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新しい家

挿絵(By みてみん)都心から離れた、郊外のベッドタウン…………さらにそこからも山奥へ入った、小さな田舎の村。交通手段は、車かそろそろ廃線になりそうな無人駅だけ。自家用車を持たない、免許のない老人や子供はもっぱら無料運行している役場のバスを使うのだとか。一番大きな商業施設は村の中心にあるスーパーで、そこだって少し大きなコンビニ程度の広さだ。

その代わり、山奥なだけあって木々はそこかしこに生い茂っている。村のほとんどの面積は田んぼに占められており、初夏になるとカエルがうるさい。三方を山に囲まれ、一方は近くの街に面した人口約二千人程度の村。

今日からここが、僕たちの住処だ。


新しい家は、田んぼの目の前だった。

平らにならされた田んぼのあぜ道を挟んで塀があり、周囲を見渡す感じ周りに他の家はない。

山を背にして建つ家………というより屋敷は、父方の祖父の持ち物だという。

周囲を白い石塀で囲まれ、塀には雨除けの瓦もちゃんと乗っかっている。

Tシャツとクリーム色のハーフパンツという一見すると少年に見間違われそうな初夏の装いに身を包んだ十二歳の少女は、キラキラとした目で隣の保護者を見上げた。

「おっきいね、(スイ)!」

「……ああ、お前の祖父はこの辺りの地主でもあったようだしな」

翠と呼ばれた青年は、少女の荷物が詰まった段ボールを一つ小脇に抱えるように持ち無表情で頷いた。

年は二十代前半といったところだろうか、長めの黒髪を無造作に跳ねさせ黒いジーンズに同じく黒い半そでの開襟シャツという、全身黒のコーディネートだ。

だが、それを着こなせるスタイルの良さと整った顔立ちをしている。

「入るぞ、(ラン)

翠は、きょろきょろと揺れるショートヘアの少女の頭をポンと一つ撫で言った。

「うん」

藍と呼ばれた少女は嬉しそうに青年と手を繋ぎ、屋敷の門へ足を踏み入れる。

門の扉は、長年誰も使っていなかったせいか軋みが酷かった。

開けるのにも一苦労だったので、そのまま開いておくことにした。

門扉だけ、後から取り外してもいいかもしれない。

敷地内に入って、正面に土間の付いた玄関、右手には古い格子のガラス戸が並んでおり、左手の奥の方には恐らく縁側と枯れた池のようなものがある。

等間隔に玄関まで並んでいる丸い敷石の上を歩きながら、藍は楽しそうに鼻歌を歌う。

新しい家に、それなりにはしゃいでいるらしい。

翠は、小脇に抱えていた段ボールを地面に下ろすと両手で玄関の引き戸を開ける。

意外にも立てつけはそこまで悪くなく、すんなりと開き力を込めていただけに拍子抜けした。

「わあ、広いね」

開いた戸の隙間から中を覗き込んだ藍は、早速靴を脱ぎ高い上がり竈をよいしょと跨いでいる。

火山岩の石造りの土間を上がって、左側に長い廊下と座敷が広がっていた。

廊下には先ほど見た格子のガラス戸がはまっており、そのせいか廊下だけ少し明るい。

靴を脱いで上がった翠は、一つ違和感を覚える。

廊下や上がり竈の床に、埃一つ積もっていないのだ。

藍の祖父が死去して少なくとも十数年、この家は無人だったと役所の人間から聞いている。

それなのに、埃一つないのはおかしい。

よく見れば、靴箱の上や障子のさんも綺麗だ。

誰かが定期的に来て、掃除していたのだろうか。

「………………………」

違和感を覚えつつも、言及するほどのことでもないかと片を付け気を取り直して座敷へ足を踏み入れた。

廊下の方へ歩いて行った藍は、ガラスの格子戸から見える庭の景色が珍しいようで張り付いている。

座敷に敷かれている畳も、やはり埃などなく美しかった。

入り口の横に段ボールを下ろし、三十畳ほどの座敷を見分する。

廊下側は障子に光が透けて明るいが、二間つながった奥の方の座敷には陽の光が届かずどこか薄暗い。

部屋の間の欄間には、見事な木彫りの龍が居座りこちらを睨み下ろしている。

家具はなにもなく、ただ広くて薄暗いだけの座敷だ。

「藍、俺は少し二階を見てくる。何かあれば、呼べ」

「はーい」

いつ建てられたかも分からない古い屋敷だが、このタイプには珍しく上の階があった。

玄関の奥に進んだところに木造りの低い階段があり、頭上に注意して二階へ登っていく。

階段を上がってみれば、二階には二部屋あった。

今しがた登って来た階段を挟んで、東西にだ。

西側の部屋は、先ほどの座敷の真上になるのだろう。

左手の木の引き戸を開いて、少し面喰う。

そこは、物置のように様々な家具が積まれていた。

ベッドや箪笥はもちろん、ちゃぶ台や座布団、おそらく使われなくなったであろう家具が、積み重ねられ所せましと並んでいる。

窓が一階と同じ向きに二つ付いているため日焼け防止なのか、ところどころ布が被せられている物もあるが。

これらの家具は子が自立し、妻に先立たれた老人には無用の長物だったのかもしれない。

晩年、藍の祖父は死ぬまで一人でこの家で暮らしていたという。

藍は、祖父の顔を知らない。

あの子が生まれる数年前に、癌でこの世を去ったらしい。

左の部屋の戸を閉め、今度は右側の部屋の戸に手をかけた。

翠がそんな風に二階を探索している時、藍はそろそろガラス戸から外を眺めるのに飽きてきていた。

最初はレトロな雰囲気に引かれ、見慣れない塀の中の景色に夢中だったが目の前の木に止まっているセミの蛹が空っぽで動かないと知ってからは、少しがっかりした気分だった。

なにか、他に面白いことはないだろうか。

翠と一緒に、二階を見に行こうか。

そう思い、ふと視線をガラス戸から離した時、左の視界の隅になにか白いものが映る。

ぱちっと瞬きをし、藍は勢いよくそちらに首を向けた。

長い廊下の突き当り、曲がり角の柱の上の方で白い何かが風もないのにひらひらと揺れている。

あれは、なんだろう。

好奇心に駆られ、藍はそちらへ歩いて行く。

だが、近付くとその白い布切れのような何かはひゅっと角の向こうに隠れてしまった。

「あっ」

慌てて走り、曲がり角の向こうを覗き込むがそこには何もない。

さらに突き当りがあり、行き止まりにまたもや木戸があるだけだ。

柱の上の方を見ても、天井を見ても茶色い木ばかりで白い布などどこにも引っかかっていなかった。

なんだったのだろう?

