2-6 ~第一章・付き従う者 その6~
びくっ、と寒気がものすごい勢いで背筋を走り、顔から一瞬にして血の気が引く。
ただ椅子が描いてある絵を見ただけなのに、手足は小刻みに震え、目の焦点を絵から外すことができなかった。
額からは暑くもないのに汗が溢れてくる。
多分、これが冷や汗というものなのだろう。言葉では知っていたものの、自分の体から出てくるのを体験したのは初めてだ。
心なしか、誰かに見られているような感覚もある。
誰だ……? 誰か近くにいるのか?
ていうか、なんだ……これ。
何で僕は冷や汗なんかかいているんだ?
何で僕は震えているんだ?
何で僕の全身は鳥肌だらけなんだ?
次から次へと疑問が湧き出てくる。
さっきからそんなことばっかりだ。
答えが解る前に、何でこうも疑問ばっかり出てくるんだ。
ひとまず心を落ち着けなければ。
騎士を目指したる者、常に冷静でなければならない。
訓練校でもそう教わったはずだ。
なんてことはない。
ただ単に、椅子ひとつ描いてある絵を見ただけじゃないか。
落ち着け、落ち着け。何も恐れることはない。何も怖がることはない。
そう自分に言い聞かせても、一向に体の震えが止まる気配はない。
落ち着け、落ち着け。何も恐れることはない。何も怖がることはない。
そこには“椅子ひとつ描いてある絵”があるだけじゃないか。
「違う……だろ」
そう、違う。何が?
「そうじゃない、だろ」
うん、そうじゃない。何が?
「どうして、この絵の中に」
この絵の中に?
「誰も、いないんだよ……」
誰もいない? じゃあ、誰がいるはずなの?
「肝心の、アレ――――」
その時。カランカラン、と足元に手の平ほどの大きさの物が転がってきた。
何だ、これ。
壁に飾られていた絵から、足元の物へと視線を移す。
そしてそれが、急に弾けたかと思うと――。
目の前に強烈な閃光が走った。
それと同時に、廊下中にバァァン!と甲高い破裂音のような、爆発音のような豪音が響き渡る。
光と音は空を切り裂き、大気を揺らし、鼓膜を震わせ、視覚や聴覚といった感覚を一瞬にして麻痺させた。
僕は突然の出来事に反応できるわけもなく、驚いた拍子に体勢を崩し、受身を取ることすら出来ず情けない格好のまま後ろ向きに床へと倒れこんでしまった。
音響閃光手榴弾。
その名のとおり、爆音と閃光により相手の視覚を聴覚を一瞬麻痺させることにより、数秒間相手の自由を奪うことができる手榴弾だ。
今のフィラルディアには拳銃、機関銃、小銃など多くの遠距離射撃が可能な火器が溢れている。
中でもガルドニア帝国が世界有数の先進国だ。短い期間で著しい科学の発展を遂げ、帝国軍隊の兵が装備しているのは今や殆どが銃火器である。
音響閃光手榴弾もそのひとつだ。
軍隊や傭兵の中でも、銃士隊や偵察兵などが好んで使う傾向にある。
僕のいた訓練校でも最低限の扱いを学んだり、投げられた時の対処法などは聞いていたが、「騎士」そのものがこの武器を使うケースが稀なために、実際に自分に対して使われたのは初めてだ。
実際に使い、使われたことが無いなんて、扱いを学んだとはいえないと思うが。
事実なんでどうしようもない。
というか、暢気に解説なんてしてる場合じゃない。
どうしてこんなところに、音響閃光手榴弾なんかが投げ込まれたのか。
考えるまでもない。どう考えても、僕だ。
今のは明らかに僕を目掛けて投げられたものだ。
だとしたら。さっき、足元に音響閃光手榴弾が転がってきた方向に。
間違いなく誰かがいるということだ。
一体誰だ、この屋敷には誰もいないんじゃなかったのか。
徐々に戻りつつある感覚をフルに使用し、床を押して無理やりに体を起こす。
「誰だ。そこにいるのは、誰だ!」
手を握り締め、軽く首を振り、膝を立てて立ち上がろうとした……のだが。
