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婚約者の姉を好きになってしまいました。これって、裏切りですよね?

作者: 宵二咲ク


 貴族の婚約というのは、恋愛感情などとは無縁のものである──はずだった。


 ずっとそう思っていた。本気で、疑いもせずに。


「リュカ様、お久しぶりですわ!」


 明るい声が屋敷に弾ける。花が咲くような笑顔がこちらに向けられた。

 俺の婚約者、エミリア・セリーヌ嬢は可憐さに程よく無邪気がブレンドされた、今日も完璧な『お嬢様』だった。


「やあエミィ、今日も素敵だね」


 淡いピンクベージュの巻き髪に揺れるレースのワンピース。長い睫毛に縁取られたアクアブルーの大きな瞳がこちらを見上げてくる。


 ただ、ここのところ彼女の無邪気さのどこかに、ほんの微かな違和感があった。

 いや──それはエミリア嬢ではなく、その背後から現れた彼女の姉のせいだった。


「エミリア、玄関にお客様が来てるのに走らないの。はしたないわよ」


 低く、落ち着いた声に、どくん、と心臓が跳ねる。

 ふと見上げた階段の踊り場に立っていたのは、エミリアの姉──マリア・セリーヌ嬢だった。


 長く伸びたダークブラウンの髪を一つに結い、淡い緑のドレスをまとい、背筋を伸ばしてこちらを見下ろしている。

 ……なんだろう、この息が詰まるような感覚は。


「ごきげんよう、リュカ様。妹がお世話になっております」


 深くお辞儀をするその姿は、まるで完璧に仕立てられた彫像のようで、威圧感すらある。だが、そのあと浮かべた微笑みには、ほんの少しの柔らかさがあった。


「あ……いえ、こちらこそ」


 口が勝手に動いていた。

 エミリアが腕にすり寄ってくるが、今の俺は完全に集中を失っていた。


「マリィ姉様ったら、また怖い顔して。リュカ様に誤解されちゃいますわよ?」


「そう? 私は普通よ。私とリュカ様に何の誤解があるというの?」


 微笑みながら答えるマリア嬢。その視線がちらりと俺をかすめた。

 その一瞥に、なぜか胸が苦しくなった。


(まずい。これは──まずい)


 俺は何を考えている?

 目の前にいるのは俺の婚約者の姉だ。将来、家を継ぎ、婿を迎える予定の彼女は、俺の人生において「絶対に手を出してはならない人」のはずだ。


 だというのに。

 エミリアの甘える声が耳に届かない。

 ただ、あの凛とした女性の立ち姿だけが、まるで絵画のように脳裏に焼き付いていた。


 

その夜


「……俺、どうしたんだ?」


 リュカ・ノルディエール、十七歳。子爵家嫡男。自分で言うのもなんだが、成績優秀、品行方正。


 そんな俺が今、婚約者の姉の残像に悩まされている。

 最近、時々ふとした時に彼女と目が合うのだ。


「これって……いや、裏切りじゃないか? え、普通にダメだよな?」


 夜の寝室で頭を抱える。

 ダメだ、こんな話を親に相談したら、「貴族が感情に流されるなどあり得ない」などと説教が飛んでくるだろう。

 じゃあ友人に相談? いや、ジャンは口が軽い。下手したら学園中に広まる。


「くそ……誰か、まともなやついないのか……?」


 こうして俺の迷走と相談の日々が幕を開けたのであった。

 


