くろがねのジュノ
昔々大きなお屋敷にジュノという、それはそれはおてんばな娘がいました。
お屋敷のそばにある大きな森を馬に乗って駆け抜け、銃を片手に猟にくりだすような困った娘でした。
おじいさんは孫娘と一緒に狩りができることをとても喜びましたけれども、お父さんはいい顔をしません。ジュノが十歳になったある日、身体をぎゅうぎゅうとコルセットで締め上げて自由に動けなくしてしまいました。
「淑女たるもの、しとやかでなくてはいけない」
狩りには当然出られませんし、馬に乗ることもできません。いつでも背筋をぴんと伸ばしていなくてはコルセットが食い込んで痛いのです。
いつしかジュノは自分からほとんど口をきかなくなりました。話をしようとしてもうめくような声になってしまって「なんという醜い声だ!」とお父さんに叱られるからです。
不憫に思ったおじいさんは自分が雇っていた道化師の中でジュノに一番歳の近いリュカという少年を呼んで、孫娘のそばに置くことにしました。
ジュノは道化の少年が慣れない手つきでお手玉をしたり、額の上にパラソルを乗せたりするのを首だけ傾げて見ています。身を乗り出して両手を叩くとお腹の皮がコルセットにはさまってとても痛いのです。
緊張した少年の取り落としたボールがてんてんと足元へ転がってくるのをジュノが黙って拾うと、少年は「申し訳ありません、お嬢様」と泣きそうな顔で言いました。そうしてジュノが黙って首を横に振ると、すっかりうなだれてしまいました。
メイドたちが「お嬢様も何か声をかけてあげればいいのに。だからリュカは緊張してお嬢様の前で失敗するんだわ」とひそひそ話をしているのを知っていましたが、ジュノは醜いと言われる自分の声を誰にも聞かれたくなかったのです。
あるとき、森で狩りがありました。
ジュノはおじいさんや雇われた村の男たちが獲物を追うのを退屈そうにながめています。
本当は自分が狩りに出られないことが悔しくてたまらないのですけれど、そんなことを言えばたちまちお父さんに叱られてしまいますから、わざと退屈そうな顔をしているのです。
心配した道化の少年がかわいらしい声で話しかけてくれました。
「ガサガサ揺れる茂みから飛び出したのはパン屋の飼い犬だったそうです。
『ちっ、なんてことだ! 獲物だと思ったのに!』
おやじさんが銃を下げた途端、犬の脇をすり抜けて狐が逃げていったのですって」
狩りの様子を伝える少年の声が笑ったり怒ったりしょぼくれたりするたびに、ジュノはうらやましいと思いました。
ジュノはコルセットでぐるぐる巻きにされていますから、笑ったり怒ったりしょぼくれたりする前にお腹の皮が痛くなってしまうのです。
道化の少年は笑わないジュノを見てさらに表情を曇らせ、お花を持ってきたりお菓子を持ってきたりしましたが、ジュノはやさしくされるたびに自分がみじめに思えてなりませんでした。
そうこうするうちに日が暮れて、ジュノのおじいさんがイノシシを捕まえて帰ってきました。
たき火に照らされたおじいさんの顔はとても誇らしげで、村人たちもオレンジ色の光に包まれて楽しそうに笑っています。
村人たちに乞われて道化の少年が手風琴を弾きはじめると、ジュノはとても腹が立ちました。
どうして自分は狩りに出られないのでしょう。自分ならおじいさんの捕まえたイノシシよりももっと大きな獲物を仕留められたかもしれません。どうしてあの少年のように笑ったりしょぼくれたり、自由に動くことができないのでしょう。ずっとジュノのことを気にかけてくれていた道化の少年も音楽に合わせて身体を揺らしていて、ここにいる人たちの中で楽しくないのは自分だけなのです。
厨房で料理を作っていた女たちも加わって踊りがはじまると、ジュノは鼻息も荒く椅子から立ち上がりました。
そうしてコルセットをこっそりゆるめて、村の女たちに踊りを教わりました。
その夜、ジュノはお腹を抱えて笑いました。
ふしぎなことですが、月とたき火と大きなイノシシと、手風琴の音が楽しくてたまらなかったのです。
そうしてこんな日が毎日続けばいいのにと思いました。
次の日、道化の少年が遠慮がちに目を伏せながら言いました。
「お嬢様、よろしかったら手風琴を聞いていただけませんか」
ジュノがうなずくと少年の顔がぱっと輝いて、にこにこしながら蛇腹を引き伸ばします。少年が弾いたのは昨日の宴で踊った曲でした。
少年の指が手風琴の鍵盤を駆けまわるたび、椅子に座ったままのジュノの足がとんとんとステップを踏みます。昨日何度もくりかえし踊ったものですから癖になってしまったのかもしれません。
