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第1話 【途切れた旋律】

 雨はいつも、少女の孤独を洗い流すふりをして、心の奥底を濡らすだけだった。


 無音の部屋で、彼女は自分の声が世界から拒絶されたことを知った。


 母の美しい旋律を台無しにした、あの日の失敗。


 それ以来、歌うことは呪いになった。


 けれど、ある雨の夜。


 小さく、静かなステージで、もう歌えない誰かの揺らぎのある歌声を耳にした。


 不完全な声が、孤独を溶かすことがあるのだろうか――。


(AIイラストによる挿絵で、物語の情景をそっと彩っています)

挿絵(By みてみん)


・雨音に閉ざされた部屋・


 雨が、窓ガラスを叩いていた。


 まるで誰かを叱責するように、その音は容赦なく響く。


 夜の部屋は、街灯の淡い橙色の光だけが差し込み、壁に長い影を伸ばしていた。


 その光は冷たく、遠い世界のものだった。


 17歳の水瀬(みなせ) 綾乃(あやの)はベッドの端に腰掛け、古いカセットプレイヤーを膝の上に置いていた。


 ダークブラウンのショートボブが柔らかく揺れ、丸い黒縁メガネの奥の大きな瞳が、静かに曇っていた。


 膝を抱えるように座る彼女の手にあったのは、年季の入った古いカセットテープ。


 透明の部分は曇り、角が丸く擦り減っている。


 母が若い頃に録音したものだ。


 綾乃は震える手で、カセットをプレーヤーに収めた。


 指先でヘッドホンのコードをなぞりながら、深く息を吸い込む。


 喉の奥が凍りついたように固い。


 それでも、再生ボタンを押した。


 ヘッドホンから、優しいメロディが流れ出す。


「♪ 揺籃(ゆりかご)の歌を、君に……」


 母の声。


 若い頃の、透き通ったソプラノ。


 光のように澄んでいて、聴く者の心を優しく包み込む。


 続くはずの低いハーモニー――温かく、少し掠れた男性の声が、重なるはずだった。


 でも、テープの劣化で、そこから先は途切れている。


 静寂が落ちる。


 その空白が、綾乃の胸に冷たい塊を沈めた。


 息が詰まる。


 ヘッドホンをゆっくり外すと、部屋に残るのは雨音だけ。


 激しい雨脚が、窓を叩き続ける。


 黒縁の丸眼鏡を外し、指でレンズを拭う。


 でも、拭っても拭っても、視界は曇っていた。


 涙が頰を伝うのを、もはや拭う気にもなれなかった。



・小学校の記憶・


 高校2年生になった今でも、あの日の母の顔が頭から離れない。


――小学校低学年の頃。


 母が声楽講師を務める地域の「親子童謡発表会」。


 小学校の木造校舎、大きな角部屋に用意されたステージ。


 客席は保護者でいっぱいだった。


 母と二人でステージに立つ。


 母のドレスは淡い水色で、照明に映えて美しかった。


 綾乃は小さな白いワンピース。


 母の手を握りしめる綾乃の手は、緊張で指先が冷たくなっていた。


「一緒に歌おうね、綾乃」


 母の笑顔。


 優しくて、誇らしげで。


 イントロが流れ、母の声が響く。


 綾乃も続く。


 でも、喉が締まった。


 音程が外れ、息が乱れ、旋律が歪んだ。


 会場に小さなざわめきが広がる。


 母の声が一瞬、途切れた。


 その一瞬が、永遠のように長く感じられた。



 終演後、控室で母は静かに、しかしはっきりと告げた。


「綾乃……あなたの声は、聴く人の心を、傷つけるだけだわ」


 その言葉が、耳の奥に刺さったまま抜けない。


 大好きだった母さんの声。


 一緒に歌う幸せを、私のせいで汚してしまった。


 母の綺麗な声が、私の音痴のために台無しになって、母の目がほんの一瞬怖かった。


 あの目は、私の声が本当に母さんの歌を壊したと言っていた。


 一緒に歌いたかったのに、私のせいで……。


 ごめんね、ごめんねって、何度も心の中で謝ったのに、言葉が出なかった。


 それ以来、歌うことは呪いになった。



・駆け抜ける夜・


 学校の音楽の授業でも、声を出さず、ただ口パクでやり過ごす。


 カラオケに誘われても、いつも断る。


 自分の声が、誰かを傷つけるかもしれないと思うだけで、喉が凍りつく。


 綾乃は立ち上がった。


 ラベンダー色のパーカーの袖で涙を拭い、部屋のドアを開ける。


 母の帰宅を待つリビングは暗く、誰もいない。


 冷蔵庫の微かなモーター音と、雨音だけ。


 耐えきれず、傘も持たずに玄関を飛び出した。


挿絵(By みてみん)