 相談相手を間違えると人生が破滅する──とは、祖父の言葉だったか。


 まさか自分が、その言葉を噛みしめることになるとは思ってもみなかった。


【1人目:無責任な友人・ジャン】


「なるほどなー!婚約者の姉ちゃんがドストライクだったってワケか!」


「ち、違う!“だった”じゃなくて、“かもしれない”だ!」


「いやいや、そう言ってる時点で終わってるだろ、リュカ。認めようぜ。年上のお姉さんっていいよな〜。俺も家庭教師の先生にちょっと憧れてたし!」


「ジャン、真面目な話だぞ……これは一歩間違えばスキャンダルだ。家の名誉に関わるし──」


「だったら秘密でいけよ。誰にも言わずに、姉のほう口説けば?」


「……悪魔かお前は」


 そんなことできるわけがない。そもそも口説いたところであの賢くて責任感の強いマリアが応じるとも思えない。こちら有責での解消になるのが目に見えている。


 いつもの昼食テラス。笑顔でパンをかじるジャンに、俺は本気で殺意を覚えた。


「いや〜でも分かるわ。お前、今まで“婚約者だから”って自分を縛ってただろ?でも本能は正直なんだよ。いいじゃん、ちょっとぐらい恋愛に生きようぜ!」


「軽すぎる……!」


「だって俺は責任取らなくていいもん」


 本当にこいつに相談した俺が馬鹿だった。

 机に突っ伏しながら、俺は人生の選択をひとつ間違えた気がしていた。




【2人目:経験談で語るリヴィア】


 午後の陽が、磨かれた窓ガラスを通してやわらかく差し込んでいる。

 高級住宅街の一角にある、会員制のティールーム。

 落ち着いた内装、軽やかな音楽、そしてなにより──他の客の声がまったく気にならないほど、適度に人目があるという利点。


(ここなら……余計な噂にはならない、はず)


 俺は、銀のティースプーンを持つ指に力が入ってしまうのを自覚しながら、目の前の人物──リヴィア・サレスト夫人を見た。


 上品にカップを傾けながら、彼女は俺に微笑みかける。


「で? あなたのご友人の婚約者の……お姉さま、だったかしら? それがどうしたの?」


「いや、だから、その……その友人は、婚約者とは家の取り決めもあって……けど最近、その、姉君のほうが気になるようで……」


「ふうん」


 彼女は軽く首をかしげ、カップを置くと、まるで恋愛小説の一節を読むかのような口調で言った。


「恋ってね、“最初にときめいた方が勝ち”なのよ、リュカ君?」


「……は、はあ?」


「私なんて、卒業してすぐ結婚したけどね、今思えばアレはただの勢いだったわ。ときめいたから結婚して、ときめかなくなったら……まあ、察してちょうだい」


 笑顔だが、目が笑っていない。


 リヴィアはバターをたっぷり塗ったスコーンにジャムを重ねながら、やや投げやりに続けた。


「それでね、浮気されてやっと気づいたの。“ああ、結局、男って最初に夢見たほうが勝ちなのね”って」


「い、いえ、それは、ちょっと乱暴すぎでは……」


「何言ってるの。婚約者の姉に惹かれてる時点で、あなたも十分“ときめき派”よ?」


「う……」

「あらごめんなさい。ご友人の話でしたわね」


 返す言葉がない。


 彼女は得意げに笑うと、手元のグラスに氷入りのハーブティーを注いだ。


「迷うなら、“よりドキドキするほう”を選びなさい。どうせ義務で結婚しても、後から後悔するだけよ」


「……義務って、言い切るんですね」


「言うわよ。だって、私がそうだったもの。経験者は語るって、よく言うでしょう?」


 ティールームの給仕が、新しいポットを置いて去る。


 紅茶の香りがふわりと立ち上る中、リヴィアは小さく笑って言った。


「さあ、リュカ君。あなたは、“誰と過ごすお茶の時間”がいちばん楽しいと思う?」


「……え?」


「女は、そういう時間の積み重ねでしか男を見ないわよ?」


 俺は内心溜息をつく。ときめき派などと言われても、自分との共通点がさっぱりわからない。


 この人のアドバイス、全部自分の話じゃないか……。


 それでも……“義務よりときめき”って、言われて、ちょっとだけ救われた気がしてしまう自分がいた。それはとても魅力的な言葉で――ただ、だからといって義務を投げ出してもいいとも思えない。


 そもそもときめかなくなって終わった人のアドバイスが参考になるとは思えなかった。

 


【3人目:ひたすら非難してくる聖職者見習い・クラウス】


 静まり返った懺悔室に、重く響くリュカの声。

 カーテンの向こうからは、しばしの沈黙──その後、小さく息をのむ音。


「……許せん」


「えっ」


「貴族の婚約とは、家と家の誓約だぞ。それを踏みにじって、他の女性に心を動かすなど──裏切り以外の何物でもない!」


 あの、懺悔ってこちらの告白に傾聴と理解を示してくれるものなんじゃなかったのか?

