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第2話 【開放弦から始まる一歩】

 雨は止んだ。


 でも、胸の奥の凍てつきは、まだ完全に溶けていない。


 昨夜の掠れた揺らぎが、耳の奥で消えずに響いている。


 不完全で、息が混じり、母の完璧な声とはまるで違うのに、なぜか心の冷えた部分をそっと溶かした。


 怖いのに、行きたい。


 今日、綾乃はその声に、もう一度触れに行く。


(AIイラストによる挿絵で、物語の情景をそっと彩っています)

挿絵(By みてみん)


・握りしめた朝・


 日曜日の朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。


 9月上旬の咲良(さくら)町は、残暑の熱気がまだ残りながらも、朝の空気に少しずつ秋の澄んだ匂いが混じり始めていた。


 昨夜の雨で洗われた路地は湿り気を帯び、道端の小さな花壇では、コスモスが朝陽に淡く揺れている。


 ピンクと白の花弁が、微かな風に震える様子は、まるで昨夜の自分の心のようだった。


 湿った土の香りと、遠くの公園から漂う芝の匂いが、窓の隙間から部屋に忍び込んでくる。


 綾乃はベッドの上で膝を抱え、指先で名刺の角をなぞっていた。


羽住(はすみ) (りょう) ボーカルレッスンスタジオ」


 シンプルな文字が、朝の光に照らされて柔らかく浮かぶ。


 名刺の紙は少し湿った感触が残っていて、昨夜の雨の記憶を呼び起こす。


 昨夜、訪れた「凪沙(なぎさ)」で聞いた揺らぎのある「声」が、まだ耳の奥に残っている。


 母の歌のように完璧ではない。


 掠れて、息が混じって、決して正確ではない。


 それなのに、胸の凍った部分を、そっと溶かしたような気がした。


 あの不完全さが、逆に温かかった。


 母の完璧な旋律が、いつも遠く感じたのとは対照的に……


 綾乃は名刺を胸に当て、目を閉じた。


 心臓の音が、少し速く鳴っているのがわかった。


 母はもう出勤していて、家は静かだった。


 リビングのテーブルに置かれた朝食の残り――トーストの欠片と、冷めたミルクティー。


 ミルクティーの表面に薄い膜が張り、部屋の空気にわずかに優しい香りが残っている。


 綾乃はゆっくり立ち上がり、ラベンダー色のパーカーを羽織った。


 丸い黒縁眼鏡をかけ直し、名刺をポケットにしまう。


 心臓が少し速く鳴っている。


(行ってみよう……。もう一度、あの声を確かめたい)


 でも、足が重い。


 母の前で失敗した声が、他の人に聴かれる。


 また、誰かの美しい誇りを汚してしまうかもしれない。


 そんな恐怖が、喉を締めつける。


 指先が冷たくなり、パーカーの袖をぎゅっと握りしめた。



・朝の風とコスモス・


 外に出ると、朝の風が頰を優しく撫でた。


 少し離れた隣町の方から、かすかに電車の音が聞こえてくる。


 咲良町の住宅街は、静かで穏やかだ。


 雨上がりの澄んだ空。


 濡れたアスファルトが朝陽を映し、街全体が新しい匂いを放っていた。


 道端のコスモスが風に揺れ、花弁の先端に残る雨粒がキラキラと光る。


 綾乃はそんな街並みを、眼鏡のレンズ越しにぼんやり見つめながら歩いた。


 道中、コンビニの前で立ち止まり、深呼吸する。


 自動ドアから漏れる冷たい空気と、店内のパンやコーヒーの香りが混じり、胸をざわつかせる。


(怖い。でも……あの揺らぎが、母さんの声と重なったら、どうなるんだろう)


 想像するだけで、胸がざわつく。


 指先がポケットの中で名刺を握りしめ、紙の角が少し折れ曲がる感触がした。


 スタジオまでの道は短かった。


「凪沙」の看板が、昨夜より明るく見える。


 木製の扉の前で足が止まる。


(母以外の人に……歌を教わるなんて)