道化の少年はそれはそれはうれしそうに笑います。ジュノは立ち上がって、少年が何度も同じ曲を弾くのに合わせて踊りました。足が痛くなるのもお構いなしにブーツの踵を鳴らします。
そうして廊下に聞こえるほど大きな声で笑いました。月もたき火も大きなイノシシもありませんでしたが、なんだか楽しくて仕方がなかったのです。
ある日、ジュノのお父さんにお客さんがやって来ました。
ジュノはいつものようにつまらない顔でご飯を食べています。お父さんとお客さんはお酒を飲んで上機嫌でしたが、ジュノはお酒の席が特別に嫌いだったので、誰にも気付かれないように鼻から何度もため息をつきました。
いつものようにお父さんが「これは愛想も面白みもない娘で」と言いますが、ジュノが余計な口をきけばお客さんが帰った後で怒られるのに違いないのです。
うつむくジュノの様子を見ていた道化の少年は心配そうな顔をすると、手風琴であの曲を弾きはじめました。
少年が蛇腹を引きのばして小刻みに風を送ると、軽やかな音が続きます。
ジュノは自分の気持ちをわかってくれる人がいたことがうれしくて微笑みました。布の靴に包まれた足がテーブルクロスに隠れてとんとんと小さくステップを踏みます。それに気付いた少年がこっそり笑ったのを見て、ジュノは意を決して、椅子から立ち上がって踊りはじめました。ジュノは少年にもっと笑って欲しかったのです。
「下々の踊りなど、なんとはしたない!」
お父さんが真っ赤な顔をして葡萄まで投げて怒るものですから、ジュノは怖くて身が縮こまってしまいました。一度怒りだしたお父さんを止めることは誰にもできません。
お父さんが手風琴を弾いてくれたあの少年をクビにしてしまうことも、止めることはできませんでした。
ジュノは一人、部屋でわんわんと泣きました。
涙は枯れることなくどんどん溢れてしゃっくりも声も大きくなります。コルセットが食い込んでお腹の皮が真っ赤になっても涙は止まりません。
夜半すぎに遠くから風に乗って聞こえてきた音にジュノははっと顔を上げました。
バルコニーに出て音の聞こえる方角に耳を澄ませます。
とぎれとぎれに聞こえる音は、確かにあの少年が弾いてくれたメロディでした。
壁にかかっていたランプを手にジュノは踊ります。
そうしてあの少年に会いたいと、心の底から思いました。
地平線がほのかに白くなってお日様がのぼることを知らせます。
ランプの灯りが昼の光に飲み込まれて届かなくなってしまったら、きっと手風琴の音は止んでしまうでしょう。
いてもたってもいられなくなって、ジュノはコルセットをはずしました。
もう泣いてなどいられません。ドレープの美しいカーテンを引き裂いて結び、バルコニーから垂らします。
カーテンをつかみながらバルコニーの手すりを乗り越えると、ぎゅうと両手が痛くなりました。コルセットで締め上げられる前は軽々と動けたのに、今ではもう自分の体重を支えるだけで精一杯なのです。
やっとのことで地面に下りたったジュノの両手は真っ赤に腫れあがっていましたが、こんなことであきらめるわけにはいきません。
馬で森を抜ければ歩いて屋敷を出た少年にあっという間に追いつけるはずですが、厩舎に行けば誰かに見つかってしまいます。ジュノはくじけそうになる自分の頬を一発叩いて、森に足を踏み入れました。
森はまだ暗く、虫や蛙の鳴く声が聞こえました。ジュノはお月様とお星様を調べて方角を確かめると気が急くのに任せてぐいぐいと前に足を押し出して進みました。
枝をかきわけ、横倒しになった木を乗り越えて進むたび、手の中で光量をしぼったランタンが揺れます。
長く伸びたツタがジュノの頬を打ちます。足の皮がずきずきと痛んで腫れあがります。木の根につまづいてランタンのガラスが割れても、やわらかな布の靴に穴が開いて靴底がべろんとはがれて親指が突き出しても、石につまづいて爪がはがれても、ジュノは歩くことをやめませんでした。
聞こえてくる手風琴の音が少しずつ大きくなっているような気がしたからです。
足がもつれて転んだとき、ジュノはとうとう朝がやってきたことに気付きました。
木の葉の隙間から差しこむ光は白く、すぐに夜は明けてしまうでしょう。手風琴の音も、もう聞こえません。
ジュノは破れた足の皮にこわごわ触れました。傷は熱を帯びていますが、ジュノにはそれさえわかりません。地面に両手をついて立ち上がろうとしますが、その力も入らないのです。
地面に頬をつけていたジュノは、お屋敷の方角から馬が駆けてくる音を聞きました。
ジュノはまぶたを閉じて、森に入ってからはじめて涙をこぼしました。