 カーテン越しにもわかる。それまでの温厚そうな声が一変して怒気を孕んでいる。

 

「ちょ、ちょっと待て。俺はまだ誓約を踏みにじるようなことは何もしていない!」


「その“気持ち”を持った時点で汚れているのだ!」


 どこからが気持ちを持ったといえるのか。俺はそれが知りたかっただけなのに。

 

「恋は……罪なのか?」


「信義に反する恋は罪であり、背徳であり、即ち破滅だ!」


「極論すぎるだろ!!」


 俺の問いかけは、正義の鉄槌によって完全に打ち砕かれた。何か彼のトラウマを刺激したのかもしれない。




 ──その晩。


 ベッドの上で俺は、再び天井を見つめていた。


「俺、誰に相談すればよかったんだろう……」


 心が重い。胃も重い。人間関係も重い。


「やっぱり、専門家に聞くしかない……!」


 最後の砦。

 貴族社会で噂される、秘密厳守のカウンセラーの名が脳裏に浮かぶ。


“マダム・コルネリア”──恋と婚約の女医、とも呼ばれる人物。


 次なる舞台は、彼女のもとだ。


 俺は、恋と不倫の境界線を越える前に、真実の答えを求める覚悟を決めた。


 


「……ノルディエール様、お待ちしておりましたわ」


 カウンセリングルームの扉が開いたとき、そこには、まるで舞踏会から抜け出してきたような婦人が立っていた。


 青紫のドレス。ヴェール付きの帽子。完璧に塗られた紅。

 どこかで嗅いだことのある香水の香りが、部屋の中にふわりと漂っている。


「私が“マダム・コルネリア”。今日はどうなさいました?」


「……あの、事前に確認したんですが。守秘義務って、本当に大丈夫ですよね?」


「ええ。ご相談内容は、決して他言いたしません。……お客様は“仮名”でも結構ですのよ」


「じゃあ……俺は“ユリウス”ってことで」


「まぁ素敵。では、ユリウス様。どうぞ、おかけになって」



「婚約者がいます。でも、その姉に惹かれてしまったんです」


 言葉にした瞬間、胸の中の霧がほんの少し晴れた気がした。


「姉は理知的で落ち着いていて、でも時々見せる優しさが……沁みるんです。いけないとはわかっているんです。けれどももっと彼女の違う顔を見てみたくなる。婚約者である妹は、とても可愛い。彼女は甘え上手で、俺のことも慕ってくれているようで。でも、どこか“演じている”ようにも見えて……俺が見ているのは、本当の彼女なんでしょうか」


「なるほど」


 マダム・コルネリアは紅茶を一口すすると、品よく微笑んだ。


「ではまず、あなたにひとつ問いましょう。“あなたが本当に惹かれているのは、姉君のどこ?” それは、恋? 理想? それとも、逃避?」


「……!」


 刺さる。

 確かに俺は、エミリアを甘やかすことに少し疲れていた。常に自分が正しくあらねば、優しくあらねばというプレッシャー。

 そんなとき、マリア嬢が現れた。言葉少なで、凛としていて、俺の理想像みたいだった。


「でも、それも……本当の彼女じゃないかもしれない」


「正解ですわ。貴族令嬢が“他家の男”に見せる顔が本性だなんて、あなたも思っていないでしょう?」


 俺は黙った。

 マダムはにこやかに笑っていたが、その目だけは鋭かった。


「あなたの心は混乱している。でも、誰かを裏切ってまで貫く“恋”が本物だとは限りませんわよ。自分の本当の想いを確かめること。それが誠実さというものですわ」


 なんだろう。冷静な言葉のはずなのに、俺の心はざわついていた。


「……マダム、ひとつだけ聞いても?」


「なんでしょう?」


「あなた、セリーヌ家と関係、ありませんか?」


「…………」


 沈黙。

 わずかに肩が揺れる。次の瞬間──


「ふふっ……やっぱり鋭いですわね。婚約者様」


 ヴェールが取られる。現れたその素顔に、俺は目を見開いた。


「エミリア……!?」





「もう。リュカ様、ひどいですわよ?」


「な、なんで君が……っ」


「マダム・コルネリアは私の乳母でしたのよ?今日実は私もコルネリアおばさまに聴いてほしいことがあって……そしたら『丁度いいわ、折角だから、“マダム・コルネリア”になって、彼の本音を聞いてごらんなさい』って。ね、思ってもいなかったわ……こんな面白い話が聞けるなんて!」