どうやら、一足遅かった。
僕の目の前に、銃口らしきものが突きつけられる。
目が霞んでまだ視界が戻りきっていないからこんな表現しか出来ないが、恐らく銃口で百パーセント間違いないだろう。
音響閃光手榴弾なんて持ってるぐらいだから、銃の一丁や二丁、持っていたところで何の不思議もない。
「誰だ、じゃねぇよそこのガキ。お前こそ誰だ。そしてこんなところで何やってる」
不意に声をかけられる。低く、ぶっきらぼうな声。
まさかこんなところで他人と――しかも武器まで持っている――出会うことになろうとは思いもしなかったので、当然武器になるようなものは何一つ持ち合わせてはいない。
この屋敷に入ろうとするだけで多少なりとも不審がられるのに、剣や銃なんて危なっかしいもの持ってくるわけないだろう。余計に不審者だと思われる。
そしてその理論でいくと、目の前にいるこいつは間違いなく不審者だ。
今更当たり前なことを考え付く自分の脳に心底ガッカリした。
いや、もしかしたらいつもは聡明な頭だが、音響閃光手榴弾の影響でまだ若干脳の機能が麻痺しているのかもしれない。
そう、思っておこう。自分の尊厳のために。
「そういうあなたこそ何やってるんですか」
強気に言い返す。絵の事といい先程から驚きのオンパレードなので、恐れというものに耐性が出来つつあるのだろうか。それとも単純に慣れてきただけなのか。
次第に視界が晴れてきて、屋敷の廊下の光景が分かるようになってきた。
そして目の前にいた人物の顔が、瞳にハッキリと移りこむ。
年はだいたい三十前後ぐらいの、男だ。実に性格の悪そうな面構えをしている。
肩ぐらいまで伸ばしたボサボサの茶髪に、赤色の軍服。胸には小さな星が三つある階級章を付けていた。
帝国軍隊の、上等兵だ。
上等兵は、下から数えて二等兵、一等兵、上等兵と三番目に当たる。
軍服の男は僕の顔面に銃口を押し付けると、怒鳴り口調で言ってきた。
「質問してんのは俺なんだよ、クソガキが。テメェは今の自分の立場が分かってないようだな、えぇ?」
ツイてないな、よりによってキレやすいタイプの男とは。
下手したら殺されるかもしれない、という考えはあったものの。
この手のタイプの人間は、頭を下げても調子に乗るだけの性質の悪い奴が多い。
この男も例に漏れずそういう奴だろう。根拠は顔、それ以外には無い。
「テメェのようなクソガキが、何でこのような人気のない屋敷の中で、一人で廊下に突っ立っていたのか俺に分かるように説明しろ」
「絵を見ていただけなんですが。むしろ、そこらへん考えてから音響閃光手榴弾投げてくださいよ。どう考えても不審者丸出しじゃないですか」
僕も人様のこと言えた義理じゃないが。
絵を見て立っていた少年と、それを見て咄嗟に音響閃光手榴弾投げつける陰気でキレやすい、清潔感のなさそうな、今後出世も出来そうにない底辺軍人だったら、どちらが不審かは火を見るより明らかだ。
「なるほど。死にたいようだな」
軍服の男は急に冷静な態度に戻り、持っていた小銃の冷えた引き金に、グッと力を込めた。
流石に、こんなところで死にたくはない。
即座に銃身を左足で蹴り飛ばすと小銃は宙高く舞い上がり、その隙をついて男の腹に思い切り右ストレートをぶち込む。
あまり体重が乗り切らず威力こそ大したことないものの、不意をついたことにより男の体勢を崩すことができた。
「がぁっ……! こ、こぉんの、ク、ソ、ガ、キ、がっ……!」
さっき弾いた小銃がガシャリと音を立てて後方の床に落ちた。
またこの男の手に武器が戻っても困る。僕は急いで小銃へと飛びつき銃身を握り男へと構えると、男は懐に手を伸ばし拳銃を引き抜いて僕へと照準を定めた。
げぇ、マジか、二丁ぐらい持っていても不思議じゃないとは思ったけれど、実際に持っているとなると非常に嬉しくないんですけど。