そうこうしている内に、翠が二階から降りて来た。

「藍、どこだ」

翠が見つけた時、藍は廊下の曲がり角の先にある木戸の隙間を覗いていた。

「何かあったのか?」

そう言って、後ろから覗き込めばそこはタイル張りのトイレになっている。

壁のタイルは上から下にかけて白、水色、青色の順にグラデーションになっており、海か青空のようだ。

「なんか、白い?布?みたいなの」

藍の答えは、いまいち要領を得ない。

「………とりあえず、昼飯を買いに行くか。たしか、スーパーが一軒あるはずだ」

それは、移住するにあたり役場から渡されたパンフレットに記載されていた。

「行く、お腹減った」

外食できる場所も少しはあるようだが、引っ越して来たばかりであまり人目に触れるのもどうかと思うので、当分は自炊かスーパーの惣菜になりそうだ。

村唯一のスーパーは、屋敷から徒歩15分ほどの場所にあった。

道中は平坦だが田んぼ道が多い、この道に車は無理だが落ち着いたら藍に自転車を買ってもいいかもしれない。

スーパー花田と赤い文字でデカデカと書かれた看板をくぐり、中へ入る。

コンビニより少し広い程度の店内には、昼過ぎのためかそれほど人はおらずチラホラと買い物かごを持った老人たちがいるだけだった。

店内BGMは流行のジェイポップ、藍はカゴにいくつかの野菜と醤油、酒、砂糖などの基本的な調味料、それと肉を数種類買い、米二キロは翠に持ってもらうことにした。

買った物を家に持って帰り(ほとんど翠が持った)、土間から上がる。

「わぁっ!?」

両手に持っていたビニール袋と米を上がり竈の隅に下ろそうとしていた翠は、先に上がって行ったランの悲鳴を聞く。

「藍っ!?」

慌てて両手の荷物を放り投げ座敷へ上がれば、藍が座敷の隅を見ながら両手で口を塞いでいた。

小さな背中の向こうを後ろから覗き込めば、そこにはズタズタに切り裂かれた段ボールがある。

それは、唯一持参してきた藍の荷物が入っている段ボールだ。

家に入ってすぐ、ここに翠が置いた。

「なんで?」

藍は、不思議そうにポカンとして首を傾げている。

買い物に出かける前は、何事もなくここに置いてあったはずだ。

段ボールの表面は、まるで鋭い獣の爪か何かでひっかかれたかのようにボロボロになっていた。

翠は段ボールを開け、中が無事なことを確かめると周囲を見回す。

「猫……じゃないよね」

「ああ、ちがう」

仮にこんなに大きな爪を持つ猫がいるとしたら、間違いなく動物園のライオンや虎レベルだ。

大型の猛獣が、こんな人里に近い場所に?

山に囲まれているため可能性としてなくはないが、それにしても段ボールだけを狙って攻撃するだろうか。

周囲の畳にはひっかき傷はおろか、足跡一つ付いていない。

玄関の戸も閉まったままだったし、何かが外から侵入したとは考えにくい。

「………藍、あまり俺から離れるな。わかったな」

「うん」

藍は危機感のない様子で、健やかに返事をする。

それから、とりあえず段ボールの件は置いておいてペットボトルの麦茶とお総菜コーナーに売っていたおにぎり弁当を二人で食べた。

藍は弁当一つは食べきれないので、鮭おにぎりを一つだけ貰い残りを翠が平らげる感じだ。

翠も藍が小食なことは知っているので、無理に食べさせるようなことはしない。

ガラス戸を開けた縁側に二人で腰掛け、庭を見ながら昼食を摂った。

午後からは、あらかじめ街の電気屋に注文していた家電が届いたので運び込みと備え付けをしてもらった。

電気屋と一緒に備え付けがてら屋敷を見て回ったが、どこにも段ボールの犯人らしき痕跡は見当たらなかった。

ちなみに頼んだのは本当に二人暮らしに必要最低限の道具で、洗濯機に電子レンジ、冷蔵庫とテレビだけだ。

「んじゃ、ありあとーっした!」

威勢のいい挨拶とともに電気屋のお兄さんが帰って行ったのが、午後3時頃。

洗濯機は、裏口の土間へ延長コードと水道パイプを伸ばして取り付けてもらい、レンジと冷蔵庫は座敷の奥にある台所へ、テレビだけまだ他の家具がなにもないので仕方なく座敷の畳の上に置いてもらった。