 雨が容赦なく顔を叩く。


 冷たい水滴が無数の針のように頰を刺し、眼鏡が曇って世界が白くにじむ。


 息が上がり、心臓の音が耳の中で暴れていた。


 母の言葉が、雨音と共に増幅される。


「傷つけるだけ」

「台無しに……」


 街灯の下を走る。


 路地の角を曲がる。


 息が切れ、視界がぐらつく。それでも、足を止めなかった。


「止まったら、またあの部屋に戻って泣くだけだ」


 綾乃は歯を食いしばり、路地を駆け抜けた。


 雨が激しくなり、世界が自分を拒絶しているように思えた。


 でも、その雨の中で、どこか遠くからかすかな光が見えた気がした。


 小さな路地の奥、古びた木造の建物に駆け込んだ。



・刻印と囁き・


 軒下で息を整えると、温かなコーヒーの香りと、かすかな弦の響きが漏れてくる。


 看板には「Cafe & Song 凪沙(なぎさ)」と、手書きの柔らかな文字。


 昼は喫茶店、夜は不定期でアコースティックライブや弾き語りが開かれる小さな店だと、噂で聞いたことがある。


 閉店間際のはずなのに、木製の扉が少し開いていた。


 雨に濡れた木の匂いと、店内から漏れる柔らかな灯りが、綾乃を優しく誘うように揺れていた。


 中から、微かなアコースティックギターの音と、息遣いのような気配。


 綾乃は濡れたまま、そっと扉を押し開けた。


 重い扉が軋む音が、雨音に溶け込んだ。


 店内は薄暗く、カウンターの向こうに、古い木のテーブルが数卓。


 壁には本棚と、古いポスター。


 木の床が雨の湿気で少し湿り、足音が柔らかく吸い込まれる。


 奥の小さなステージスペースには、一本のスポットライト。


 その光の輪の中に、一人の男性が立っていた。


 短髪のダークブラウンヘア。


 年は20代半ばくらいだろうか。


 穏やかな目元が、柔らかく微笑んでいるように見えた。


 シンプルな白いシャツにチノパンという、飾り気のない服装が、かえって彼の落ち着いた雰囲気を際立たせている。


 雨の冷たさがまだ体に残る中、その姿は温かな灯りのように感じられた。


 その男性は、古いアコースティックギターを抱え、弦を軽く爪弾いている。


 開放弦(かいほうげん)の音……


 左手の指がフレットを押さえると、音がわずかに高くなる――


 彼は目を閉じ、唇を動かしていた。


挿絵(By みてみん)


 声は出ていない。


 なのに、綾乃の耳には、確かに歌が響いた。


 少し掠れた、囁くような優しい声――


 息が漏れ、ピッチが微妙に揺らぐ。


 母の完璧な声とは違う。


 不思議な揺らぎを感じる。


 その揺らぎは、雨で冷えた胸の奥を、そっと溶かしていくようだった。


 まるで、凍った湖に落ちた、一筋の光のように。



 歌う仕草が止まった。


 その男性は、綾乃の気配に気づき、ゆっくり目を開けた。


 穏やかな顔。


 少しかすれた、囁くような、とても小さな声で、静かに言った。


「……ここ、閉まってる時間だけど。雨宿り?」


 綾乃は凍りついた。


 逃げようとして足が動かない。


 濡れた髪から滴が落ち、パーカーの肩をさらに重くする。


 彼はギターをスタンドに置き、カウンターから清潔なタオルを取って近づいてきた。


 静かな足音が、店内の木の床に優しく響く。


「びしょ濡れだよ。大丈夫?」


 囁くような小声で語り掛け、タオルを差し出す。


 綾乃は震える手で受け取り、顔を拭った。


 眼鏡のレンズがまだ曇っている。


 彼は温かい紅茶を紙コップに淹れ、そっと渡す。


 湯気が立ち上り、ほのかにレモンの香りがした。


 コップの温もりが、冷えた指先にじんわりと染み渡る。


「さっきの……僕の昔の癖なんだ。昔はステージで歌ってたんだけど、声が出なくなってから、こうやって口を動かすふりをする。録音を流すより、少しマシな気がして」


 綾乃はコップを両手で包む。


あたたかい……。


 指先の冷たさが、少しずつ溶けていく。


 胸の奥で、何かがゆっくりと動き始めた。


「……あの声、聞こえました」


 彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「君に聴こえたなら、よかった。僕にはもう、出せない声だから」


