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九尾の狐の娘  作者: 冬戸 華
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第2話  日本

 時は平安時代。第七十四代天皇の鳥羽天皇こと宗仁(むねひと)が治める治世は、大きな戦乱もなく平らかに治められていた。


 十六歳の時に向かえた中宮・藤原璋子(ふじわらしょうし)との間には、次期天皇の候補と期待される長男で後の崇徳(すいとく)天皇こと新院のほか、四人の親王と他に二人の内親王をもうけており、将来は盤石かに思えた。


 しかし、璋子には秘密があった。


 もともと璋子の実父は藤原公実で実母は藤原光子であった。が、七歳の時に実父を失ってから、時の治天の君である白河法皇とその寵姫の祇園女御の養女として育てられていた。


 そして養父である白川法皇とは、密やかに男女の関係を持っていたのだった。


 現在の天皇は宗仁であったが、実権はほぼ白河院が握っていた。

 宗仁は、璋子のよからぬ噂を入内前から知っていたが、白河院の権力によって、璋子は白河院を実父として入内してきたのだった。


 皇族の世界にも恋愛の自由はない。あるのは政略結婚でいらぬ戦乱を避ける事と、世継ぎをもうけるという仕事だ。

 しかし宗仁の内心は複雑であった。璋子がこうして中宮として権威を保っていられるのは、あらぬ関係性のある白河院の権力の後ろ盾のおかげ以外の何の物でもない。


 そして新院が五歳の時に崇徳天皇として、宗仁は譲位することになり上皇となった。祟徳天皇の後ろ盾である白河法皇はほぼ全ての実権を掌握し、白河院政は衰える事なくさらに本格化していった。まだ宗仁が二十二歳の時だった。


 宗仁は孤独だった。多くの側近や妻子が周りにいるが、宗仁の心は常に虚しかった。あまりに複雑な人間関係を伴う政治に、精神をすり減らしているせいなのかも知れない。信頼する側近も多いが、それでも気は緩められない。いつ寝首を掻かれるかも分からない。誰も深く信用してはならない。そして、愛情というものが何であるのかさえ分からない。

 

 皇族とはかくも孤独であるものか…。


宗仁は気分のすぐれない時には御所をこっそり抜け出し、馬に乗り池や川へ散策に出て、気を取り直しては御所に戻る生活を繰り返していた。

 

 しかし運は宗仁を見放さなかった。間もなく白河院が崩御したのだ。一気に宗仁は動き出す。

後ろ盾を失った崇徳天皇を排除し、後に入内してきた藤原得子所生の近衛天皇をわずか三歳で即位させた。その後、白河院と共に実権を握っていた側近たちを排除し、得子を皇后に昇格させ、新たな鳥羽院政を築く為に奔走した。



 一方、万姫は船に乗って中国を脱出し、政治が大きく変動するさなかの日本に着いた。

 

 逃れてきた万姫は、母に教えられた通りに裕福な男を篭絡してはその愛妾となり、飽きればその男を捨て、さらに富と権力を持つ男を篭絡し愛妾になる生活を繰り返していた。


 母の血を受け継いで九尾の狐である万姫もまた、生まれながらの美貌に加えて博識家で、機知に富んだ会話と優美な舞踏で男たちを飽きさせる事はなかった。男たちは万姫をたいそう愛でて、正妻をないがしろにしてまで万姫に尽くしてくれた。

 

 どこへ行っても寵愛される万姫は幸せなはずだった。母の教えの通りにしていれば、誰もが万姫の望みを叶えてくれる。大切に扱ってくれる。そんな男たちに、万姫は常に美しく優しく微笑みかけていた。端から見えぬよう自分の左腕を強くつねりながら…。


 幸せなはずだ。心中では何度も自分に言い聞かせた。だが、この頃には万姫は自分の内にある心の脆さと虚しさに少しずつ気が付き始めていた。


 しかしその心情を悟られる訳にはいかない。常に強く気高く振舞い男たちを虜にしていく。相手の様子を伺っては、その場に応じて興味深い話題を提供し、周りを笑顔にしていく。求めに応じて優雅な舞踏を披露しては男達を喜ばせる。

 それが万姫の身に染みた母の教えだ。万姫には、絡みついた糸を切り解く術が分からなかった。

 

