表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
九尾の狐の娘  作者: 冬戸 華
3/7

第3話  出会い

 上皇になった宗仁は、激変する政策に追われる毎日を過ごしていた。

 白河院の崩御の後に譲位した近衛天皇はまだ幼い。実質ただの傀儡である天皇の実権を我が一族にと虎視眈々と狙う外戚の存在は、いつの時代も政治を混乱させる。一筋縄ではいかない。

 

 毎日の政務に疲れていた宗仁は、今夜も一人御所を抜け出して気分転換を図っていた。


 最近は閨事も全く行わず、得子や側近に不審がられる事も多かった。特に近衛天皇はまだ幼い。何かあれば得子の立場も脆くなるだろう。

 得子には近衛天皇以外には内親王しか生まれておらず、もう一人男児をと望んでいる事は知っていた。


 が、宗仁にとってそんな事はどうでも良かった。とにかく御所から離れたく、今夜もひっそりと馬に乗り御所を抜け出た。


 いつも向かう川よりさらに北へ来てみた宗仁は、そこに池がある事を初めて知った。広い池だ。馬の手綱を木に繋ぎ、不気味なほど静まり返った池のほとりを歩いてみる。


 よく見ると蓮の花が咲き、月明りでも分かるほど綺麗な池だ。ここは落ち着くな…。と、歩をゆっくり進めて行くと、パシャっと水の跳ね返るような音が聞こえた。

(何だ?魚か…)

 

 護衛は付けていない。腰の刀に手を添え、月明りを頼りに池の様子を伺う。すると、少し離れた先の水際に、一人の女性が水で何かをしているのが見えた。

(こんな人里離れた山の池に女が一人で?)

 

 不審に思った宗仁は、足音を立てないようそっと近づいていった。何者だろう…。よく見える所までゆっくり近づくと、それは若い女だった。

 そして、どうやら水を弾いては遊んでいるように見えた。池に用事があって仕事をしている風でもなく、ただ無邪気に水を掻きまわして遊んでいるようだった。

 

 こんな夜中に一人で水遊びをする女なぞ不審極まりない。


 が、宗仁は大きく興味をそそられた。さらにそっと近づく。月明りでもその顔がはっきりと分かる所まで近づいた時、女はこちらに気が付いた。

「何者!」

 

 女は驚いて手を止めこちらを見たが、不意に動いた為かバランスを崩して池に座り込んでしまった。宗仁は慌てて女に近づき手を差し伸べた。


「驚かせてすまない。怪しい者ではない。危害は加えるつもりはないゆえ、許してほしい。」

 しかし女は座り込んだまま固まっている。何も言わない。宗仁は

「本当にすまない。」

 と頭を下げ、女の手を引っ張り、池から立たせた。女の着物の半身から水がしたたり落ちる。


 立ち上がった女の顔を見て、今度は宗仁が驚いた。都のどこを探しても見つからない程の美貌の持ち主だ。

 一瞬にして宗仁は心を鷲掴みにされた。女は尚も黙っている。


「着物が濡れてしまったな。家まで送り届けよう。」

「結構です。」

 初めて女が声を発した。それはまるで鈴の音を鳴らしたかのような響きの美しい声色だった。


「名を何と申す。」

 宗仁が尋ねるが、女は手を振り解くと林の奥へと走り消えてしまった。一瞬の出来事だった。だが、女の顔は鮮烈に宗仁の心に焼き付いた。

(今のは何者だったんだ…。)


 まるで妖か何かに化かされたのかと思う程、不思議な感覚に捉われた。


 翌朝、寝所で目が覚めると、宗仁は昨夜の不思議な女の事を思い出した。夜中に池で遊び、暗い林の中へ一人で逃げ込んだ女…。

 亡霊か何かかとも思ったが、あの力の宿った美しい目は間違いなく生者の物だ。そして大層な美女でもあった。


 身なりも悪くなかった。高貴な身分ではなさそうだが、良家の子女が好みそうな仕立ての良い着物を着ていた。

 そんな女が護衛の一人もつけずなぜ…。もしかして身投げでもしようとしていたのか。いや、あれはむしろ水遊びを楽しんでいるように見えたが…。


 宗仁はどうしても気になった。朝議に入っても頭から昨夜の女が離れない。一日中ボーっとしていたのか、侍医に体調を尋ねられてしまった。

「いや、大事ない。少しばかり心配事があっただけだ。」

 と、薬湯を勧めてくる侍医を断り、宗仁は夕刻の鐘の音を待った。

 まだ御所を抜けるには明るい時刻だったが、護衛には少し堀を見てくるだけだと話し、ついて来ようとするのを振り切って出た。

 皇族は一人になるのも自由ではないな…。そう自嘲しながら、昨夜の池まで馬を走らせた。


 万姫はかなり驚いた。妖怪である自分に怖い物なぞ一つもないが、気配を感じさせる事なく近づいて来た男にはかなり驚いた。

 