 胸が締めつけられる。


 母の誇り高い歌を、また汚してしまう気がする。


 でも、あの揺らぎ……母の声とは違うのに、心が溶けた。


 亨さんなら……私の声を変えてくれるかもしれない。


 深呼吸して、ドアをノックすると、すぐに亨が顔を出した。


 ダークブラウンの短髪に穏やかな笑み。


 シンプルな白いシャツが朝の光に映え、袖を軽くまくった腕が自然に力強い。


「おはよう。来てくれたんだね」


 昨夜と同じ、囁くようなかすれた声。


「……はい。あの、昨夜の……」


 喉が詰まる。


 心臓が高鳴る。


 恐怖と、ほんの少しの期待が、胸の中でぶつかり合う。


 亨の目が優しく細まり、ドアを大きく開けて中へ招き入れる。



・スタジオの柔らかな陽射し・


 店内は昨夜の雨の湿気が少し残り、木の床がほのかに香っていた。


「昨日はびしょ濡れだったけど、風邪ひかなかった? 入って」


 亨の声は、かすれが残っているのに、どこか安心感がある。


 喫茶スペースの先にある小さなスタジオの中は、柔らかな陽射しに満ちていた。


 壁際に古いギターが数本並び、その中の一本が特に目立つ。


 ヘッドストックに、手で彫られた「Quiver(クィヴァー)」という文字が、朝の光に照らされて静かに浮かび上がる。


 木目が使い込まれて深みを増し、金具の錆び具合からも、長年の相棒だったことが伝わる。


 小さなテーブルにコーヒーの香りが漂い、亨が紙コップを差し出してきた。


「まずは温まって。最近、朝は意外と冷えてるからね」


 綾乃は両手で受け取り、温かさを感じた。


 湯気が立ち上り、ほのかに香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。


 亨は椅子を勧め、向かいに座った。


 穏やかな目が、綾乃を優しく見つめる。


昨夜の声……忘れられない。

どうして、あんなに……温かかったんだろう……


 綾乃の声は小さく震えていた。


 亨は少し目を細めて微笑んだが、喉の奥で何かが引っかかるように、一瞬だけ息を詰まらせた。


「僕の声は、もう出せなくなっちゃったんだ。……昔は、ステージに立って歌ってた。毎晩、未来を夢見て練習してたのに、ある日突然、声が……出なくなった。」


 少し目を伏せ、続ける。


「出したいのに、喉が鉄みたいに固まって、息さえ苦しくなるんだ。まるで、心のどこかが『もうこれ以上、傷つきたくない』って、勝手に扉を閉ざしたみたいで」


 亨の指が、無意識に喉元に触れる。


 その仕草に、綾乃は自分のトラウマを重ねた。


(この人も、声が出せない苦しみを抱えている……)


 同じ痛みを共有している気がして、胸が少し軽くなった。



開放弦(かいほうげん)の響き・


 亨は立ち上がり、「Quiver」の文字が刻まれたギターを手に取った。


「今日は声じゃなく、まずはギターで遊んでみようか。

声もギターも、同じなんだ。完璧じゃなくていい。優しい揺らぎが、心に届く」


 綾乃にギターを渡す。


 木の温もりが掌に伝わり、指先が小さく震えた。


 怖いのに、離したくない。

 重みと、弦の張りが、手に馴染む。


「まずは、開放弦(かいほうげん)を弾いてみて。何も押さえずに」


挿絵(By みてみん)


