いつか我が手に命の水を
灰緑色の針葉と捻ねこびた枝の灌木と、風で倒れたままの枯草の間を細い道が続いている。
黒騎士と呼ばれている漆黒の鎧は、馬に揺られながらその光景をぼんやりと眺めていた。
まるで水底から眺めているような心持だった。
荷馬車の列も、それに乗ったり一緒に歩いたりしている人々も、灰色の影のようにゆらゆらしていて、己自身も不確かで何かふわふわしていた。己がいるのがどこなのか己が何者なのかが、ふっとわからなくなる足元が抜けるような感覚が恐ろしかった。しかしその恐怖もどこか遠い。
ここはバロールという土地で、己はその土地の領主だったらしい。なんとなくその記憶はある。
戦争があった。戦場のひりつくような感覚も残っている。ただしすべてが何か透明な膜の向こう側だ。
己が己であると感じることはこんなにも難しいことだったかと途方に暮れる。
あなたは何者か、何があったのか、これを覚えているか。
沢山聞かれて、沢山答えた。
だがそれが本当に己のことかどうかと問われると自信がなくなる。「お前はバロール領主の記憶を喰った怪異ではないのか?」と問われてしまえば、きっと「わからない」としか答えられなかっただろう。だが沢山質問してきた者達は、誰もがそれを思っていたにもかかわらず、誰もそれを口に出しはしなかった。
宙ぶらりんで不確かなまま、ただここにいる。いや……。
『ならばバロールの荒鷲の鎧を纏いし者よ! この地守り給え』
彼女の言葉が、何者でもない自分を守護者としてこの土地に結び付けていると、鎧の内の存在は感じていた。
ヴィクトリア。バロール領主の妻。
彼女のことを想うと、どこにあるのかわからない身の内が熱くなる。彼女の姿はこのぼやけた世界の中で燦然と輝いている。彼女の呼び声はどこにいてもわかる。彼女に触れれば世界を感じることができるし、彼女に触れられれば己を感じることができる。
自分が本物のバロール領主であったならよいなと切に思う。そうであったなら彼女は己の妻だ。
彼女のすべてを手に入れたいと思う。だが同時に己の身の証がないままそうすることの怖さも感じる。
もし己が領主を喰らった怪異であったのなら、己が夫として彼女を手に入れることは彼女への最大の裏切りだろう。……そもそも彼女を愛する身体もない身の上だ。今の己は思いのままに抱きしめれば彼女を傷つける硬い鎧でしかない。
『あなた……来てくださったのですね』
彼女のあの微笑みを受け取れる正当な身分の己であれたのなら、なんと幸せなことだろう。
ああ、人でありたい。
我こそはバロールの主だと胸を張りたい。いつか彼女を鋼でない胸に抱きたい。
どことも知れぬ虚空に消えていきそうな記憶を必死でつなぎとめる。深淵の底に沈んでいきそうな己の意識をけして手放すまいと思う。
『ああ、私の大事な……ちゃんとここに……うれしい』
彼女が抱きしめてくれたこの黒い鎧を今は己の身体として世界にかじりつく。
消えてなるものか。
彼女から渡された人形が「無事でいてね」と彼女の祈りを伝えてくれる。
山からのそよ風が吹き抜けていった。
黒騎士と呼ばれている漆黒の鎧は、馬上から辺りを見回した。
芽吹く前の杜松の密に茂った針葉からは、清めの香炉の煙のような薬草や松脂を思わせる香りがする。枯草の下のまだ少し今朝の霜が残る腐葉土からは早春の草が芽吹き始めている。山の木々の緑や苔むした岩の冷たく湿ったさまを思わせる匂いに混ざって、微かに獣の臭いがした。
黒騎士は手綱を握り締めた。馬は鞍上の黒騎士の気配が変わったのに驚いたが、強くて巧い乗り手の指示にすぐに従った。黒騎士は荷馬車の車列の中ほどから一気に先頭に出た。道の先にはやや大きな茂みがある。黒騎士の気配に驚いたのか、その茂みの中から大きな獣が飛び出してきた。
山を下りてきたのだろう。それは冬眠明けで空腹な大熊だった。
「黒さん、村に良い土産ができたね」
「今夜は熊鍋だねぇ」
笑顔の人々の間で、黒騎士は水面から顔を出して一つ呼吸をしたような心地で西の空の彼方を見た。
§§§
「肉があると酒が欲しくなるな〜」
「贅沢言うない」
フォス村で熊鍋を囲む村人や職人達に、ローガンは「酒といえば」と教えた。
「杜松と大麦があれば麦酒が造れますよ」
「麦の酒ですか」
「特に大げさな道具は要りません」
ローガンは「でも今はまだ教えませんよ」と指を一本、口に当てた。
「教えたら持ってきた種籾をみんな酒にして飲んでしまうでしょう」
「違いねぇ!」
「センセはようわかっちょる」
篝火を囲む男達はガハハと笑い、奥さん連中は「酒の前にもっと他のものの作り方を教えてもらわにゃ」と頷いた。
「そうです。そうです。働いて得た収穫は日々の糧になります。日々の糧が得られるようになれば、うまい酒を飲む余裕もできます」
「センセは人をのせるのがうまいのぉ」
「働いて飲む麦酒が楽しみじゃ」
「なんじゃ、気の早い」
「まずは馬で畑をおこして麦の畑を作るところからせにゃぁ」
「いんにゃ、その前に馬小屋を建てにゃ」
「なんの! その前にこの肉を食わにゃ」
「違いねぇ!」
ワイワイと他愛ない戯言で笑い合う大人達に混ざって、子供達も珍しく夜になっても家の外にいることを許されていた。大きな熊の毛皮を見て興奮気味の少年達の中の一人が、軽鎧を付けたラリーを見つけて恐る恐る声をかけてきた。
「ねぇ、熊を倒したのはお兄さん?」
「違うよ。黒騎士様だよ。とっても強いんだ」
ラリーはちょっと疲れた声音で遠くを見た。
「黒騎士様! 誰だれ? どこにいるの?!」
「今はご用事でお出かけだよ」
「えー、残念だなぁ。あんな大きい熊を倒せるぐらい強いのなら僕、その黒騎士様にお願いしたいことがあったんだ」
ラリーは、これは放置してはいけない案件だとピンときた。
「話してごらん。黒騎士様が帰ってきたら伝えるよ。君はどこの家の子だい」
少年はユンと名乗り、"石洗い"の家だと言えば村の者は皆わかると答えた。




