大山鳴動
山が動く。
赤く染まった夕暮れの空に黒い巌がそびえ立つ。柱状に割れてうねり、そそり立った岩の間には、硬い樹皮の裂けた針葉樹がしがみつくように生えている。
だが、その山は動いていた。
黒い岩の下には、赤く爛れた傷跡のような無数の裂け目があり、熾火のごとき赤光が明滅している。
その赤熱した裂け目を押し開いて、ヌルリと生えているのは蛇に似た頭や尾だった。ぬらぬらとした光沢のある白い体表には、ときおり虹色の蛇紋が浮かぶ。太く長い蛇身が絡み合いながらうねり蠢くのに合わせて、岩山はゆるゆると進んでいく。
進む先に向けて掲げられているのは一番大きな頭で、巨大な白い岩に覆われたそれは、いかにも歳を経た怪異という様だった。脇から生えた頭もそれぞれ額甲や角のように岩を頂いており、それらの眼は一様に酸醤のように真っ赤だった。
「しらんじゃ様じゃ。伏鉢山はしらんじゃ様だったんじゃ」
「おばぁ、怖いよう」
「早くこっちへ! 逃げ遅れるぞ」
「足弱の年寄りと小さい子供は馬車へ! 荷物は持つな。物はあきらめろ」
「わしはもう歳だでここに残る……」
「時間がないからごちゃごちゃぬかすな! 誰かこいつを荷台に投げ込め」
避難しようとするフォス村の人々の喧騒など一顧だにせず、岩の蛇亀エレバスは、もたげた鎌首を各々ゆるゆると上下させながら、ゆっくりと夕日に向かっていた。その巨体が地鳴りとともに進むと、腹の下の裂け目から滴り落ちた灼熱の岩の雫に焼かれて、地表の冬枯れした草や低木は燃え上がる。
炎は先触れのように巨大なエレバスの周囲に広がり、荒野を黒く焦がしていった。
立ちのぼる黒煙と炎を先兵に、焦土を砕きながら進むエレバスは、荒野の果てに向かって叫びを上げるようにその身を振動させた。巨体を覆う柱状の岩がオオオォンと共鳴し、轟きは辺り一帯の大地すべてを震わせた。
「もうだめじゃ……この世の終わりじゃ。真っ黒じゃ」
「なに馬鹿なことを言うちょる。ヴィクトリア様が何とかするからがんばれと言うておったぞ」
「もう、年寄りと子供はいないな。最後の馬車を出すぞ」
「これで全員か?」
「村長! うちのケノがおらん」
「そういえばユン坊も見ていない」
「石洗いのじっちゃんは、ユン坊を一緒に連れていかなかったのか」
「じっちゃんは、祟りだなんだと騒ぐ衆の面倒見てたから、それどころじゃなかっただろう」
「とにかく馬車は出せ。あの問題児ども見つけたらお仕置きじゃ」
「村長さん、子供が逃げ遅れてるの? 石洗いのじっちゃんを僕らが連れ出したから?」
「だったら、俺が探してくる。村長は村の人をまとめて避難してくれ」
「ディック?! 待ってぇ、僕も一緒に探すよう~」
どたどたと駆けだしたディックとボーは、人けのなくなった村を探しまわり、村の西のはずれにある楢の木の下でうずくまっている少年と少女を見つけた。
「いた~!」
「おい、早く逃げるぞ! 立てるか?」
「あ……ユンが……木から落ちて怪我を……。私も怖くて…立てなくて……」
「大丈夫、ほらつかまって」
「こっちの子は、僕が背負うよ」
「うう……ありが…と……」
そのとき、落日の地平から一本の水撃が奔り、荒地の炎を割いてフォス村のある台地の北端を削った。
轟音を上げながら崖端が崩れて落ちていく。
「きゃあああ!」
四人は震えながら楢の木の影にしゃがみこんだ。
それは枯れた河の跡を遡ってきたルス湖の怪魚ケトゥスの放った一撃だった。
ケトゥスは自身も巨大な水妖であったが、己を凌駕する存在が行く手を阻んでいることに気づいていた。ケトゥスの銀色の鱗は過酷な荒れ野の横断で汚れ、傷つき、その前肢の鋭かった爪もすっかりすり減っていた。それでもケトゥスは本能の導きのままに東へと突き進んだ。
エレバスが作った結界のような焼けた大地に、ケトゥスが引いた一筋の水の路から、もうもうと白い湯気が上がる。怪魚ケトゥス自身の全身からも水と霧が噴き出した。
西からきたケトゥスから広がる水の輪と、東からきたエレバスの炎の輪が交差した。霧と黒煙が混ざり合いながら天に昇っていく。血のような夕暮れの赤は急速にその色を失い、空は湧き出した暗雲に閉ざされ始めた。
枯れ底と呼ばれる地の中央に座したエレバスのすべての首がもたげられ、赤い目が敵を捕らえた。
オオオォォオオォ……。
唸るような鳴動と共に、エレバスの蛇頭がケトゥスに狙いを定めた。引き絞られた矢のように一度引かれた頭部の先端に赤い亀裂が入る。横に、そして縦に。下あごが左右に分かれる形で三つにぱっくりと割れた口腔の奥には、腹の裂け目と同じ熾火の輝きがあった。闇の中で幾つもの目と口の赤い光が一拍だけ揺れた。
次の瞬間、エレバスの首がずるりと伸びて、奇怪な蛇頭が一斉にケトゥスを襲った。
キェェアァァアアアア! キィイィィ!!
