あなたは私を感じますか?
「おかえりなさい」
執務室に出現した黒騎士は、笑顔で出迎えた私を見てなぜか動揺した。なぜだろう。ちょっと待ち構えていた感じがしてしまったのだろうか。待ち遠しかったのが態度に出過ぎていたのだとしたら淑女として恥ずかしい。……でも、会いたかったのだから仕方がない。
妙にソワソワして、どういうわけか足元を気にしている黒騎士に、私はもう一歩近づいて「何か不都合がございましたか」と声をかけた。
カタリ……カタカタ……カタ?
話せないのにしどろもどろなんて器用なことができるのね。などと妙な感慨にふけりながら、黒騎士の素敵な兜をしみじみと見ていると、彼はちょっと恐縮した様子で両手をそっと差し出した。
「なあに?」
一体どういう経緯があったのかは不明だが、黒騎士は両手に革製の大きなミトンをはめていた。手甲の上から手袋だなんて見たことがない。
「良い手袋ね。え? 違う?」
柔らかい革の手袋をはめた手が大事そうに持っていたのは、泥で汚れた私の人形だった。
「あ……これ、やはり気に入らなかったのですね。ごめんなさい」
カタカタ! カタカタ!!
残念に思いながら人形を回収しようとした私に、黒騎士は全力で違う違うと兜を鳴らした。
「ええっと?」
首を傾げた私に黒騎士は身振り手振りで必死に何かを伝えようとした。
「"これは大事"……それに、"うっかり"、”落として"……"汚しちゃって"……"ごめんなさい"?」
カタリ(はい)。
大きなミトンをはめた真っ黒な鎧の騎士が大真面目にこんなことをして謝罪している様子がおかしくて、私は噴き出してしまった。基本の素材は格好良いのにどうしてこの人はこんなにも愛らしくなるのだろう。
「いいのよ。このぐらいの汚れはすぐに落とせるわ。気にしないで。さあ、こちらに来て何があったのか詳しく教えてちょうだい」
私は彼の手を引いた。彼が一歩踏み出した途端、その足元から泥がこぼれて落ちた。
「えっ? まぁ、大変」
どうやら黒騎士は泥沼か何かに落ちたらしい。出現したときには表面上はツルリと綺麗だったので気付かなかったが、足の装甲の隙間から湿った泥が落ちている。もし中に泥が詰まっていたら内側から錆びてしまう。
「今、綺麗にして差し上げますわ」
と言っても甲冑師のサムソンは荷馬車隊に同行させてしまった。この鎧の手入れは散々したので、どこをどう外せるかは私も完璧に知っているが、はたして殿方が着用中の鎧を私が脱がせてよいものだろうか?
いや、着てないな。
中身がないから脱がせるわけではない気がする。このあたりの解釈は大変に難しい。とはいえ参照できる先例も今のところないので、戦場での負傷者または急病人の緊急を要する介護の事例を適用することにする。
ある意味この現状は戦場での負傷者……重大な身体欠損状態、なので問題ないだろう。
私は一拍ほど迷っただけで、すぐに黒騎士用の椅子を彼の後ろに置き、隣室の使用人に必要な道具を持ってくるように指示を出し、座らせた黒騎士の鉄靴に手をかけた。
本来なら着用者の革の中靴や下履きなどと紐で結んで固定するものなのだが、衣服とみなせそうなものは存在していないようなので、いまひとつどのように固定されているのかが判然としない。勇者の武装や先日の怪異もかなりいい加減な接合で自在に動いていたので、魔導的な力がなにがしか働いているのだろう。
「兜が取れても平気だったのだから大丈夫だとは思うけれど、痛かったら教えてね」
カ……。
ガコン! と思い切りよく外す。
思ったほどではないが内側には泥が付いている。外側と内側で鎧自体に影響を及ぼしている術式が違うのだろうか。それとも虹色の揺らぎに出入りするときの個体認識の定義の境界面の問題なのか。実に興味深い。
とりあえず、綺麗にせねば。
「奥様、何をなさっておいでですか」
湯を張ったタライとブラシ類を持ってきてくれたグレンは、腰掛けた黒騎士の足元に座り込んで、外した鉄靴を逆さに振っている私を怪訝そうに見た。
「グレン、それ、ちょうだい。泥がついちゃったから掃除するの」
「奥様自らそんなことをなさらなくとも……」
