月下の魔女
地下へと下る階段は細く、途中で一度踊り場を挟んで折れ曲がっていた。階下からの薄明りで踊り場の先はわずかに段が見える。イラーナが一足ずつ慎重に降りていくと階段の降り口は廊下の横手につながっており、灯りは左手からきているようだった。
先ほどの二人の声が時折うっすらと漏れ聞こえてくる。話の内容は聞き取れない。イラーナはしばらく躊躇していたが、音の感じから相手は廊下ではなく部屋の中にいるのだろうと結論付けた。彼女は階段の脇の壁からそっと顔を出して廊下の先を確認した。
殺風景な地下の廊下は窓もなく黒々と奥まで続いていた。その先の扉がわずかに開いていて灯りはそこから漏れている。
イラーナは息をのんだ。
扉の前の廊下に人影があった。扉の開きの加減でちょうど半分影が差す位置に槍を手にまっすぐ立ち尽くしている。そしてそれはよく見ると……兜のない全身鎧だった。
「お客様、こちらは物置でございます」
突然、背後から声をかけられてイラーナは飛び上がった。
慌てて振り返ると、例の老家宰が厳然たる態度でまっすぐに立って彼女を見下ろしていた。
「食糧庫はこちらにはございません」
「盗み食いに来たんじゃないわよ!」
「後ほど夜食をお部屋までお届けいたします」
「だから、おなかが減って寝られないんじゃないってば!!」
「では、このような時間に何用ですか」
ろくに灯りのない廊下の端で、この背の高い老家宰の鋭い目が自分を貫いて内側まで見通してくるような気がして、イラーナは身震いした。
「……えーっと、なにか温かい飲み物をいただいても?」
「かしこまりました」
老家宰は恭しく一礼して「ではお部屋までお送りいたしましょう」と白い皮手袋をした手を階上に向けた。
イラーナはもう一度、廊下の先に本当に鎧があったのかどうかを確認しようとしたが、老家宰の身体でちょうど視線を遮られてみることができなかった。階上からもう一人、ランプを持った使用人が下りてきて、彼女は慇懃に、しかし否応なくエスコートされて、その場を立ち去ることになった。
§§§
冬のバロールの夜空には滲みも淡さもない。
しんと冴えた月を見上げながら、私は冷たい夜気を吸い込み、ゆっくりと息を吐きだした。
南中した満月ではないものの、場の魔力を高めて整えるのには十分な月光は射している。これから行う単純な術式であればこの条件でも十分だろう。
星を確認し、祭壇の向きを調整させる。そして定型句を唱えながら少量の塩と浄樹の葉を祭壇の周りに撒きお定まりの準備を終える。こういうのは気休めだが、浄化の儀式を行う意識を整える役には立つ。
私は用意させた2種類の薬湯の片方に湯を足させて、薬包から計量済みの白い粉を溶いた。白い陶器の椀から湯気が立ち上る。熱すぎてもいけないが冷めすぎてもいけない。王都には勘違いしている者もいたが魔術師は呪文さえ唱えられれば良いというわけではない。
私はふーっと椀に息を吹きかけた。
今回手伝ってくれる者たちが、祭壇の上で眠り続けている美しい娘の傍らに跪く。
彼らには、余計な影響を受けないように全身をすっぽりと覆うローブと皮手袋を着用させた。頭部も髪や口元を覆うような最低限の視界を確保しただけの頭巾をかぶらせたので、見た目は胡散臭いことこの上ない。敗戦の報を受けたときに「喪に服さなきゃ!」と慌てて、お仕着せの服地のストックを黒く染めてしまったのは失敗だった。
……生成り地ならまともに見えたかというと、ちょっと自信はないが、夜中に全員黒ずくめで作業をすると誰がどこにいるか見分けにくいので、作業効率としては生成りの方がましだっただろう。
「(こういう身も蓋もないことを考えているから、術式がおかしなことになるのだと昔は叱られたわね)」
王都での窮屈な魔術院のお歴々のご指導ご鞭撻を思い出しながら、段取り通りに指示を出す。
黒ずくめの助手達は娘の口を開かせ、口を閉じられないように金属製の口枷を革帯で固定した。