それから二人は二階から使えそうな家具を一階に下ろし、雑巾拭きする作業に移る。

棚や机など重い物は翠が運び、藍はもっぱら雑巾係だ。

そうしていく内に、ようやく座敷だけは人の住む空間のようになってきた。

廊下側に面している座敷の中央に広いちゃぶ台と座布団を置き、床の間の横に和風の階段のようになった黒い箪笥を置く。

テレビの下にもちょうどいい高さの棚があったので、それを拝借した。

夕食は、藍の担当だ。

今日買ってきた材料を、新品の冷蔵庫から取り出し簡単にサラダとカレーにする。

赤くよく熟れたトマトを一つ串切りにして、手でぱりぱりと千切ったレタスの上に乗せる。

カレーには普通牛肉と思うかもしれないが、藍は鶏肉を好んで使うことが多い。

鶏や豚は、牛に比べて安いからだ。

生活費は親から仕送りしてもらうことになっているが、質素倹約を心がけるに越したことはない。

12歳とは思えないほどしっかりした少女は、まな板の上でリズミカルに野菜を一口大に切りながら鼻歌を歌う。

作り終えた時に福神漬けを買い忘れたことに気付いたが、翠は別に構わないと言うのでそのまま座敷のちゃぶ台で食べた。

「皿や食器も足りないな、明日買いに行こう」

「でも、街まで遠いみたいだよ」

「郵送すればいい」

明日のことを話しながら二人で摂る夕食は、翠にとって得も言われぬ幸福の味がした。

「じゃあ、お風呂先に入るね」

「ああ」

食器を洗い座敷で本を読んでいた翠にそう声をかけ、藍は風呂場へ消えていく。

浴室は、昼間見たトイレと同じ全てタイル張りだった。

やはり上から下に白と青のグラデーションが入っており、湯船もタイルだ。

脱衣所の床は竹を編みこんで造られており、ツルツルとして気持ちが良かった。

服を脱いだ藍は、たっぷりと溜めた湯に肩まで浸かりふーっと長い息をつく。

「は~、きもちい……」

こんな綺麗な広いお風呂場に一人で浸かれるとは、なんという贅沢だろう。

それに、今どき珍しいタイル張り。

湯気でモクモクと白くなる天井のタイルを眺めていた時、小さく開けていた家の裏手に通じる窓の隙間から何か白い物がスルスルと中に入って来るのが見えた。

「えっ」

湯船の中で座り直し、もう一度顔を上げて窓の辺りを見る。

だが、何もない。

「気のせいかな……」

不思議に思い、浴槽の縁に置いていた洗面器を手に取ったその時だった。

いきなり目の前に、犬ほどもある真っ白な龍が現れたのは。

『シャアァァァァッ!!!』

いきなり威嚇のように吼えられ、真っ白な龍は藍に飛び掛かる。


「は~、良い湯だった~。翠、お風呂どうぞ~」

「ああ。………待て、なんだそれは」

風呂から上がって来た藍は、トテトテと千鳥足で麦茶のコップを持ちながら座敷に入って来る。

だが、読んでいた本から顔を上げて返事をした翠は思わず少女を呼び止めた。

「えっ、ああ。この子?」

藍の肩には、まるでタオルか何かのように白い龍が引っかかっている。

乗っているとか、そういうわけではなく、風呂上がりのタオルのように本当に引っかかっているのだ。

「この家に、昔から住んでたんだって。おじいちゃんのことずっと待ってたけど帰ってこないから、家を掃除してくれてたって」

翠は本を置いて立ち上がり、藍の肩に乗る龍を凝視した。

「見たところ、白うねりか。それで、なんでお前の肩にかかってる」

白うねりとは、古くなり捨てられた雑巾や布切れが妖変化したものとされている。

布で出来た龍のような姿をしているらしいが、まったくその通りだ。

一種の付喪神と呼ばれる存在だが、この家に住み着いていたらしい。

昼間、藍が目にした天井近くを浮遊する白い布もこの白うねりの尾に違いないだろう。

道理で、家中に埃一つないわけだ。

「お風呂で飛び掛かって来たから、お湯かけちゃった」

藍は、翠の問いかけにケロリと答えた。

「襲い掛かってきたのかっ!?そんなものを、肩に乗せるなっ」

翠は慌てて引き剥がそうと手を伸ばすが、藍に避けられる。

時は少しさかのぼり、風呂場で白うねりが飛び掛かって来た瞬間、咄嗟に手に持っていた洗面器で湯船の湯をかけてしまった藍は、水に濡れて身体を起こせずベシャっとタイルの床に撃沈した龍を片手でつまんで引き上げた。

『…………で、出て…いけ、ここ……清三の…家』

言葉は交わせずとも、息も絶え絶えに念思でそう伝えて来た白うねりをそのまま翠に引き渡すこともできず、少し話を聞くことにしたのだ。

清三というのは、この屋敷に住んでいた祖父の名だ。

蒐集家、変人と名高く、家族と縁を切られた祖父の名。

『……清三…かえって…こない。ずっと……まってる。清三、言った………家の…そうじ、するなら……ここにいていい……そうじ…がんばった…のに、清三……かえって…こない』

