震天動地
ルス湖でケトゥスと呼ばれていた水妖は、銀色の巨体をうねらせながら、己の生まれた源流を求めて、荒れ野と化したかつての河の痕跡を遡っていた。
鋭い爪のある強靭な前脚が大地をかき分け、硬い鱗に覆われた太い胴体が乾いた土を抉る。
ケトゥスの腹には牡蠣のような貝類の殻がびっしりと張り付いており、水妖の魔力によるものなのか薄っすらと水の幕が張っていて、周囲には霧が漂っていた。しかし、猛烈な勢いで乾いた大地を突き進むために、その水の覆いはケトゥスの身体を守り切れず、腹の殻は岩に当たって少しずつ砕け、激しく振られる尾鰭は傷だらけになって裂けていた。
それでもケトゥスは、水の香りすら覚えていない枯れた河底を、ひたすら東へ東へと辿っていた。
キェェアァァアアアア!
軋んだ叫びが中天に響き、その口から放たれた水流がまっすぐ地平まで大地を抉った。
古い段丘に挟まれた枯れ河の浅い谷は怪物の進攻によって、深く抉られ押し固められていった。
故郷に戻ろうとする銀色の怪魚を留めるものはもう何もなかった。
§§§
その日、ディックとボーはフォス村で山羊を見せてもらっていた。
ヴィクトリアが去年、馬の導入の前にと何頭かよこした山羊なのだそうだ。
「山羊は荒地の低木を食べてくれるし、フンが落ちると荒地の土でも牧草が生えやすくなるんだとさ。ローガン先生がそう言ってた」
「へーぇ、賢い人ってずいぶん前からずいぶん後のことまで考えるんだねぇ」
「何をどうしたらこうなる……なんてのは俺達にゃ飯を食わなきゃ腹が減るぐらいのことしかわからないけれど、偉い人ってのは全部承知しているもんらしいぜ」
「賢い人だからといって、何でもわかっていていつでも全部想定通りというわけではなさそうだがな」
聞き覚えのある声にディックとボーが振り向くと、大きな荷物を背負った大男がいた。
先日、トリル村で出会った塩売りの男だ。あの時は、彼の知り合いの老人の飼っていた亀を探すのを手伝って黒騎士は沼に落ちた。
「あ、こんにちは。どうです? 塩は売れましたか?」
「いや、残念ながら全然」
塩売りは、ここの村では要る分以上を買う余裕はないと断られたと苦笑した。
「君らは今日は、黒い鎧の騎士さんとは一緒じゃないのか」
「うん。黒さんは一人で先に行っちゃったんだよ。すぐに戻ってくるかもしれないから僕らはここでお留守番を……」
その時。
紐で束ねられたエニシダや葦を食んでいた山羊が急にベェベェと鳴きだした。
§§§
高い空を筋雲が流れていく。
フォス村で一番大きい楢に少年は登っていた。
「ねぇ、ユン! ユン坊~! 降りてきなさいよ~」
下から彼を呼ぶ幼馴染の少女の声がする。だが、少年は葉の落ちた梢の間から真剣に彼方を見据えていた。
何かが違う。
ざわざわとした胸騒ぎが少年の目を鼻を耳を地平の彼方へ向けさせた。
枝を握って身を乗り出した先に広がる白茶けた荒野の彼方に、煙のような白い靄が一筋たなびいていた。
なんだあれ……。
突然、胃の腑を突き上げるような振動があり、大楢の木の梢全体がざわりと揺れた。
「きゃぁ」
「ケノ! 大丈夫か?!」
地鳴りが低く轟き、ユン少年のいる大枝も震えた。木の下の少女は怯えて大木の幹に縋り付いている。
「何が起きているんだ」
もう一度、地平線の煙を確認しようとしたユン少年は、視野の隅に激しい違和感を感じた。
「伏鉢山が……!」
少年がこれまでずっと毎日見て育ってきた黒い山が、動いていた。
§§§
それはこれまでずっと眠っていた。
長い長い歳月をただじっと眠って静かに過ごしていた。だが、その安寧を崩す事態が発生した。
かの地に張られた結界が破られ、禁じられたものが今またここにやってこようとしている。
それは目覚めた。
大地に半ば埋まっている巨体をゆっくりと震わせると、長い歳月の間にその身体に張り付いた土や埃が、その上に生えた木や苔ごとバラバラと落ちていく。
その丸い背を覆う硬い岩は、柱状に割れた筋目を整えるように、ぎしぎしと整列した。岩の合間に生えている暗緑色の針葉樹や、欠けたり崩れたりした部分はそのままに、"伏鉢山"と呼ばれていたそれは、巨大な甲羅を持ち上げた。
§§§
「あ、亀だ。こんなところにいた」
「亀?! あれが?? 大きくないか?!」
「おじいさん、あんなの飼ってたの?!」
「家出してから大分経つので」
塩売りの男の言葉に、ディックとボーは口をあんぐりと明けた。
「あんなものどうすればいいんだ……」
その時、村の中央に虹色の揺らぎが出現した。
「黒さん! いいところに来た」
「大変だよ、黒さん! 亀だよ。亀が出たんだよ!!」
大声で叫びながら駆け寄ってきたディックとボーの言葉に、月魄に乗った黒騎士は怪訝そうに首をかしげた。
「ほら、あれ!」
台地の北端を塞ぐようにあった伏鉢山だったものは、大量の土砂を落とし大地を震わせながら、ゆっくりと西に移動していた。その青黒い岩の甲羅の下からは白い岩石で覆われた蛇のような頭部が鎌首をもたげていた。その頭部から続く長い首から胴はぬめぬめとした白い鱗で覆われており、艶めかしくぬるりと光っている。
持ち上がった甲羅の下はひび割れており、その奥は赤熱し、火山の火口のように煙を上げている。白い首はその赤い血が流れているかのような真っ赤な裂け目から生えていた。
しかも、西の枯れ底に向かうその進行方向に向かって突き出した頭を筆頭に、その丸い甲羅の四方八方から次々と蛇のような頭と尾が現れ、うぞうぞと、とぐろを巻いた。
カタカタ?
「たしかにちょっと亀かどうか怪しいけど、たしかにあれが塩売りさんが探してた亀なんだってば」
「そうだよね」と同意を求めようとボーが振り返った時には塩売りの大男の姿はどこにも見えなかった。
高さ60ヒロ、全長は1リード程もありそうな怪物は、台地の上にある人間のちっぽけな村など目にも入らぬ様子で、西の枯れ底の方に移動していく。
その西の彼方からは、水煙と土煙を舞い上げながら、ルス湖の怪魚ケトゥスが接近しつつあった。
怪獣大決戦!