「守秘義務……」


「あら、他言はしていないでしょう?他言は、ね」


 笑っている。いつもの可憐でフリルに包まれたエミリアじゃない。

 その笑みは──まるで姉のように、大人びたものだった。

 見慣れない鮮やかな唇の紅に目が奪われる。


「うそだろ……そんなキャラだったのか……?」


「ええ、演じてました。リュカ様が“守ってあげたくなる子”が好みだって聞いて。でも、だんだん疲れてきたの。だから、今日からは、素の私でいきます」


「エミリア……」


「そして、聞かせてください。本当に好きなのは、誰なの?」


 ショックと混乱がおさまった後、カウンセリング室──のはずだった場所に響くのは、沈黙と緊張。

 フリルを脱ぎ捨てたエミリアは、まるで別人のようだった。


 いつものおっとりした笑顔の影もなく、背筋は伸び、言葉には芯がある。

 

「リュカ様。私は、あなたの“好みのタイプ”に合わせて、自分を作ってきました」


「……っ」


「けれど、もうやめますね。私も“あなたが守りたい女の子”でいるのに、疲れてしまったのです」


 すとん、と椅子に座ったエミリアの目は、しっかりと俺を見据えていた。もう逃げようがなかった。


「聞かせてください。本当のことを。──私ではなく、姉を好きになったのですか?」


 その問いは鋭く、けれどどこか苦しげだった。


 俺は答えを探すように、無意識に拳を握っていた。


「……マリア嬢を見たとき、圧倒されたんだ。あの落ち着き、威厳、立ち居振る舞い。あれが“理想の伴侶”だと、瞬間的に思ってしまったんだ」


「なるほど」


「でもそれは……きっと、“理想を押しつけられてきた俺”が、反射的に飛びついた幻想だったのかもしれないね」


「幻想?」


「ああ。今思えば、姉上を見たとき、俺は“自分の中の正解”を見てホッとしていた。でもそれは──恋なんだろうか?」


 俺は顔を上げ、まっすぐにエミリアを見た。


「だから君に逃避かと問われたとき、正直言って刺さったよ……俺は、本当のエミィを、知らなかった。いや、知ろうともしなかった。甘えてくる君を“守ってあげる対象”だと思ってた」


「そう、ですね。私も……そうしてました」


 彼女の表情が、すこしだけ崩れる。

 強がりと甘え、その両方が垣間見えた。


「エミィ、君が演じていた“理想の婚約者”も、きっと俺が作ったんだと思う」


「リュカ様」


「俺、今気づいた。“守りたい”って、実はすごく独りよがりな言葉だって」


「──っ」


 エミリアは、ゆっくりと目を伏せた。


「……なら。これから、私の“本当の姿”を知ってくれますか?」


「もちろん。むしろ、知らなきゃダメだと思う」


 ふっと、エミリアの肩から力が抜けた。


「それなら、私もリュカ様の“本当の姿”を見せてもらいますね」


「……それは、少し怖いけど」


「おあいこですわ」


 二人で笑った。少し照れくさかった。





 

 その頃、セリーヌ家──マリアはひとり、自室で静かに紅茶を飲んでいた。


 隣には侍女がいる。


「お嬢様、エミリア様は、ずいぶん本気のご様子で……」


「ふふ。あの子、ようやく“演じる”のをやめたみたいね」


「本当に……よろしいんですか? あの方、マリア様のことを──」


「構わないわ。あれは“弟を見る目”で見ただけ」


「えっ」


「私ね、ノルディエール家の子息が、“ただの甘えん坊”に飽きて揺らいできていたのはわかっていたの。だからちょっと試してみたのよ。姉らしく、近づいてみたの」


「試した……とは?」


「彼の目が、“憧れ”なのか、“愛情”なのか、知りたかったのよ」


 マリアは立ち上がり、静かに窓の外を見つめる。


「……エミリアが、自分で決めて、自分で勝ち取った恋なら、それが一番よ」


 妹の幸せを見守る背中には、凛とした優しさがあった。






 そして、宣言通りにエミリアは変わった。

 