ぽたぽたと滴る湯が、白うねりの流す涙と混じって灰色に濁る。

いったい、どれほどの間その身でこの家を美しく拭き清めてきたのだろう。

身体から流れる涙が、汚れて真っ黒になるほど……。

そして藍は、その話を聞いて確信した。

やはり、祖父も自分と同じ見える人だったのだ。

変わり者で、気ちがいの祖父に、お前はよく似ていると、父は私に言ったことがある。

いつもおかしなものが見えると言い、周囲を困らせる私に一度だけポロリとこぼしたその言葉。

それが、私の知る会ったこともない祖父の全てだった。

この妖は、ずっとここで祖父が帰ってくるのを待っていたのだ。

「おじいちゃんね、遠くに行っちゃったの。この家、僕が貰うんだ。だから君も、ここにいていいよ。一緒にいよう」

そう言うと、白い龍は赤い瞳からぽろぽろと大粒の涙を流しながら泣いた。

『清三……もう、かえって…こないのか?………もう…あえない?』

頭の良い妖だ、祖父が死んだことに少ない言葉で気付いてしまった。

「うん、僕も……おじいちゃんに会ってみたかったな…」

立てた膝の上に頭を置き、浴槽の縁に伏せる白うねりを見つめながらそう呟いた。

少女の顎から落ちた水滴が、湯船に小さな波紋を作る。


「それで?和解したから、ともに住むと?」

翠の問いかけに、またもや藍は良い笑顔で頷く。

「大丈夫だよ、ちょっと臭かったけどちゃんとボディソープで洗ったから」

どうりで、白うねりからやけにシャボンの匂いがする。

だが、白うねりとは本来夜道で人の顔や首に巻き付きその雑巾のような体臭で相手を失神させるという妖怪のはずだ。

それが、小奇麗に洗われてシャボンの香り……。

しかも、絞られたせいか身体もフェイスタオルサイズに縮んでいる。

こいつは、それでいいのか、と思わなくもなかったが、本人たちが満足そうなので言及するのはやめた。

「あ、昼間の段ボールも嫌がらせしてごめんって」

「やはり、こいつか」

二人の新生活に、一匹の妖が加わった。


それから数日、二人は生活の基盤固めに奔走していた。

必要な食器や小物類を買いそろえ、使えそうな家具を二階から引っ張り出し、スペースの開いた二階の西側の部屋を藍の私室にした。

畳を乾拭きし、その上に子供用の勉強机と本棚を置いただけだが、ちゃんとした学生の部屋に見える。

来月から、こちらの中学に通うことになる藍にはまず静かに勉強する空間が必要になると、翠が主張し誂えたものだ。

残されていた家具たちは白うねりが拭いていたおかげか状態も良く、少し綺麗にすればそのまま使えるものばかりだった。

セピア色の勉強机も、子供が遊んだであろうこまかな傷はあるものの使用感に問題はない。

翠は気を遣い、机だけ新しい物を買いに行ってもいいと言ってくれたが、特に気にしても仕方のないことなので、これでいいと言った。

おそらく、自分を育児放棄した親の使っていた私物など……とでも考えたのだろう。

カッターやペンの痕、父たちの子供の頃の気配が強く残る机。

翠は優しいから、考えていることがすぐ分かる。

でも、すべてが今さらでどうしようもないことなのだ。

僕は何一つ不自由のない、一般的な家庭に生まれたと言えるだろう。

父は会社員、母は派遣社員、共働きでいつも二人は忙しそうだった。

そこに生まれた自分も両親と同じように普通の人間だったら、もう少しまともな………日々の忙しさの中にも、会話をして笑って、そんな普通の生活があったのかもしれない。

夕食も出来合いの総菜ではなく、母さんが作ってくれたのかも。

一緒に三人で、ソファーに腰掛けてテレビを見ることもあったかもしれない。

でも、すべて僕にとっては『かもしれない』だ。

そんな場面は一度たりともなかったし、母さんが風邪を引いた僕を看病してくれたことも、父さんが公園に連れて行ってくれたこともない。

あるのは、上からこちらを見下ろす二対の目玉。

気味の悪い生き物を見るかのような、侮蔑と恐怖の混ざった瞳。

いつからなんて覚えていない、だって物心つく前にはもうすでに怪異や妖と呼ばれる者たちは僕の世界に当たり前のように存在していたから。

近所の猫や、家の中にいる虫なんかと同じように妖を見ていた。

カラスと小天狗の見分けがついていなかったし、四本足で歩いていればそれに鱗が生えていようが人面が付いていようが、犬だと思っていた。

自分の見えているものと周りの見ているものが違うと気付いたのは、小学校に上がる頃だった。

その頃には、もう母さんは家を出て行ったきりだったし、父さんも仕事が忙しいと滅多に家には寄り付かなくなっていた。

それでも食べる物に困らず、病気にも罹らず毎日学校に通えていたのは、翠が面倒を見てくれていたからだ。

食べる物がなければどこかから持ってきてくれて、服が小さくなれば新しいワンピースを用意してくれた。

リビングで寝落ちていればベッドまで運んでくれたし、眠れない夜は子守歌を口ずさみながら頭を撫でてくれた。

僕は翠に育てられたのだと言っても、過言ではない。

でも、たまに帰って来る父さんは翠のことを話すとひどく怒った。

「何度言ったらわかるんだっ!?そんな奴はいない!この家に住んでるのは、俺とお前だけだ!…………頼むから、これ以上困らせないでくれよ……」

「でも、翠は……」

「だまりなさいっ!!」

ここにいるよ、と言いかけて隣を見上げる。

翠は、そっと小さな手を包むように手を繋ぎ、諦めたように首を横に振るばかりだった。

翠も、父さんや母さん学校の子達には見えない存在だった。

そこから親元を離れて二人で暮らすようになるまで、まあ紆余曲折あったのだが今は割愛しよう。

とにかく、優しい優しい翠は人間ではないのだと思う。

僕が小さい頃から同じ姿で年を取らないし、空を飛ぶときは背中からカラスみたいな翼を生やすことができる。

でも、翠は僕を置いてどこかへ行ったりしない。

両親との『あるかもしれなかった』生活より、今ある翠との暮らしの方が大事だ。

だから、親や家族について翠が負い目を感じたり気を遣うことなんて何一つないのに。

『普通』の両親がおかしな子供を排斥するのも、気味悪がり育児放棄するのも、当然のことだ。

すべて今さらで、どうしようもないことなのだから。


引っ越し五日目、今日は敷地の西にある土蔵の整理………という名の、探検をすることにした。

翠は何があるか分からないから危険だと少し渋ったが、強固に頼み込めば仕方なく了承してくれた。

というのも、引っ越しの挨拶に回ったご近所さん………といっても、かなり里の方に歩いたところにある家で面白そうな話を耳にしたからだ。

「あらまあ、あそこのお屋敷に引っ越してきたの?もう、ずっと空き家だったから………」

「はい、妹と二人暮らしですがよろしくお願いします」

買い出しに出た時に買っておいた小さな箱菓子を持って、翠が丁寧に頭を下げればいかにも噂話が好きそうな主婦は、コソッと声を潜めて教えてくれた。

「ここだけの話だけどね、あそこの前住んでたお爺ちゃん変わり者で有名でね~。お屋敷の中におっきい蔵があるでしょ?そこに、色んなとこから集めた骨董品だの怪しい道具だの溜め込んでたって話よ。危ないから、妹さんもそんなとこで遊んじゃダメよ~」