 あれも妖か何かなのか。それとも巫術氏が日本にもいるのか。いや、似たような者はいるだろう。

 しかし彼は妖でも巫術氏でもないように見えた。きっと高貴な身分の男だろう。金銀の刺繍が美しい着物を幾重にも纏い、立派な剣を腰に佩いていた。


 そして万姫が驚いたのは、彼が大層眉目秀麗であった事だ。いや、ただ眉目秀麗な男だけなら、万姫はごまんと見てきている。要するに美男子なぞ見慣れている。この自分が男を虜にすることはあっても、その逆はない。

 

 が、万姫は今まで感じた事のない、言いようのない感覚で胸を圧迫されていた。不快ではない。が、愉快でもない。不安に似ているがそうでもない。母の教えと経験からは、これが何の感情か理解ができなかった。ただ、何となく体が軽い。


 万姫はまた池で心休める事にした。昨夜は驚きのあまり寝つきが悪かったので、今夜はここで心鎮めてから床に入ろう、そう思って池のほとりまで来た時だった。


 馬の走る音と共に、昨夜来た男が池までやってきた。慌てて逃げようとする万姫に向かって男は叫んだ。

「待ってくれないか!少し話をしたい。」

 万姫は迷った。こちらは話したい事なぞ微塵もない。さっさと捨て置けば良い。が、なぜか足が止まる。どうする…。迷う内に、あっという間に馬は万姫の所まで来てしまった。


「何か御用でしょうか。」

 馬を降りてこちらへ歩み寄る男に冷たく言い放つ。

「いや、今日は少しばかり面白い物を持って来たんだ。」

 そう言うと男は、持参した荷物から紙と木製の何かと蠟燭を取り出した。

「灯篭を持ってきたんだが、そなたは灯篭流しを知っているか。」

 

 もちろん知っている。似たような風習は中国でもあった。おそらく他国でもあろう。願い事を書いて川に流す習慣だ。


「知ってはいます。やった事はありませんが。」

「灯篭流しをやった事がないのか?」

 男は聞いておいて不思議そうな顔をする。

「特に願う事はありませんでしたので。」

「はは、無欲な奴だな。」

 男は快活に笑うと、灯篭をいくつか組み立て蝋燭に火を灯し、池へと流し入れた。


 蓮の花の間を、わずかな波に誘われ揺蕩うように灯篭が揺らめき、淡い光を放ちながら池の中へと進んでいく。池の中が灯篭に照らされ、蓮の花が一層美しく輝く。いかにも綺麗な光景に、想像以上に万姫は魅入られた。思えばこうして母と遊ぶ事はなかったな…。


「どうだ、気に入ったか?」

 男が問うと、万姫は灯篭から目を離さず

「はい…。」

 とだけ答えた。二人は並んで池のほとりに腰かけた。しばらく無言で淡い光の数を眺めていたが、ふと思い出したように男は聞いた。

「そなた、名を何と申す。」


 万姫は名乗ろうとして迷った。名乗ればいつかは妲己の娘と分かってしまうかも知れない。いや、知られたところでまた地方へ逃げるだけの事だが、逃げ続けるだけの人生にも疲れていた。ここを終の棲家にしたいと思っていた…。


「玉藻と申します。」

 池の隅に固まった藻を見て、咄嗟に偽名を答えていた。

「玉藻か。良い名だ。私は宗仁だ。」

 宗仁は穏やかな笑みを浮かべて名乗った。

(宗仁…。)

