今宵はともに
私は黒騎士の手を引いて、ホールの中央階段の方に向かった。
ホールの手前で黒騎士は一度立ち止まり、地下室に戻るのではないのかと怪訝そうな様子を見せた。
「いいえ。こちらに」
館に戻る前に迎えに来てくれた使用人の話では、勇者が地下室に行ったところをグレンが止めて従者ともめることになったらしい。今夜この後、勇者やあの従者がまだ動くとは考えにくいし見張りも増やしたが、動くとしたら地下室を確認しに行く可能性は高い。そんな場所に黒騎士を戻せないし、勇者が地下室に向かったということは、館のどこであっても黒騎士のために不自然に人を配置すれば怪しまれる可能性はあるということだ。
私は燭台を片手に、黒騎士の手を引きながらゆっくりと大階段を上った。
「(夫にエスコートされてホールに降りる妻、というのをやる前にこんなことをしているわね)」
すこし自分のことが滑稽に思えて、私は段の途中でふと足を止めて振り返った。
掲げた灯りが私の影を長く階段に落としている。背の高い黒騎士は私より数段下にいるのに私と目線は同じくらいだ。半分私の影のような彼の目元に視線をさまよわせて、私はそこに人らしい輝きを求めてしまったが、そんなものはなかった。
中身のない黒い鎧は、カクンと首を傾げた。
「何でもないわ。足元に気を付けてね」
なぜか階段の段の中ほどに、ホールの飾り台に乗せてあった飾り花瓶が置いてある。
グレンだろうか? ホールではっちゃけたときに、壊すといけないからここに置いた可能性がある。
いや、だから、そういうことに気を配る余裕があるなら、乱闘はやめてほしい。
私は階下を片付けている使用人達に、その花瓶も忘れずに元の場所に戻すように声をかけてから、二階に向かった。
§§§
「ここよ」
廊下をもっと奥に行こうとする黒騎士を呼び止めて、私は書斎の扉を開いた。
卓上のランプに持ってきた燭台の火を移す。ランプの覆いで淡く広がった明かりが部屋を照らした。部屋付きの秘書はもう休んでいるので、夜番の召使いを呼ぶ。
黒騎士用の椅子が用意されるのを待つ間に、私は羽織っていた白い外套を脱いだ。フードを脱いだ拍子に適当に直してまとめていただけの髪がほどけて肩に落ちる。魔術で傷を治したせいで少し髪の間から出てしまっている角が恥ずかしくて、私は黒騎士に「少しあちらを向いていて」と頼んだ。
火が入れられた暖炉の前で、ケープで隠していた儀礼用の黒いローブも脱ぐ。
「(やだわ。穴が開いてる。刺繍のないところだからつくろえば、まだ使えると思うけれど。ああ、血染みもできているわね。これ取れるかしら?)」
軽くため息をついて、ローブを召使に渡す。代わりに用意されたガウンは、昼間なら部屋付きの者が着せてくれるのだが、夜中で人手もないので自分で着るしかない。髪は自分で結うのは無理なので軽くまとめて片側に流すだけにして、薄いベールをかぶる。
ふと顔を上げると、黒騎士が居心地悪そうに部屋の端の方でそわそわしていた。
「お待たせしました。どうぞこちらに来てお座りになって」
執務机の革張りの大きな椅子が避けられた隣に用意された頑丈そうな木の簡易椅子を鎧に勧める。
黒騎士はぎこちなくそこに座った。高さは問題ないようだ。私は昼の内に用意させていた"筆記具"を持ってこさせて、黒騎士に見せた。
「細い羽ペンでは扱いにくいのなら、こういう太い軸ならどうかと思って」
この木のペン軸の持ち手には、革を巻いて太く滑りにくくしている。
「急いで用意させたから見栄えはあまりよくないのですけれど」
私は黒騎士の手を取って、急ごしらえのペン軸を握らせた。ペンの握り方など忘れてしまったかのようにぎこちなく手甲を軋ませる黒騎士の隣に座る。私は彼の手に自分の手を添え、ペンを持つ正しい位置に指を合わせてやった。
まるで初めて書き取りを習う子供のように緊張してペンを握る黒騎士を励ましながら、私はゆっくりとペンを練習させた。
「大丈夫。槍や手綱が持てるのですもの。簡単よ。それに鎧姿のまま戦場で報告書を書く騎士だっているわ。あなただってきっとできる。ほら、いい感じよ」
私は、もう少し椅子を近づけてと彼に頼み、彼の右腕に寄り添うようにして一緒にペンを握った。
「今日は色々と無理ばかりさせてしまったわね。あなたが頑張って文字盤で綴ってくれた内容もみな目を通しました。ありがとう。でも……」
「この先ずっとあれでは互いにとても不便でしょう?」と尋ねると、黒騎士はカタリと兜を鳴らして肯いた。
「私はもっとあなたのことが知りたいわ。だからね、あなたがペンを自分で使えるというのは素晴らしいと思うの」
どのみち今夜は安心してゆっくり眠れる状況ではない。だったら有意義に過ごした方がいい。
「今宵一夜、共に過ごしましょう」
ひんやりとした右腕に少しもたれかかるようにして、そっと抱く。
色は真っ黒だがこれは私が旦那様のために作らせた鎧だ。間違いない。
私は少し胸がどきどきしてきた。ああ、この熱で、この手が少しでも温まってくれればいいのに。
その夜はそれ以上何事もなく更けて、黒騎士はペンで字が書けるようになった。
そして……夜明け前の一番冷え込むとき。
少しうとうとしてしまった私の顔にかかった髪を、あの人の右手が優しくかき上げてくれた気がして、私は飛び起きた。
「手! 右手を見せて!!」
黒騎士の手甲の中。空ろで硬かった冷たい指には、確かに中に手がある弾力と温もりがあった。
私はあわてて細い鎖を編んだ手袋を脱がせようとした。焦るせいかうまく脱がせることができない。
「明かり! 明るいところで確認しなきゃ!」
急いで窓のところに連れて行きカーテンと鎧戸を開ける。
入ってくる朝の光に黒騎士の右手をかざした私は、落胆の声を白い吐息と共に吐き出した。
冷たい白々とした朝の光に、鎧の騎士の右手は元通り空しく虚ろになっていた。
それは朝露よりも儚く