明らかに好奇心の滲む態度でそう言った主婦に、翠は内心嫌な予感がしたのだろう。

早々に話を切り上げ家に帰って来たが、帰るなり蔵を探検したいと言い出した藍に頭を抱えていた。

「はあ……探検はいいが、おかしなものを見つけたら必ず一声かけろ。勝手に触ったり持ち出したりするな」

先日から、同居している白うねり同様に古い物には様々な念や淀みが溜まりやすいのだという。

空っぽの古物や骨董品は器に最適で、依り代を探しているモノには絶好の住処になる。

そういうものに人が不用意に触れてしまうと、障りをもらったり良くない影響を受けてしまうのだとか。

まあ、ようは最初に言われた通り何でもかんでも触るな、という意味だ。

その条件だけ頭に置き、いざ土蔵の探検に二人は乗り出した。

敷地の隅にある土蔵は、白塗りの時代劇に出てきそうな外観をしている。

だが、白壁は長年の風雨で傷みところどころ外壁が剥げていたり、蔵全体を蔦植物が巻き付き覆っていたりする。

白うねりが掃除していた母屋と違い、本当に何年も放置されていたようで入り口は錆び付いて開かなかったので、翠が穏便に握力で壊した。

錠前を握り潰し、観音開きの戸を無理やり外向きにこじ開けて、ようやく中に入る。

足を踏み入れる前から分かっていたが、物凄い埃と黴の臭いだ。

翠が扉を開けた途端、むわっと香った悪臭と白い埃に思わず口元を腕で覆った。

「うわっ、すごいねっ」

「………やめて、戻るか?」

「ううん」

その返事に翠は肩を竦めて落とし、ずんずんと蔵の中に入っていく藍の後ろをついて行く。

蔵の中の唯一の光源は、翠がこじ開けた扉だった。

窓もなく、灯りもない蔵の中をぐるりと見渡せば、たしかに異形の骨董品たちがずらりと並んでいる。

落ち武者の生首が描かれた大皿に、黒光りする甲冑と鎧兜、アメリカのどこかの部族的な槍を持った人形、中国製の銅鏡、作りかけで放置されたらしきバラバラの市松人形、裾の焼けこげた白無垢なんてものもある。

この中の品全てが全ていわくつきというわけではないのだろうが、それでも書物を積んだ本棚の隅、人の身長ほどもある壺の中、いたるところから小さき者たちの気配を感じる。

『δεξЖ、θ§ΦΨδ~』

『ζ§ΦΨη§……』

なんと言っているのかは分からない、だがパタパタと走り回る足音やヒソヒソ声が聞こえてくるのだ。

「…………………………」

だが、そんなものには目もくれず藍は蔵の中の骨董品たちに夢中だ。

「ねえ、翠。これ、何に使うの?」

「あ、これは」

「こっちも、面白い形」

何一つ手は触れずに、あくまで見るだけだが今にも雪崩を起こしそうな棚の隙間をスイスイと移動する姿は見ているこちらがひやひやする。

たしかに触れるなとは言ったが、触れさえしなければ不用意に動き回っていいとは言っていない。

「藍……」

たくみに言葉の裏をかいてくる少女を呼び止めようとした時、藍がある一点でピタリと静止した。

なにか異変があったのかと思い、急いで歩み寄る。

「どうした」

肩に手をかけて呼びかければ、藍は目の前の床を指さして言う。

「翠、ここ」

そこには、背の低い棚が置かれていた。

だが、棚の足元を見れば石で出来た床にそこだけ木の扉らしきものが埋まっている。

色も褪せて土埃をかぶり、言われてようやく他の床との違いを認識できるレベルだ。

こんな暗く視界の悪い蔵の中で、よくもこんな扉を見つけるものだと感心した。

「ここ、開けられないかな」

藍は、ここが気になるのだとしきりにその扉を開けたがった。

なんらかの暗示にかかり操られているわけではなさそうだが、こんな蔵のそれも地下に続く扉にあまり良い印象は持てない。

翠は危険だと一度は断ったが、頑なな藍の態度に結局は折れることになる。

きっと、今ここで拒否しても藍は後からまた来て一人でも、この扉を開けようとするのだろう。

だてに長年付き合っていない、行動パターンくらい読めるというものだ。

夜などに一人でこの蔵へ入って危険な目に遭われるよりはいいか、と無理やり自分を納得させて上に乗っている棚を横にずらした。

扉の埃を足で払い、金具に指を引っかけ両開きの扉を持ち上げるように開ける。

その拍子に、埃がぶわりっと巻き上がった。

木の扉のように見えたそれは、なんと二重の鉄扉になっていたのだ。

まあ、だから開けられないというわけでもないのだが、過剰な厳重さに本日二度目の嫌な予感がする。

見た所、この蔵同様鉄の扉も近代で作られたものではないだろう。

意匠がずいぶんと古く年季が入っているし、少なくとも藍の祖父の代で造られたものではない。

明治か、はたまたそれより以前か………。

そんな時代の人間が、ここに何を封じ込めた?

こんな厳重な鉄の扉までかぶせて、いったい何を中に入れた?