「今日はどこへ行こうか?」

 

「そうですね……気になっている画廊があるので五番街に。リュカ様その辺りに落ち着いたカフェはご存知?」

 

 今までなら「リュカ様にお任せします」と言っていたお出かけの予定も、自分が行きたいところを積極的に伝えてくれるようになった。話し方もよどみなく、明確な意思を伝えるペースへと変わる。それでも、まくしたてるような性急さはなく、耳に心地よいリズムを保っている。

 

「ああ、じゃあエルミダードはどうだろうか?」


「ふふ、楽しみです」

 

 馬車の中でお互いの近況を伝え合う。これまでワントーン高かった甘ったるい声に、芯が通ったような落ち着きが加わっている。それでも、可愛らしい響きは失われていない。時には、はっとするほど率直な言葉が飛び出すこともあった。

 華やかな外見はそのままだが、すっと糸で引かれたように伸びた背中。常に伏せられていた長いまつげは持ち上がり、その奥からまっすぐな視線が向けられる。以前のような不安げな揺らぎはなく、そこには確かな意思が宿っていた。

 正直、心地よい。

 ああ、今まで俺はこんなエミィの姿を見そびれていたのか、と苦笑した。


 出かける前にふっと視界の端に彼女の姿が見えたのを思い出す。


 マリア嬢。


 庭園に佇むその姿は、相変わらず静かで凛としていた。


 ああ、やっぱり綺麗だな、と思ってしまう。


 けれどその視線には、どこか“もう届かない場所”のような遠さがあった。


 


 静かな午後。

 セリーヌ家の庭園に、鳥のさえずりと、ジョウロの水音だけが響いていた。


 マリア・セリーヌは、一本一本、花の名前を心の中で唱えながら、丹念に水をやっていた。


 すべては、静かで、穏やかで、誰からも注目されない時間。

 けれどそれが、マリアにとっていちばん大切な“ひととき”だった。


(あの子、変わったわね……)


 十歳頃まで、妹・エミリアは「マリィ姉様みたいになりたい」と言っては、マリアの真似をしていた。


 だが、それは本心ではなかったのだろう。


(きっと、私に“なりたくない”と思っていたはず)


 自分を抑えて、家を継ぐために、完璧であろうとし続けたマリア。

 誰からも称賛されるが、誰にも甘えることはなかった。


 だからこそ、妹があえて“甘えん坊”という仮面を選んだ理由が、痛いほどわかる。


(あの子がリュカ様を好きになったのは、きっと──“自分を好きになってくれる相手”を探していたから)


 だから、マリアは黙っていた。

 リュカの目が自分に向いていると気づいても。

 もし妹が選ばれなくても、何も言わないつもりだった。


 ……でも。


(あの子は自分で動いた。仮面を捨てて、勝負に出た)


 それなら、もう自分の出番はない。


 マリアはジョウロを置き、日陰に腰掛けた。


「……きっと、私は恋をするような性格じゃないのね」


 ぽつりと、独り言。


 それでも、なぜか心は苦しくなかった。むしろ、すっきりしていた。


 そして今も、誰にも頼らない自分が残っている。


(でも──もしかしたら)


 今、エミリアがリュカと向き合ってくれたことで、

 自分の心も、少しだけ自由になった気がする。




 

 リュカは学院の図書室でひとり考えていた。


「本当の気持ちって、どうやって伝えたらいいんだろうな……」


 もう、相談はしない。

 誰かに頼って答えをもらっても、自分の恋にはならない。


(ちゃんと、俺から言おう。エミリアに──)