「あら、これでも魔導的に異変がないか様子を見ながら慎重にやっているのよ」
私は受け取ったカゴの中のブラシで泥を掻き出しながら、グレンに文句を言った。
「さようでございますか……」
もの言いたげな老グレンの視線を辿って黒騎士を見上げると、彼はその大きなミトンをはめた手で顔を覆って肩を震わせていた。
ごしごし。
ぷるぷる。
ごしごしごし。
ぷるぷるぷる。
「ひょっとしてくすぐったいの?」
カ……カタリ(はい)。
驚いたことに感覚があるらしい。検証すべく比較実験をしてみたところ、意外なことに内側は感覚が鈍く、むしろ外側の方が人の感覚に近いようだ。
「人の素肌ってほどではないけれど、鎧を着た上から触られているというよりも触感はあるのかしら」
私はもう少し試してみるために、執務机の上の羽ペンを手に取った。
「ねぇ、ひょっとしたら見た感じでくすぐったがっていない?」
胸当てや膝当てに羽ペンの羽をそっと近づけて軽く触っただけで黒騎士は身体を震わせた。
いくら何でもそんなことはないだろう。私は正確な検証をすべく黒騎士の目のスリットに布を巻いた。
「これはどう?」
念のために後ろに回り、彼の死角に当たる位置から兜の脇にある翼の形の飾りの裏を軽く掃く。
黒騎士は私の羽ペンから逃げるように頭を抱えてかがみこんでしまった。
「えーっと……。ねえ、グレン。ふと思ったんだけれど、これ私、相手が鎧だからこんなことをしているけれど、もし旦那様だったらひょっとしてとんでもないことをしてる?」
「奥様が多少なりとも正気をお保ちだとわかってグレンは安心いたしました」
私は羽ペンをポイっと捨てた。
§§§
足をすっかりきれいにするまでにもうひと悶着あったが、それを終えて、机に向かって今日の出来事を書き出してもらっているうちに黒騎士はすっかり落ち着いてくれた。
私は彼が書きものをしている間に、隣で形代の人形の泥を落とし、綺麗に整えて暖炉で乾かした。
「書けた? 見せて」
二人だけになった執務室で、私は彼の隣に椅子を寄せて、綴られた日誌を読んだ。
「ふふ。それは大変だったわね」
従者として誰を連れていきたいかと尋ねた時に、気の利く上級の召使や守備隊の兵士ではなく、下働きの使用人二人を選んだのは意外だったが、こうして報告を読んでいると彼にとってはそれが最適だったのだろうということがよくわかる。この二人は彼を怪異とも主人とも思いすぎていない。不安定な状態にいる彼にとってそうしてただの"身内"として扱ってもらえることは重要なのだろう。
「サムソンが風邪をひいてしまったのはいけないわね。早く良くなってもらわないと」
甲冑師のサムソンには黒騎士のメンテナンスをしっかりやってもらう必要がある。さっき鎖帷子の中に手を突っ込んで脚の装甲を吊っているベルトを外そうとしたら、強い抵抗を受けてやらせてもらえなかった。あとでサムソンには脚部をきちんと清掃してもらわねばならない。
「そうだ。いいものがあるわ」
私は厨房から、今日作ったばかりの咳止め薬を貰ってきた。黒長根をすりおろして蜂蜜と混ぜたシロップだ。
「喉に良くて、おなかの働きも整える薬効があるのよ」
小さな壷に入ったそれを黒騎士はじっと見つめた。興味があるのだろうか。
私は彼を間近でよく見た。
「味見してみる?」
彼が兜の顎を二回鳴らそうとする前に、私はそっと顎の部分のパーツを指でなぞった。
「口を開けてくださいな」
小壷の蓋を開けて、薬匙で中身を少しすくう。
「はい、あーん」
少しだけ開いた隙間に匙の先を差し込む。三つ数えてからゆっくり匙を引き出すと匙の先にはやはりシロップがそのまま残っていた。私達はその小さな匙の先を黙って見つめた。
私はなんだか悔しかった。この人はこんなにも人らしく思い考えて懸命に生きようとしているのに、食を分かち合うことすらできないなんて切なすぎる。
あまりに癪だったので、私はそのまま匙を咥えて中身を口に含んだ。黒長根の苦みと蜂蜜の甘味が口に広がる。ああ、触れられたことがわかるというのなら、この苦みも甘さも共に分かち合えたっていいだろうに。
兜の面頬の隙間は硬くて冷たくて鉄の味がした。