蔵の床にぽっかりと口を開ける黒い穴、中は空洞になっており下も見通せないほど暗い。

それに、かすかにだが古い錆びた血のような匂いがした。

翠は鼻を一つ鳴らし、顔を顰めると藍を振り返る。

「藍、これはこのまま閉じた方がいい。屋敷に戻るぞ」

「翠は戻ってていいよ」

「はあ…」

あっけらかんとした返事に、翠は重いため息をつく。

分かっていた、言うだけ無駄だと。

藍は、譲らないと決めれば絶対に一歩も引かない。

一体、どこで育て方を間違えたのかと、時折頭を抱えたくなる始末だ。

有言実行とばかりに、大人の胴体三人分ほどの穴に降りようとする藍を両腕で抱え上げた。

「わかった。俺が先に降りるから、いいと言ったら降りて来い」

「はーい」

ふざけて生徒のフリをする藍の頭をくしゃくしゃと片手でかき混ぜ、わっとはしゃぐ様子を横目に翠は床の穴に飛び降りた。

穴は案外浅かった、地面に足をつければ翠の頭が少し出るくらいの深さしかない。

腕を伸ばせば、余裕で扉の縁を掴める。

二メートルもないほどだ。

そして、下は石室になっているようだった。

蔵の基盤にある石を繰り抜いて造られているようで、四方八方を冷たいザラザラとした石に囲まれている。

まるで、石の棺桶のようだ。

「藍、いいぞ」

「うん」

藍は、わきの下を両手で支えられ翠に抱えられながら石室に降りる。

足を付ければ、ひんやりとした冷たさが足元から這い上がって来た。

ふくらはぎを伝う冷気に、背筋がぞくりとした。

だが、それには気付かないふりをしてきょろきょろと翠の足にくっついたまま視線を動かす。

石室の中は、シンと静まり返っている。

生物の気配はなく、虫一匹いない。

上で騒いでいた小さき者たちの気配もない。

「ここ、なにも……」

なにもないのかな、そう言い前に出ようとした身体を翠の腕にぐっと押しとどめられる。

「待て……奥に何かいる」

翠が、唸り声のような警戒音を喉の奥から発した。

それにビクッと身を竦ませ、藍は前に出された翠の腕を胸に抱きしめる。

「応えろ、そこにいるのは何者だ」

「……………………………」

奥の暗闇から、返答はない。

しばらく待って、それでも答えが返ってこないと分かると翠は静かに言った。

「藍、上に戻るぞ。ゆっくり、後ろに下がれ」

翠に言われた通り、サンダルを履いた左足を一歩後ろに下げたその時だ。

「あ゛……まっ、で………くれ」

途切れ途切れに聞こえたのは、まるで老人のようにしわがれた男の声だった。

翠は再び警戒するように唸り声を上げる。

「今一度問う、貴様は何者だ」

少しの沈黙の後、暗闇はゆっくりと言葉を紡いだ。

「わし、は………原衛の式紙…の、一人だ……」

「はらえ?」

藍は、聞こえた言葉をたどたどしく繰り返す。

その姓は、屋敷の表札にかかっているのと同じ読みだ。

つまりは祖父の苗字になる。

藍の父親は、祖父と縁を切るため苗字を変えていたそうで現在その姓を継ぐ者はいないが、間違いなくそれはこの屋敷を代々治めてきた氏族の名だ。

そして、式紙とは術者に使役されて仕えるものたちのことを指す。

主に力の弱い妖や狐などの獣の類で、想像しやすいのはポップカルチャーにもなっている陰陽師だとかそういう連中だろう。

「式紙が、なぜこんな場所に封じられている」

翠は、警戒を解かず重ねて尋ねた。

「……………………わしは…ちと、特殊な力を………持って…おってな。それ、ゆえ」

そして、今度は少し流暢に話すようになってきた暗闇の方が尋ねてくる。

「……教えて、くれんか。今は………何年じゃ、江戸の世から…いくつ代を、またいだ」

「江戸?それって、江戸時代?そんな昔から、ここにいるの?」

藍は恐怖などすっかり忘れ、思わず聞き返す。

その横で、あくまでも暗闇を警戒しながら翠が冷静に答えた。

「今は令和だ。江戸からは、二百余年ほど経っている」

それを聞いた暗闇は静かに、……そうか、と返しただけだった。

「……引き留めて…すまなかった………上に戻り、扉を閉ざしてくれ……ここには、もう来るな」

「なんで?」

あっけらかんと石室に響いた声に、翠は自身の後ろを確認しさっきまでそこにいた藍の姿がないことに気付く。

「なっ!?」

藍は、翠の横をすり抜け暗闇の奥を覗き込んでいた。

「藍っ!?」

慌ててその華奢な肩を捕まえようと手を伸ばすが、すんでのところで前へ足を踏み出され手は空を切ってしまう。

それでも、暗闇の前に立つ藍に追いつき何があってもすぐ対応できるよう隣に控えておく。

「なんで、扉を閉めるの?あなたが、ここにいるのに」

「…………………………お嬢ちゃん、あんまり使鬼を心配させてやるな。わしは、ここから出られん身じゃ」