 そう思ったとき、ドアの向こうからふわりと甘い香りがした。


 エミリアだった。


「……リュカ様?」


「っ!」


「少し、お時間ありますか?」


 夕暮れ時の図書室は、人影もなく静かだった。

 窓から差し込む金色の光が、埃の粒を照らしている。


 リュカは、椅子に座ったまま、立ち尽くすエミリアを見つめていた。


「……話したいことがあるのは、俺のほうなんだ」


「……そうですか。なら、聞かせてください」


 彼女の声は穏やかだが、指先がほんの少しだけ震えているのが見えた。


「エミリア。……俺、君のこと、正直に言うとよくわかってなかったんだ」


「ええ。それは、私もです」


「いつも甘えてくれて、可愛い婚約者だって思ってた。けど──どこかで、それを“演技”だって薄々気づいてた」


「……それでも、気づかないふりをしたのですね?」


「ああ。俺の理想通りの婚約者でいてくれたから。自分が安心できる物語の中にいたかったんだと思う」


 エミリアがゆっくりと頷く。


「でも、最近の君は……違った。まっすぐで、自信があって、時々ちょっと空回りしてて、でも全部本気だった」


「それは──本当の私です」


「だから、もう嘘はつかない。俺は……そんな君が、好きだ」


 それは、リュカにとって人生で初めての、誰の理想にも従わない告白だった。


 しばらく、沈黙が流れた。

 エミリアは何も言わず、ただ、手を胸元で組んでいた。


「私、ずっと、怖かったんです」


「怖い?」


「“私らしいと、愛されない”って。リュカ様が好きになったのは、優しくておっとりしていて、守られたがる女の子だって、思っていたから。でも、それもたぶん私が勝手に思い込んでいたところもあって……私も、あなたが本当に望んでいることに気づいていなかったのかも」


「……でも、俺が本当に好きになったのは、“本気でぶつかってくるエミリア”だった」


「……っ」


 エミリアの目が潤む。

 けれどそれは、弱さではなく、決意の涙だった。


「リュカ様。演技だって気づいてくださって、ありがとうございます。……これからは、“演じる”のではなく、“選ぶ”私でいたいです」


「うん。それがいい」


「なので、選ばせてください。あなたの隣に、“対等な私”として──いてもいいですか?」


「……当然だろ」


 二人は、顔を見合わせて、はにかんだように笑った。

 夕日に染まるエミリアの髪に指を絡め、その髪にそっと口づけた。髪よりも赤く染まる頬が綺麗だった。



 数日後。


 セリーヌ家とノルディエール家の正式な会合にて、両家は婚約継続を承認。

 だが条件が一つだけつけられた。


「お互いに、半年間“本気の付き合い”を経てから結婚を決めること」


 それは、マリアの提案だった。


「“演技”や“義務”じゃなく、自分で選んだ恋でなければ、家も幸せにならないのだから」


 マリアの言葉に、リュカもエミリアも深く頷いた。




 

◆エピローグ:リュカのひとりごと

 学院の中庭。


 リュカは、ベンチに座って昼のパンをかじっていた。


(エミリアは今、学園誌の恋愛特集記事に出張中。すごく張り切ってたな……)


 なんでも特集記事のサブタイトルは『実録、猫を被るのをやめたら溺愛が待っていました』だとか。


 猫を脱いだエミリアは、いまや学院の話題の中心だった。そんなエミリアに興味を向ける男子生徒もいて、時々やきもきさせられる。


 

 けれど、二人きりになると、たまにやっぱりちょっとだけ甘えてくる。


 そのバランスが、たまらなく愛おしい。


(……でも、あれだな)


 今まで知らなかった彼女のいろいろな面を見せてくれるようになったが、その一つが──


「彼女、めちゃくちゃ強火の恋愛脳だったんだな……!?」


 両手いっぱいに手作りのマカロンを持って走ってくるエミリアを見て、リュカは苦笑する。


「リュカ様! 今日は“恋人記念日”ですわよ!!」


「え、──うわっ、待ってマカロン何個あるの!?」


「36個ですわ!」


「怖ッ!」


 けれど、そんな日々が、嬉しかった。

 明日も、これからも。きっと彼女に驚かされるのだろう。


 

 

 

 

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