こんなときは、先手必勝。
「くらえ!」
すかさずトリガーを引くと、銃口から轟音とともに火花と硝煙吐き散らし、鉛弾が男目掛けて一直線に突き進む。
だが狙いが甘かったのか、肩をかすめる程度で相手の動きを抑えるまでには至らない。
くそっ、こんな大事な局面でミスるなんて……。剣ばかりじゃなく銃の練習もしていればよかった。
訓練校にも自由に使える射撃訓練所があったっていうのに。
でも男は更に体勢を崩し、床に尻餅をつくような状態となった。
そして厄介なことに。
男は慌てたのか、闇雲に拳銃を発砲してくる。
冷静さを失ったのと体勢が悪い状態で乱射しているせいか、僕の体にこそ当たらなかったものの、放たれた弾丸は天井、壁、飾ってある絵や花瓶など廊下中の物を貫き削っていく。
「テメェ……そっちはやる気満々ってか。いいだろう、誰だか知らねぇが相手してやるよ」
訓練校の試合では全戦全敗という、素晴らしいほどに不名誉な伝説を作りあげた僕。
その僕が生まれて初めて経験した実戦は、昔想像していた、人々の平和を脅かす悪党を華麗な剣裁きで翻弄し、溢れるカリスマで改心させ、街の人に拍手喝采で迎えられ喜びのあまり美女が何人も飛びついてくる――――。
なんていうカッコイイものではなく。
“魔女屋敷”の主の肖像画の前にて軍人相手に銃撃戦を繰り広げるという、全くもって騎士を目指す人間とは程遠いものであった。
それにしてもこの男、盛大に勘違いをしている。
別にこっちはやる気満々でも何でもないぞ。
僕は銀髪の女の子に会って、『誓約者』の話が出来ればそれで用事は終了なのだ。
でも、まぁ。乗ってやってもいいかもしれない。
不利なことばかりで得するものは何もないが。
人生が在り来たりな物語になるよりは、ずっとずっと面白いのではないのだろうか。
そう、初めて“魔女屋敷”に入ろうと思ったきっかけも。
『誓約者』とかいうものに興味を持ったきっかけも。
思えば「楽しそう」なんていう理由からだった。
他に理由はいらない。
ここで死ぬような男には、騎士になる資格も、銀髪の女の子に会う資格もない。
自分で適当に理由をこじつける。
いつか自分は立派な騎士になる。剣術だって上達する。銃だって使いこなせるようになる。
誰かを守れるような力も持てる。
黒髪だからと不吉がっていた奴も。
騎士になんかなれない、出来損ないだと言っていた奴も。
僕をバカにしつづけていた、あの訓練校の連中も!
見返せるぐらい高い所にいけるはずなのだ。
諦めなければ、きっと、叶えられるはずなのだ。
だからこんなところで死ぬわけにはいかない。
僕はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、男の挑発に対して挑発で返した。
「本当ですか。そっちこそ誰だか知らないが、是非とも相手をしてくださいよ」
一度大きく後ろへ下がり、男との距離を取る。
奪った小銃の残弾数は七発。決して多くはないが、ないよりマシだ。
「軍人さんのあなたには悪いけど、負けてもらわなきゃ。言っておくけど、こんなところで死ぬつもりはないしね。それに僕は――――」
男もニヤリと笑い、拳銃を構える。
笑ってるなんて、気が合うじゃないか。案外嫌な奴じゃないのかも。
むしろすぐ撃たないでいてくれた分、結構いいヤツなのかもしれない。
頭はクールに、心はホットに。自分自身の感情をコントロールする。
今は目の前の恐怖に怯え、下を向いて俯くような場面じゃないのだ。
「誰よりも高く昇るにあたり、下を向いてる暇はない。邪魔をするなら容赦はしない」
「ゴチャゴチャうるせぇんだよ」
僕と男は、同時に引き金を引いた。
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