように、雨の夜にここに来た。あの時、亨さんの声が聞こえたから……今、私の声で、亨さんの声も、一緒に取り戻したい」
亨はかすれた声で、ゆっくり頷いた。
「一緒に、ゆっくり取り戻そう。君の揺らぎが、僕にも届くように」
綾乃の胸に、新しい決意が生まれる。
(亨さんも……救いたい)
帰宅。
・母の疲れた背中・
リビングの灯りが薄暗い。
母がソファに座り、楽譜をめくっていた。
平日は専門学校で生徒を指導し、週末は結婚式やパーティーで歌う母。
ステージでいつも大きく輝いている母の姿は、帰宅後にはいつも小さく見える。
疲れた肩のライン、楽譜をめくる指のわずかな震えが、綾乃の胸を痛くした。
「ただいま……遅くなった」
母が振り返り、綾乃の顔を見て少し目を細める。
「……喉、かすれてるわね。歌の練習、してるの?」
綾乃は喉が詰まり、言葉が出てこない。
かすれた声で、ようやく「…うん」と小さく頷き、眼鏡を指で押し上げる。
母は楽譜に戻りながら、静かに呟く。
「無理しないようにね。喉は……大事にして」
声がわずかに震えていた。
綾乃にかけられた言葉。
でも母が自分自身にも言い聞かせているように思えた。
綾乃は胸が痛んだ。
(母さんの疲れた背中を、私の声で……温められるかな)
窓辺で喉を休めながら、かすれた声で小さなハミング。
「嵐が来ても……揺らぎは消えない」
胸の灯は、嵐の中でこそ、揺らぎながら輝き始めた。
次回予告:第6話【女王の矜持】(04月3日【金】 20:00公開)
予選のステージに、氷の様な視線が刺さる瞬間。
完璧を極めた「女王」の歌が、会場を支配する。
震える声が、その完璧に挑むとき――
まばらな拍手と、隠された恐怖が交錯する。
「心に届く歌」
小さな光は、予期せぬ棘に触れながら、静かに、強く息を吹き返す――。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
亨の過去、芽の優しさ、そして綾乃の決意……
胸に残った想いがあれば、ぜひ感想で教えてください。
「亨の言葉が刺さった」「無理してはいけないと思った」など、どんな言葉でも嬉しいです。
ブックマーク・評価ポイントも、作者の大きな励みになります。
次回も、ゆっくり一緒に歩いていきましょう。