 そう言って、無意識に喉元に指を添えた。


 その仕草は、今でもそこに「何か」が塞がっているのを確かめるように見えた。


 彼はふと、カウンターの奥に飾られた古い写真立てに目をやった。


 そこには、笑顔の老人が小さなギターを抱えて写っている。


「……この人は?」


 綾乃が小さく尋ねると、亨は静かに答えた。


「祖父だよ。昔、この店でよく歌ってた。『音楽は、誰かの心に届けば、それでいい』って、いつも言ってた」


 声がかすかに震え、すぐに微笑みに変わった。


「その言葉は、今でも僕の中に残ってるんだ」


 綾乃は写真を見つめ、胸の奥で何か温かいものが動くのを感じた。

 

 彼は、ギターのヘッドに指を滑らせる。


 ヘッドストックに、彫刻刀で手彫りされた「Quiver(クィヴァー)」という文字が、薄暗い店内の灯りに照らされて静かに浮かび上がる。


(Quiver クィヴァー……震える、揺らぐ……そんな意味かな……)


 使い込まれた木目に沿って、細い線で刻まれたその文字は、このギターに、誰かの大切な想いが永遠に刻み込まれた証のようだった。


「君も、声が出ない夜を抱えてるみたいだね」


 綾乃の目から、再び涙がこぼれた。


どうして、この人はわかるのだろう。


 母の完璧な声とは違う、この揺らぎのある「何か」が、胸の奥の無音を、ほんの少し溶かした。


(この美しい揺らぎなら……母さんの声と重なっても、歪ませずに届くかも)


 彼はポケットから名刺を取り出し、綾乃に差し出した。


羽住(はすみ) (りょう)。この店を細々とやってる。日曜日の朝にボーカルレッスンもしてるんだ。

……歌いたくなったら、いつでも来て。相談に乗るから。君の声、待ってる」



・小さな決意・


 綾乃は名刺を握りしめた。


 指先がまだ冷たい。


 でも、心の奥に、小さな温もりが灯った。


 店を出ると、空気が少しだけ軽くなっていた。


 濡れたアスファルトに、街灯の光が細かく移り込んで揺れている。


 綾乃は名刺を握りしめ、初めて小さく、しかし強く呟いた。


「……私の声で、あのときの母さんの声に、もう一度触れたい。触れさせて」


 その言葉が、自分の口から出たことに驚いた。


 今まで、声に出すことすら怖かったのに。喉の奥が、わずかに震える。


 でも、それは恐怖ではなく、期待のようにも感じた。


 胸の奥で、何かがゆっくりと動き始める。


 それは、まだ弱い光。


 初めて、自分の声で「歌いたい」と思った夜。


 それは、綾乃にとって、小さな、しかし確かな第一歩だった。

次回予告:第2話【開放弦から始まる一歩】(03月20日【金】 20:00公開)


 胸の凍てつきが、少しだけ溶けた朝。

 震える指で、弦に触れる。

 完璧じゃなくていい――

 その言葉が、綾乃の声を呼び覚ます。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

綾乃の小さな一歩が、みなさんの心に少しでも届いていたら嬉しいです。

もし「続きが気になる」「このシーンが刺さった」など、少しでも思っていただけたら、ブックマーク・評価ポイント・感想をいただけると、とても励みになります。

次回も、ゆっくりと綾乃の物語を紡いでいきます。

またお会いしましょう。

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― 新着の感想 ―
雨の日の湿度や紅茶の香りがこちらまで漂ってきました。 亨の「出せない声」と、綾乃の「出ない声」。 似ているけれど違う二人の痛みが静かに共鳴する場面が印象的でした。 続きも楽しみにしています!
切ない! でも、この先に期待ですね! この先の未来に楽しみです!
公開を楽しみにしてました! 歌うことで傷ついた少女、歌声を失ったのに歌声が聞こえる男性 とても印象に残りました。今後の展開も楽しみにしています。
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