私は白椀を彼女の口元に寄せて、中のどろりとした濃い薬湯を少しずつその口の中に注ぎ込んだ。篝火に照らされててらてらと光る薬は、とろとろと彼女の口腔から喉を下っていく。意識がなくとも苦しいのだろう。暴れる彼女の身体を総出で何とか押さえつけ、顔を背けようとするところを無理やり頭部も固定して、ひと椀を最後まで飲ませる。
私は半身を起させた彼女の背中をさすり、彼女の体内の魔力の流れに干渉しながら、腹部に手を当てて強く押した。
彼女は激しくえずいて、体を二つ折りにし、胃の中身を地面にぶちまけた。
「(屋内でやらなくてよかった)」
薬湯と胃液の混ざった苦酸っぱい臭いに辟易としながらも、私は儀式用のローブを汚さないように気を付けながら彼女の背中をさすってやった。助手たちがぐったりした彼女の口を拭い、吐瀉物で窒息しないように口の中を綺麗にしてから、歯と舌を固定する口枷を外す。私は二つ目の薬湯を飲ませるように指示した。さっきのは吐かせるための薬だが、今度のは逆流した胃液で荒れた喉を癒すための薬である。
たいした物を食べていなかったからだろう。ほとんど水気だけの吐瀉物は乾いた地面にすぐに染みこんでしまった。しかし、その湿って黒ずんだ地面にコロンと小さな卵型の金属装飾が転がっていた。
「(あったわ)」
私は立ち上がり、差し出された水盆で一度手を清めてから、夜に向かって詠唱を始めた。
§§§
イラーナは、灯りを持って先導する使用人と老家宰に付き添われ、一階のホール前を歩いていた。
「(どうしよう。このままじゃ部屋に連れ戻されちゃう)」
連れ戻されるだけならいいが、この屋敷は何かおかしい。このままでは自分達はどうされるかわからない。イラーナは隙をついて逃げることを考えて玄関扉の方を見たが、すぐ後ろにいる怖いぐらい隙のない老家宰につかまることなく、あそこから外に行ける気がしない。
「(ディーノは何をやっているのかしら。何かあったら必ず助けに参りますって言ってたくせに)」
危険な役目をイラーナにやらせて、ちゃかり自分は安全なお留守番役を選んだ頼りにならない従者のことを考えて、イラーナは少しむくれた。
「(そりゃ、自分で調べたいって言ったのは私だけど、こういう時にはすぐに来てこその従者じゃない?)」
そう思ったときに、不意に闇から伸びた手に腕を引かれてイラーナはつんのめった。
「きゃっ?!」
「イラーナ様、ご無事ですか」
「ディーノ!」
物陰から現れた彼女の従者は、たたらを踏んだイラーナを背にかばい、この屋敷の使用人二人と彼女の間に割って入った。
「早くあの扉から外に」
「一人で逃げろっていうの?!」
「表でこの屋敷の主があの村娘を贄に怪しげな儀式を行おうとしています。イラーナ様の力でお止めください」
「わかったわ!」
イラーナは力強くうなずくと、まっすぐに正面玄関の扉に向かって走った。
「これは、お客人のお付きの方は何か思い違いをなさっているようですな」
老グレンは、彼を勇者の方に行かせまいと立ちふさがる若い男との間合いを慎重に計った。
「思い違いではないと思うぜ、爺さん。俺はあんたのところの奥方様が表でとんでもなく恐ろしいことをしているのをこの目で見たんだが……あんたは知っているのかな?」
「はて、何のことやら」
老グレンは灯りを持っていた部下を目線で下がらせた。ディーノはその場から使用人を逃がせば仲間に知らせを入れられてまずいのはわかったが、目の前の老人のためにそちらを止めるのはあきらめた。
「お若いの、これは簡単な提案なのだが。お互い制約付きで……というのはどうかな? 家財に傷はつけないというルールでお願いしたい」
「それはいいですね。承知いたしまし……"た"まで言わせろよ! このジジイ!!」
顔の脇ギリギリをかすった拳の二撃目を体をひねって躱しながら、ディーノは叫んだ。
「失礼。年を取ると気が短くなるものでしてな」
「あんたは絶対若いころから短気だっただろう!!」
猛烈な突きと蹴りの嵐をさばきながら悲鳴を上げたディーノを、グレンは「なかなか筋がいい」と褒めた。
アクションましまし