暗闇は、目の前で慌てる翠と破天荒な少女の様子にかすかに笑ったようだった。

だが、すぐに諭すような口調になり藍に言い聞かせる。

「それって、特殊な力?を持ってるから?」

「ああ……わしの力はな、瀉血(しゃけつ)と言って体液や皮膚、身体の全てが他の妖や人にとって有害となる。それゆえ、ここに封じられた」

外へ出ても、他者に害をなすだけ。

それならば、この穴倉で果てるまで過ごした方がいい、と暗闇は語る。

「待て、なぜ術者はお前を消さなかった。根本的解決を望むならば封じるより、式紙としての任を解いて消してしまえばいい」

その方が、こんな空間を造るよりはるかに手っ取り早いだろう。

翠の切り返しに、暗闇は答える。

「主は、わしをここへ封じてからも永らく毒として使っておった。わしの血を取り、政敵や妖退治に使っていたようじゃ」

それで、先ほど上の扉を開けた時に香った錆びた血の臭いに説明がつく。

御しきれなくなった式紙に利用価値を見出し、それを幽閉しじわじわと血を搾り取っていたのか。

「反吐が出るな」

吐き捨てるような翠の言葉に、老獪はカカッと笑う。

「過ぎたことじゃ。江戸の世から二百年ともなれば、とうに怒りも忘れ。恨んだ相手も、この世にはおらん。…………あとはただ、ここで果てるを待つのみよ」

「そうか…」

諦めたような口調の暗闇に、翠はただ相槌を返しただけだった。

だが、その時翠の前で唐突に唸り声が上がる。

「う゛~ん、翠どうしよう」

「………………………」

藍だった。

唸り声にそこはかとなく、嫌な予感がする。

この蔵に入る時よりも、石室に繋がる扉を見つけた時よりも嫌な予感だ。

「母屋にこの人連れて戻っても、お客さん用のお布団がないよね」

翠の嫌な予感は、とてもよく当たる。

主に、たった一人の少女に関しては異様な的中率を見せるのだ。

「………まさか、こいつを連れ帰るつもりか?」

「うん。お布団、お店に電話したら持ってきてくれないかな?」

あ、晩御飯の材料も買い足さなきゃ、と的外れな心配ばかりをしている少女に翠は気苦労が絶えないとばかりに、指で自分の眉間を揉み込んでいる。

そして、しばらくしてから口を開いた。

「はあ………わかった、お前は後ろに下がっていろ」

その返事に、慌てたのは奥の暗闇だ。

「おい、お主ら。待て、どうするつもりじゃ。わしは、ここから出られんと言ったじゃろう」

翠は無言で、奥の暗闇の中へ足を踏み入れてゆく。

じっとりと身体にまとわりつく闇を切り拓いてゆけば、やがて奥の壁に十字架に捧げられた聖人のような恰好で捕らわれている人影を見つけた。

そして、石室の壁に磔にされていた式紙の四肢を戒める呪符に手をかける。

「待てッ、待たんか!?それに触れるな、わしに触れれば皮膚が焼け爛れるぞ!」

式紙は、あらんばかりの声を上げ身を捻り抵抗する。

「お主っ、そこな娘の使鬼じゃろう!?幼い主人を諫めることもせず、みすみす危険に晒すような真似をするのか!?式紙ならば、主人の安全を第一に考えるべきじゃろう!」

『ビリッ…』

右手を戒めていた呪符が、いともたやすく破り捨てられる。

「やめろとっ……」

「一つ言っておくが、お前があいつに危害を加えるつもりなら俺は即座にお前を殺す」

「……っ!?」

押し黙る式紙相手に、翠は静かな声で続けた。

「諦めろ、俺が言ったところで言うことを聞くような奴じゃない。恨むなら、子供に見つかるようなずさんな扉を造って、ここにお前を幽閉した奴らを恨むんだな」

『ビリッ…』

左手の呪符が、破られた。

翠は躊躇なくそのまま左足の呪符に手をかけ、意図もたやすく破り去る。

「俺は、あいつが欲しがるものを与えるまでだ。ただ、その結果何があっても守ると決めている」

最後の呪符が破られる、呪術的支えを失った身体はずしゃっと地面に崩れ落ちた。

「皮膚には触れない、肩を貸してやるから立て」

翠は器用に崩れ落ちた式紙の腕を、着物の袖で掴み皮膚同士が触れ合わないように肩を貸して立ち上がらせた。

その後、三人は石室から這い上がり蔵を後にする。

日向に出てみれば、藍は翠の肩にもたれかかる式紙をまじまじと見た。

てっきり口調と枯れた声から、老人だと思っていたがそこにいるのは鬼面を被った黒髪の青年だ。

身長は翠より、少し低い170㎝くらいだろうか、呪符で戒められていた手足にはあちらこちらに切り傷があり、古く変色した血の痕がこびりついている。

やせ細った肢体にはぼろきれのような着物の成れの果てを巻き付け、頭から埃と石の粉をかぶって少し白っぽくはなっているが、無造作に跳ねる短髪と左下の頬の部分だけが割れて欠けた赤い鬼面が特徴的だった。