逢魔ヶ時にケトゥスの軋むような甲高い絶叫が響いた。
エレバスの蛇頭は、やすやすとケトゥスの腹や前脚に噛みついた。
ケトゥスは大きく暴れて尾ヒレを振り、蛇頭を払ったが、一つ、二つの頭をしのいでも、多頭のエレバスは止められない。瀕死のケトゥスは渾身の水撃を放った。細く収束した銀色に輝く一筋の光は、エレバスの右側に生えている首をすべて切り落とした。
ボタボタと落ちた巨大な蛇身は、大地をのたうち、抉りながら、それ自身が個別の生き物のように地面を這い進み始めた。一方、エレバス本体の傷口側では、一本の切り口から幾本もの細い肉芽が突き出してきた。新たに生えてきたのは、頭でも尾でもない白いブヨブヨとした触手で、それらは蛇というよりも蚯蚓のように蠢いた。
ケトゥスはもう一度、水撃を放とうとしたが、その口からゴボリと出たのは泡混じりの濁った水だけで、先ほどのような威力はない。
エレバスの蛇頭はケトゥスに群がって、硬い鱗をやすやすと食い破り、まるで熟瓜を割いて食むようにその身を喰い漁った。
ケトゥスの全身を覆っていた銀色の鱗と貝類の殻がバリバリと砕かれる音が、暗雲の垂れ込めた夜のしじまに静かに響いた。
§§§
「ヴィクトリア様、ご準備が整いました」
「参ります」
私は黄金の護符と指輪を確認し、魔導紋が刺繍された儀礼用の黒ローブの裾を引いて、用意させた部屋に入った。四方の壁が木目の詰んだ暗褐色の木彫と黒大理石で、窓に厚い黒いカーテンが垂らされた部屋は暗かった。事前に焚かせた香と薬草の香りが蠟燭の匂いに混ざって漂っている。磨かれた黒い玄武岩の床に正確に描かせた魔導紋を消さないように気を付けながら、中央に置かれた椅子に座る。この螺鈿と銀の象嵌の施された黒檀の椅子も魔導具だ。複雑な彫刻と文様のすべてに意味がある。私は椅子の背もたれに深く体を預け、ひじ掛けに手を置いた。
「奥様、住人の避難は完了しております」
魔導儀式用に調整された部屋の入口からこちらを見ているグレンのシルエットはいつも通りピンとまっすぐで声音も平静。そこに不安の影を感じるのは私の怯懦か。
「神話に勝つおつもりですか」
「ええ。今はもう魔導の時代で、バロールは私が預かっている土地だわ」
私は己の迷いを言葉で祓う。
「我々はあの土地で馬を飼い、畑を作ります」
精神統一のために定型句を唱えながら目を閉じると、遠い枯れ底の地の光景が見えてきた。
燃える大地と夜に黒く聳え立つ巨魔。
己がなそうとしている無謀に、ふっと笑みが漏れた。
「はじめます」
伝説の怪物だろうが何だろうが、時代錯誤の害獣はうちの土地から追い払ってやる!
グレン「ご武運を」




