二人の戦い 一対一で
小学校高学年の時、ひとりの先生が言っていることがあった。
「ケンカなら、一対一でやれ」
「一対一ならやってもいい」であっただろうか。
いずれにしても、危険な言葉だ。
先生というものは学校で強者だった者がなるなんていうけれど、まさに強者の理屈だ。
一方が圧倒的だったらどうするんだよ。そんなのケンカじゃあない。暴力だ。
そして、その暴力に大義名分を与えることにもなるじゃあないか。「だって、一対一でしたよ」と。
当時、こんなにしっかりと言語化できていたわけではなかったけれど、そんな風に感じていたように思う。
小六のある日、その先生が言うような一対一のケンカが発生した。
男子対男子。体格がいい二人の肉弾戦だった。
俺が騒ぎを聞き付けて駆けつけた時には、二人は大勢に囲まれていた。囲んでいた連中は、さながら観客のようだ。
何人かは黙って観戦しているだけではない。何か声が飛んでいる。
それは、劣勢なほうを責め立てるような声だった。
優勢をY、劣勢をRとしようか。
Rは泣きながら戦っていた。
負けそうだったからというだけではなくて、心ない言葉にも涙しているように見えた。
正直、もう勝負は決していた。
ケンカの理由は知らない。
「一対一ならいい」なんて言葉を、二人も周りも鵜呑みにしたわけではないだろう。
でも、二人は戦ったし、見ていたほとんどの生徒が俺を含めて止めることができなかった。
少しして、先生がやってきてケンカは終わりを迎えた。
止めた先生は、例のタイマンオーケーの先生だった。
騒ぎに気が付いたのか、誰かが連れてきてくれたのか。
後者だとしたら立派だ。俺は何もできずにいただけなのに。
周りからの野次も絡んだ圧倒的な決着だったこともあって、先生はYのほうに強く注意したらしい。
「こんなの、一対一じゃない」
まだ言うか。
「殴り合いのケンカをするな」でいいだろうに。
※ 時代もあったのでしょう。『いじめられないためにはやり返すことも必要』なんて時代でした。
先生の思想を支持していたわけではないだろうが、あとでYは言った。
「いや、オレたちは一対一で戦っていたのに、周りが何か言い出していじめみたいになったんだ」
言い換えれば「あれはオレとあいつの勝負だった。余計な手出しはいらなかった」というところか。
一対一だからといってケンカを肯定するわけではないけれど、二人には二人の戦いがあったのだ。
それはきっと、誰にも立ち入ってほしくないような。
※
近年、当事者同士の争いに無関係の者が入っていくのをよく見る。
力がない者の手助けになることもあるのかもしれない。
でも、人が人を呼び、集団のいじめになってはいないだろうか。
そして、援護された側が「もうやめてくれ」と言っても、止まらないことがある。
「お前がやめてと言っても、やめはしない。お前が許そうとも、許さない。許すな」
「お前のためにしているのに、そのお前がなんでそんなことを言う? お前も敵だ」
当事者同士の問題であるはずが、関係のない者が一方、あるいは両方を叩く。
当事者たちが望んではいないその言動に、一体なんの意味があるのだろうか。
そのようなものを見る度に、私はあの二人の戦いを思い出すのだ。
『オレたちは、一対一で戦いたかった』