 だが、万事うまくいっているはずの万姫には問題があった。いつも篭絡した男の元を去る時には決まってある事が起こる。

 万姫は夜伽ができなかった。知らない訳ではない。求めに応じて何度も閨に向かうが、いざ男が万姫の体に触れようとすると、激しい嫌悪感に襲われ衝動的に閨を飛び出してしまうのだ。そして妖術を使いそのまま行方をくらましてしまう。

 

 自分でも何故だか分からなかった。今まで母の教えの通り過ごしてきた。そして全て上手く行きかけているのに、自ら逃げ出してしまう。


 なぜだろう…。多くの男たちに愛されているのに、それに比例するかのように万姫は孤独を増していった。

 

 万姫は最後の男の家を飛び出した後、市井をさまよっていた。妖術を使い、ある時は野良犬に、ある時は一般的な男に変化し、何日も何日もさまよい歩き続けた。そして気が付くとそこは京の御所の付近のようだった。

(人が多いな…。)

 

 御所付近の市場は活気づいており、大層賑やかだった。が、万姫にとってはその華やかささえ、耳障りな物になっていた。

 

 そのままふらふらと川沿いに山へと向かって歩く。さらさらと川の流れる軽やかな音だけが響く穏やかな風景は、実に万姫の心を和ませた。

 

 この時初めて万姫は思った。ひとりがいい…。妖術で得た愛情も富も権力も、今の万姫には全て無意味なものに思えた。


 御所から北へどれ程歩いたろうか。時は夕刻を過ぎていた。ふと気が付くと、都の盆地の際の小山の麓まで来ていた。

 そこには木立に囲まれた美しい池があった。薄暗い池の水面には、月明りを映して蓮の花が咲き誇っているのがはっきりと見てとれた。

(綺麗な花…。)

 

 しばらく万姫は池の端に座り込み、波一つない穏やかな水面に見入っていた。このままこの水に身を沈めてしまおうか…と思わせる程、清く済んだ池だった。

 清い水に身を投げれば、妖怪であるという呪縛から逃れられるかのような気さえした。

 

 ふと、柔らかな風が後ろの木立をさらさらと鳴らす。その音に万姫が振り返ると、木立の奥に家らしき物がある事に気が付いた。思わず近寄ってみる。と、それはもはや誰も住んでいないのであろう、半ば廃墟と化した一軒の小さな家屋だった。

(誰もいないのかな…。)

 

 万姫は恐る恐る中へ入ってみる。が、人が生活している痕跡は全く感じられなかった。

(ここに一人でいたい…。)

 万姫は妖術を使い家屋を綺麗に直すと、中へと入っていった。誰もいない暗い家。物音一つしない場所。どうにかすると、恐ろしく孤独な空間ではあったが、不思議と万姫にとってはこの孤独感が心に平穏をもたらした。


 それから万姫は、一人ここで暮らすようになった。

 

 翌朝、鳥の声で目が覚めた万姫は、不思議と穏やかな気分だった。何だか全てが心地よい。

 ゆっくり起き上がると、家より少し先の池のほとりまで来た。夜に見た池とはまた違った趣を見せる池は、色とりどりの蓮の花と日の光を受けて、清く生命力に溢れていた。


 万姫は自然と笑顔になっていた。本当に美しい…。思わず池に足を踏み入れ、水を蹴っては跳ね落ちる水しぶきのきらめきを見て存分に楽しんだ。この時、心から開放的に笑っているという事に、万姫は自覚がなかった。

 

 万姫は妖であった為、食事を必要とせず一人山に籠る事に苦労はなかった。生きる為に最低限必要な日用品を作る妖術は必要ではあったが、九尾の狐としての悪事や妖術の全てを封印してここで一人暮らす事を望んだ。


 それは、もしかすると母の呪縛への対抗心であったのかもしれない。しれないが、誰とも交わる必要がないこの暮らしは、万姫の平穏な心を保つのに充分な環境であった。


 ここに来てから何日が経ったろうか。毎日飽きもせず、朝になれば池の睡の花を眺め、夜になれば月明りを楽しみ、時に水面に映る月をすくって空に投げる…弾ける水しぶきがきらきらと水面に落ちてゆく様を見て楽しそうに笑う。

 万姫は無邪気に一人水際で遊んでいた。


 が、とある夜、そんな万姫の姿を遠くから見つめる人物がいた。水と戯れる事に夢中だった万姫は、その気配に気づいていなかった。




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