その欠けた部分から覗く、口元は疲弊したようにかすかに開かれている。

痩せこけた頬から、再び言葉が発せられた。

「………わしなんぞを連れ出して、どうするつもりじゃ。………この血も身も、二度と使うつもりはないぞ」

封じられてからしばらく、無尽に絞られ続けていた血が妖退治のためだけでなく主人の政敵や邪魔な人間を排除するために使われていたと知った。

たとえ他に害を為さぬよう蔵の底に捕らわれていようとも、それで主人の役に立っているのならいいと思っていた。

己の血のせいで、どれほどの無辜の人々が殺されたのだろう。

『貴様のおかげで、邪魔な者たちを片っ端から屠れておるわ!まったく、父上も便利なものを残してくれたものよ!』

次に代替わりした息子はそう言って、さらに多くの人々を殺めているようだった。

出世に邪魔な人間、気に入らない者、自分に従わぬ者………。

やがてその息子も年を取り、いつしか姿を見せなくなり蔵の地下の石室の存在は忘れ去られた。

訪れる者もいなくなった石室の奥で一人、これでいいのだと己に言い聞かせて来た。

誰にも顧みられず、利用されず、ただ過ぎ行く時間も分からなくなるほどの時が過ぎた。

「なぜ、わしを出した。この血は、数多(あまた)の人間を殺めた。…………守るべき人の子らを、わしは数え切れぬほど……」

「だって、あそこは退屈でしょ?あと普通に、人が蔵の下に埋まってる家とか住みたくないし」

母屋への敷石を先に歩く藍は、さも当然と言わんばかりの態度で振り向いた。

「別に、ここが嫌なら他のとこに行ってもいいよ。でも、蔵の下に戻るのはやめてね。寝目覚め悪いから」

その自己中心的な発言に、思わず鬼面の下の口がポカンと開く。

すると、肩を貸しながら歩いていた隣の翠が言った。

「だから言っただろう、諦めろと。こいつに見つかったのが、運の尽きだ」

思わず言葉と一緒に口からこぼれる溜息は、今までの無茶振りをすべて聞いてきた経験則ゆえだろうか。

幼い主人と諦観主義の使鬼の二人組に、ただただ鬼面の式紙は呆然とするだけだった。


それから一週間、蔵の下に眠っていた鬼面の式紙はスグリという名を藍から貰い、新たに原衛の家に仕えることとなった。

最初こそ藍の破天荒ぶりに呆然としていたスグリだったが、二人とともに日々を過ごすうちに石室でなくここにいてもいいのかもしれないと考えを改めたのだ。

きっかけは、ささいな物事だった。

初めて人から出された夕餉が美味しかった、始めて入る風呂や夜寝る布団が気持ちよかった、二人とともに後世の発明だというテレビなるものを見て、一緒に笑った。

身体を触れ合わせることはなくとも、三人で歓談し、晩酌に翠と飲む酒は旨かった。

そんなありきたりで、当たり前なひとつひとつが、ここにいてもいいのだと思わせてくれた。

「お主のような主人になら、もう一度仕えてみるのも悪くはないかもしれんな」

月夜の縁側で、酒の勢いに任せてポツリとそうこぼした時、藍はきょとんとした顔をしていた。

「仕える?って、僕に?なんで?」

なんで?と問われて、スグリも一緒に首を傾げる。

「つまり、お主と主従の契約を結ぶのも悪くはないかと………」

しどろもどろに説明したが、やはり藍は首を傾げるばかりだった。

「契約?それしないと、ダメなの?」

「駄目ということもないが、契約するためにわしをあそこから引っ張り出したのではないのか?」

ちがうよ、と藍は言った。

「契約なんかしても、特にやってもらうことないし。そんなのなくても、ここにいたいならいてもいいんだよ」

藍の返答に、ますます訳が分からなくなった。

そこで風呂から上がった翠(通訳)を捕まえて、あれこれ質問責めにしてみた。

「翠、尋ねるが。式紙を使うこともないほど、あの娘は退魔師として暇を持て余しているのか?」

風呂から上がった翠は、その質問でおおよそを察したようで的確な答えを返してくれる。

「藍に、式紙契約でも持ちかけたのか?悪いが、あいつは退魔師でもなんでもない。ただの、子供だ。だから、契約を持ちかけられてもピンときていないんだろう」

その返答に、思わず口が開いた。

この屋敷に迎えられて、何度目の唖然だろう。

青年は、藍のことを原衛の後継者だと思っていた。

そうでなければ、目くらましのかけられた蔵の扉など見つけることはできなかっただろうし、何より得体も知れぬ式紙を引っ張り出し、傍に置くなど到底考えられぬ。

「ならば、お主はどうなんじゃ。なぜ、妖がただの子供に仕えておる?」

藍が退魔師ではないという全ての前提が崩れてしまえば、翠の存在も異質だった。

てっきり、他の妖を屠る退魔師の責務のために使役されていると思っていたのに。

「俺は、好きであいつの傍にいる。契約はしているが、式紙というよりは保護者のようなものだ」

「ほごしゃ……」

思わず、子供のようにあどけない口調で言われた言葉を繰り返してしまう。

たしかに、ここ数日で見て来た翠の振る舞いは保護者の鏡とでも言うべきものだった。

干した洗濯物をたたみ、箪笥に仕舞い、藍が料理をしていれば皿などを並べる。

昨日届いた、次の学校の教科書なるものを整理し全てに藍の名前を記入したりもしていた。

唐突におすそ分けを持ってきた近所の主婦に外面良く接する様子は、まさしく保護者そのもの。

「たしかに………式紙ではないな」

その働きっぷりを見れば、翠は藍の保護者だと言わざるを得ない。

「なら、幼子の保護者殿として尋ねよう。わしが藍と契約をするのは、構わんのか」

「好きにすればいい、藍が望むのなら俺が拒否する理由もない。だが、最初に忠告はしておく。あいつは、新しく引っ越した屋敷の蔵に幽閉されていた鬼面の式紙を引っ張り出して、家に連れて帰るなどと言い出す奴だ。得体の知れないものを平気で懐に入れて持って帰るし、俺たちのようなものにも好かれやすい。苦労は絶えないぞ」

その言葉には、実体験を持った重みがあった。

おそろしく破天荒で、目が離せない。

一度決めたら頑として言うことは聞かないし、世間の一般や常識とはどこかズレている。

そんな子供を、12年間も一人で育て上げた翠の育児生活たるや。

「お主も、大変じゃなあ。だがまあ、わしもお嬢の気まぐれに拾われた。ならば、少しでも傍で恩を返したいと思うのは必然の理じゃろうて」

その時、縁側の方から声がかかる。

「そういうのって、普通本人のいないとこで話さない?」

不服そうにコップの麦茶を飲む藍は、じとりと二人を睨みつけていた。

「事実だろう。言われたくないのなら、いわくつきの壺や怪我をした妖を拾って来るのを少しは控えろ」

やめろ、と言わないあたり、やはり翠は藍に甘い。

「まあいいや、それで契約?するの?」

「ああ、よろしく頼む!」

こうして、藍に新しい式紙が増え。

翠には、子育てのよき理解者ができた。

「ちなみに、なんでスグリなんじゃ?」

「スグリみたいな、綺麗な赤い目してるから」

「いつの間に、見たんじゃ………」


~後日談・おまけ~

新しい屋敷には、掃除人の白うねりと僕の式紙?とやらになる二人が住んでいる。

スグリと名付けた鬼面の青年は、袴に際どい布面積の着物を着て一見派手だが手先が器用で、最近は家庭菜園に興味があるらしい。

新しく使い方を覚えたテレビで、農家や料理番組ばかり見ているし近々夕飯の手伝いを頼んでみてもいいかもしれない。

包丁を握った途端にまな板の上を血みどろの殺人現場に変える翠には頼めないが、上手くいけば台所の戦力を一人確保できるだろう。

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