 綾乃は恐る恐る弦を爪で弾いた。


 クリアで、張りつめた音が部屋に響く。


きれい……でも、どこか冷たい。


 亨が自分のギターで同じ開放弦を鳴らした。


 二つの音が重なり、微かなハーモニーを生む。 ……はずだった。


 綾乃が弦を弾く力を強すぎて、弦がフレットをビビらせる。


「ビイィーーン……」というよどんだ響きが部屋に広がり、二人は同時に顔を見合わせた。


「……あ」


 綾乃が慌てて手を止める。


 亨がくすっと小さく笑った。


 かすれた声で、優しく。


「ちょっと力が入りすぎちゃったね。でも……それも面白い」


 綾乃は頰を赤らめ、眼鏡の奥で目を泳がせる。


「ご、ごめんなさい……」


 亨は首を振って、再び弦を軽く弾く。


「いいんだよ。むしろ、そうやって失敗するのも『人間らしさ』なんだ。

もう一回、僕に合わせてみて。息を合わせて……はい、せーの」


 今度は亨がゆっくりカウントを取る。


「いち、に、さん……」


 綾乃も合わせて弾く。


 今度は、ぴったりと重なった。


 二つの開放弦が、部屋に澄んだハーモニーを生む。


 その瞬間、綾乃の胸に小さな喜びが広がった。


「……合った」


 綾乃が思わず呟く。


 亨が柔らかく微笑む。


「うん。合ったね。合わせて弾くと、気持ちいいだろ?」


 綾乃は頷き、初めて小さな笑みを浮かべた。


「はい……なんか、胸が……軽くなった気がする」


 亨はさらに続ける。


「次は、6弦の1フレットを軽く押さえて」


 綾乃は人差し指を弦に当て、ゆっくり押した。


 音がわずかに高くなる。


 弦を弾いて指を少し緩めると、音が微妙に揺らぐ。


 息を吐くように、柔らかく、温かく。


 不思議な音の変化。


 デジタルのような正確な音ではない……でも、その揺らぎが、胸の奥に温かい波を広げた。


「……まるで、人の声みたい」


 綾乃がつぶやく。


 亨が頷いた。


「昔、ある世界的な名ギタリストが、完璧な音程を求めて特殊な湾曲(トゥルー)フレット(テンペラメント)のギターを作ったんだけど……結局、他の楽器と合わせるのが難しくて、諦めちゃったって話があるんだ。

完璧を追いすぎると、『人間らしさ』や『調和』が失われる……俺は、そう思うようになった」


 綾乃の目が熱くなった。


 完璧じゃなくてもいい。


 その言葉が、綾乃の胸に染み込んだ。


「……でも、私の声は……」


 言葉が途切れる。


 その時、スタジオのドアが軽くノックされた。


 入ってきたのは、20歳過ぎくらいの白いシフォンブラウス姿の女性。


 明るいハニーブラウンの内巻きボブヘアが朝の陽ざしに映え、元気で親しみやすい印象を与える。


 でも、瞳の奥に、少しだけ影がある。


「亨くん、久しぶり! ……あ、レッスン中だった?」


 亨が穏やかに微笑む。


優陽(ゆうひ)か。ちょうどいいタイミングだよ。入って」


 優陽は綾乃を見て、少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。


 明るい笑顔だが、どこか優しい影を宿した瞳を向ける。



・優陽の優しい影・


挿絵(By みてみん)


「新しい生徒さん? 初々しいね」


 亨は優陽の言葉に頷き、綾乃に軽く説明する。


「優陽は、僕の最初の生徒なんだ。今は歌の道を迷ってる時期だって」


 優陽は苦笑いしながら椅子に腰を下ろした。


「最近、オーディションに落ち続けてて……声は綺麗だけど、感情が乗ってないって言われてさ」


 亨は静かに首を振った。


「少し休んで、この機会に色んな音楽に触れてみたらどうかな? 例えば、ライブハウスに通ってインディーズバンドを色々聴いてみるとか……」


 優陽が少し眉を寄せる。


「インディーズ……ですか?」


 亨は穏やかに続ける。


「うん。オーディションみたいに『これが正解』って決まってる場所じゃないからね。

あそこは、誰もが自分の感情や想いを、そのままぶつけてる。型にはまってなくても、熱が伝われば、観客が泣いたり、叫んだりするし、メジャーでも見たことないレベルの演奏をする逸材に出会うこともある。