 万姫はじっと宗仁を見た。何か心がざわめく…。


「玉藻は一人でここに住んでいるのか?」

 近くの民家を見て、宗仁は尋ねた。

「はい。両親は他界しており兄弟もおりませんので。」

「そうか。しかしそなたのような美しい面立ちなら、嫁にと言ってくれる男もおるであろうに。」

「嫁…。」


 万姫は何回も嫁いでいる。いまさらだ。


「ひとりで居たかったのです。たったひとりが良いのです。」

「それはあまりにも寂しくないか?なぜ一人が良いのだ。」

 万姫はそれには答えなかった。母ほど悪事は重ねなかったが、妖術を使い何人もの男を篭絡してきた。多くの寵愛を受けてきた。

 そして、なぜか疲れ果ててしまった。そんな事を宗仁に話せるはずもない。。


「いや、無理に答えなくて良い。辛い事でもあったのかもしれんな。」

 宗仁は笑ってそれ以上は何も聞かなかった。優しい男だと万姫は思った。


 ひとしきり灯篭の光を堪能すると、宗仁は立ち上がった。

「あまり長く家を空けられないものでな。また明日も来る。」

「結構です。」

 万姫は冷たく断ったが、宗仁はただ笑ってその場を去って行った。万姫は宗仁が見えなくなるまでその姿を目で追っていた。


 そして翌日。案の定、断ったのに宗仁はまた万姫の元へやってきた。

「今日は旨い物を持ってきたぞ。」

 贅沢の限りを尽くしてきた万姫には、この世に食べた事のない御馳走などないと思っていた。が、意外にも彼が懐から出した物は、干した芋であった。

「はは。干し芋だ。これは私が自ら栽培した芋で作ったのだ。あまり旨くないかもしれんがな。」

 宗仁は笑って芋の入った袋を一つ、万姫に手渡した。訝しみながら齧ってみる。筋があって少し硬いが、かみ砕くと何ともいえない優しい甘さが口に広がる。思わず万姫は

「これは美味しいですね。」

 と、邪気のない笑顔で宗仁に答えていた。そんな笑顔をするのかと宗仁は少し意外だった。


 その日は他愛もないお喋りを何となく続けた。今日読んだ本、通りすがった芸人、蓮の実が食卓にあがった事…。ほとんど宗仁が話し万姫は聞いているだけだったが、それでも楽しかった。穏やかな時間がゆっくり流れていく。


 今までのように万姫が機知に富んだ話で相手を楽しませる事はなかった。舞踊を頼まれる事もなかった。宗仁は何一つ万姫に求めてはこなかった。


 万姫は何か温かいものが心に沸いてくるのを徐々に実感していくのだった。


 その夜、万姫は寝床で考えた。この感覚は何だろう…。今まで母が教えてくれた幸せの類とも、今一人で平穏に暮す幸せともどちらにも当てはまらない類の世界。


 危険だ。これ以上足を踏み入れてはいけない。


 宗仁はまた必ずここへやって来るだろう。深入りする前に、何としても彼を遠ざけねばならない。万姫はそう思った。


 やはり翌日も、夕刻過ぎになって宗仁は現れた。馬を降りて笑顔で近づいて来る彼に、いきなり万姫は一言、

「もう、ここへは来ないでください。」

 と、強く言い放った。突然の言葉に面食らった様子の宗仁は、だが歩みを止めず万姫の元まで近づいて来た。

「どうした、玉藻よ。何かあったのか。」

「何もありません。ただ、私は一人ここで過ごしたいだけです。」

「それは本心ではなかろう。たまに一人になりたい時はあるものだが、ずっと一人でいる事は女子にとっては寂しいものではないのか。」


 そう言って宗仁は、池のほとりに腰かけた。万姫は迷った。簡単に帰りそうもないこの男に、本当の事を話そうと思った。それで追われる事になれば、また逃げればいい。


「私は妖です。人間ではないのです。妖怪と人は交われません。ですので、切りたくば今ここで私を切り捨て下さいませ。」

 宗仁は驚いて目を見張ったが、すぐに元の表情に戻った。

「切り捨てる?今、私の目の前にいる女は妖気を感じさせない。人間にしかみえないが?」

「私は人間に化ける事のできる妖怪です。」


 万姫は、宗仁が自分は妖怪だと知ると、おののいて逃げるか切り付けるかと思っていたので、予想外の反応に戸惑った。


「では、今私の前にいるそなたは妖術を使って女人になっているのか?」

 万姫は返答に困った。今の万姫は妖術を封印して化けてなどいない。本来の姿のまま素をさらけ出してここで生活していた。

 むしろ九尾の狐に変化する時に妖術が必要だった。


「いや…。」

 万姫が返事に窮していると、宗仁はまた穏やかに笑って言った。

「都にはいくらでも妖怪の類はおる。悪事を働く妖怪の退治の為に、陰陽師という者を抱えておる。私も幾度となくその妖怪をこの目で見てきた。が、そなたは少し違うようだ。」