正解がないからこそ、君の『感情が乗らない』って悩みを解くヒントが、どこかにあるかもしれない」


 優陽は目を伏せ、指先でスカートの裾をいじる。


「……正解がない、か」


 少し間を置いて、ゆっくり顔を上げる。


 優陽は小さく息を吸い、声を少し強くする。


「……私、ずっと『正しく歌わなきゃ』って、自分を縛り続けてた。でも、それじゃ感情なんて乗らないよね。

正解がない場所で、ただ自分の想いをぶつける…… それが、私の声に必要なものかもしれない」


 彼女は亨をまっすぐ見つめ、唇の端を少し上げた。


 それは、迷いの先に、ようやく見つけた決意の笑みだった。


「ありがとう、亨くん。私……もう一度、歌いたいって思える場所を探しに行く。絶対に、行ってみるよ」


 彼女は綾乃の方を向き、優しい声で言った。


「あなたも、自分の声を怖がらないで。

私も昔は思うように出せなくて悩んでたけど、ここに来ると、いつも初心に戻れるの。きっと大丈夫」


 綾乃は優陽の言葉に、胸の奥が少し軽くなった。

 

 眼鏡の奥で、涙がにじむのを必死にこらえた。


 優陽は立ち上がり、綾乃の肩にそっと手を置いた。


「じゃあ、また来るね。……がんばって、二人とも」


 ドアが閉まると、静けさが戻った。


 綾乃は亨の横顔をそっと見た。


 優陽の瞳の影が、亨の短い言葉で光に変わった。


亨さんの言葉は、ただのアドバイスじゃない……人を動かす力があるんだ。


 胸の奥で、何かが温かく溶けていく。


(この人なら、私の声も……きっと、否定しないで受け止めてくれる)


 亨は穏やかに言った。


「彼女も、きっとまた歌い出すよ。 ……君も、今日はここまででいい」


「ありがとうございます」


「また来て。次は、少しずつ声を出してみようか」


 レッスンが終わった。


 亨はギターをスタンドに戻しながら、穏やかに言った。


「もうすぐ文化祭の時期だよね。学校で何か発表とかあるの?」


 綾乃は少し俯いて、


「……クラスで合唱の練習が始まってて……クラスメイトの(めい)っていう子が、いつも明るく『一緒に歌おう!』って誘ってくれるんですけど……私、まだ怖くて」


 亨は優しく頷いた。


「無理しなくていいよ。でも、もし歌う機会が来たら……今日の揺らぎを思い出してね」


 綾乃は立ち上がろうとして、ふと、Quiver(クィヴァー)の文字が刻まれたギターに視線を止めた。


 胸の奥で、まだ温かい波が残っている。


 優陽の決意の微笑みと、亨の穏やかな横顔が、重なる。


 この人の言葉を信じれば、きっと……私も変われる。


「……あの、亨さん」


 声が震えた。


「このギター……家で、練習してもいいですか?」


 亨は少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。


 彼はギターを手に取り、綾乃に差し出した。


「いいよ。貸してあげる。この子は僕の昔の相棒だけど…… 今は君の揺らぎを待ってるみたいだ」


 綾乃はギターを抱きしめた。


 木の温もりが、掌に染み込む。


 何か、不思議な安心感をおぼえる。


「ありがとうございます…… 家で、毎日触ってみます」


 ギターをソフトケースに収めながら、亨の目が優しく細まる。


「焦らなくていいからね。一歩ずつだよ」


 綾乃は頷き、ギターを大事に抱えてスタジオを出た。



・初めての小さな笑み・


 晴れた空の下を歩きながら、胸の奥で小さな響きが、初めて「自分のもの」として広がり始めた。


 初めて背負ったギターケースの重みが、心地よく感じられた。


 家に帰り、部屋の窓辺に座る。


 古いカセットプレーヤーを膝に置いた。


 再生ボタンを押す。


 母の声が流れる。


 途中で途切れるテープ。


 でも今度は、静寂が怖くなかった。


(あの優しい揺らぎがあれば……私も、歌えるかも)


 胸の奥で、小さな響きが初めて生まれた。

次回予告:第3話【母のテープに重ねた響き】(03月24日【火】 20:00公開)


揺らぎのメロディが、夕陽に変わり始めた。

音楽室の扉の向こうで、みんなの声が待つ。

小さな揺らぎが重なり、温かな光になる日は近い。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

亨の言葉と、綾乃の小さな笑みが、少しでも温かく感じていただけたら幸いです。

「この揺らぎ、好きだな」「続きが楽しみ」などのお気持ちがあれば、ぜひブックマーク・評価・感想で教えてください。

みなさんの声が、次のページの力になります。

来週、火曜日にお会いしましょう。

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