 万姫は黙ったまま聞いた。


「妖に騙されて穏やかに時をすごせるのなら、それもまた一興だ。」

 笑いながら、宗仁はごろりと横になった。この男は何を言う。自分は妖怪と対峙しているというのに…。


「私は三百年前、中国の殷王朝の時代に生まれました。母は九尾の狐の妲己です。そして私もまた母の血を受け継いで、九尾の狐になる事ができます。

 妲己が傾国の女であった事はご存じでしょう。私もまた、母の教えの通り数多の男を篭絡しては寵愛を受け、逃げ出してはまた男を篭絡する生活を送ってきました。

 私の本当の名前は万姫といいます。

 ここまで話せば、私がどれほど恐ろしい女か想像に難くないでしょう。」

「では、そなたは私に何か悪事を働こうとしておるのか?それとも私を篭絡しようとしておるのか?どちらかといえば、跳ねつけられているように感じるが?」

「今はなくともこれからは分からないではないですか。」

「その時はその時だ。その場で考えれば良い。それに、今そなたが話した事は、全て自身が辛いと感じておる出来事だったのではないのか?」


 万姫はまた黙った。辛い…?その通りだ。万姫は辛かったのだ。


 母の呪縛から逃れられず、心の自由を奪われ、逃げるように生活する事に疲れ、普通の人間に憧れていたのだ。今はっきりと、その事を自覚した。

 

 涙が自然と頬を伝っていた。万姫は初めて心から泣いた。纏わりついていた糸が少しほどける感覚がした…。


 それからも二人の逢瀬は続いた。政務に忙しい彼は毎日訪れてくる事はなかったが、それでも時間さえ許せば万姫の元へとやって来た。

 

 宗仁は万姫が妖怪だと知っても態度が変わる事なく、万姫の事を偽名で呼ぶのではなく、偽る必要はないと本名で呼んでくれた。


 いつも他愛のない話を聞かせては万姫を楽しませてくれる。万姫はただ、宗仁の側にいるだけで心安らいだ。何も求めてこない彼の側で話す事やする事をまったりと見聞きし、時に大笑いし、極普通の人間の女と変わらない生活を送るようになっていた。


 時に宗仁は万姫を昼間の市場へ連れ出してくれる事もあった。市場にはこれまで色んな物を食してきた万姫でさえ、初めて見る食材が多くあった。

 宗仁に差し出された焼き鳥や麩菓子など、初めて食べる味に満面の笑顔を浮かべて頬張る万姫を見ていて、宗仁もまた宮中では感じた事のない幸せに浸っていた。宗仁は万姫に心を寄せ始めていた。


(これが人間の言う普通の幸せなのか…。)

 この頃には、万姫は宗仁を深く慕うようになっている自分に気が付いていた。気が付いていたからこそ、深入りしてはいけないと思った。

 いくら恋い慕っても、自分は妖怪であるという事実からは逃れられない。人間と妖怪は相容れない。いつかは彼から離れなければ…。

 

 そう思っていたが、万姫はある事に気が付いていた。そして、それが理由でなかなか彼の元を去れないでいた。


(この人はこの先、心の臓を病む…。)


 医学にも精通している万姫である。いまは質実剛健で快活そのものの宗仁だったが、妖怪である万姫には先が見通せた。そしてそれが、今の日本の医学では治らない病である事も、万姫の妖術で治せるものでもない事も…。

 

 何百年と生きる万姫は東洋の医学のみならず西洋や南方の医学にも精通していた。

(できればその病を治して差し上げたい…。)

 そんな思いが、万姫の足を止めていた。


 そして万姫は裏庭で植物の栽培を始めた。それは日本で重用される薬草の他、貿易で仕入れた中国や西洋の薬草も混じっていた。来たるべき時に備えて…。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] >毎日の政務に疲れてい宗仁は、 疲れていた or 疲れている、でしょうか?
2024/08/14 18:54 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