長月の蝉
ぽってりとした猫じゃらしが頭を垂れる頃、稲穂は黄金に色づき項垂れる。
独りハンドルを握り、越してから誰も住まぬ家がある田舎へ墓参りに向かう道中、通り過ぎた麓の集落では、稲刈りが始まっていた。真紅の彼岸花の花が律儀に首を伸ばし、ぽつりぽつりと並んでいた。
遠い南の海には台風がひとつ。湿った熱帯の空気が列島に入り込んでいるのだろう、深山であっても心地よい爽やかな秋の風の気配は、まるで無い。
透き通る青い玻璃の様な空。先祖代々の周囲に敷き詰められた砂利の上にへたり込み、見上げる先には湿気った雲が天を覆う。時々に割れて太陽が姿を見せる。まだ夏は終わっていないと言わんばかりの強い日差しが、ご先祖様の前で落ち込みしゃがみ込む私に届く。
紫苑の花にアゲハチョウが、ひらひらと。
小さな青い蝶々の様な露草、ゲンノショウコの白い花、麦わら蜻蛉が色づき始め、朱色の胴でツイツイ、ツイツイ、遊ぶ様に飛んでいる。
リリリ、コロコロ、チチチ。
草むらの中で鳴き始めた秋の虫は、まだその数は多くない。外で鳴いている分には構わないが、家の中に一匹でも入り込むと、鳴き声は小さな身体に反比例をし、びっくりするほど大きい。
秋の虫達の恋の季節に移行している。
伴侶を求めて競い合う、虫の鳴き声。
飛んできた種なのか、草むらに秋桜の立ち姿ひとつ。
人の手で撒かれたそれと違い、儚げな風情は無い様子。
一本でも、種を無数につけてやらんと意気込む様に、大きく育ち、他の花達とは違う存在感を発していた。
晴れると気温が上り名残の蝉の声。
地から這い出したのが遅かったのだろうか、終わりのツクツクボウシに混じり、ミンミンゼミ。
ミーン、ミーン、ミーンミンミン……
渋く鳴いている彼、独り。
蝉も伴侶を求めて鳴いているのだろうに、この時期に相手に果たして巡り合う事ができるのだろうか。
そんなお間抜けな男は要らないとはねられそうだが。
ミーン、ミーン、ミーンミンミン……
独り鳴くミンミンゼミの彼。
腹をビビビと震わせ鳴いている。
もうひと月、早く地面からかいでていれば、伴侶を射止めるべく、競い合いながら鳴いていただろう。
生物の正しき生殖本脳、より優秀なる遺伝子を持つ子を産むために、雌は優秀なる持ち主を選ぶという。
蝉もまた然り。
力強く響き渡り、葉を震わせ立ち昇り、堅い青、密度の濃い入道雲が高さを増す天に届くよな、声が雌を惹き付ける。
木々の幹にしがみつく、蝉達。
雄は腹をビビビ、ビビビと震わせ鳴く。
隣の雄がそれに負けまいと鳴き始める。
上の雄がそれに負けまいと鳴き始める。
下の雄がそれに負けまいと鳴き始める。
蝉時雨、完成。
ミーンミンミン、シャンシャン、ニィニィ。
山の中ではギーギギー、チッチッチと鳴くのもいる。人の耳に入る擬音。
『彼女、僕のラブソング聴いて』
『彼女、羽の網目が素敵だね』
『彼女、美しい愛しき君よ』
『彼女、麗しき我がアモーレ』
蝉の女性に届いて居るのは、こういう唄声だろうか。
誰とも契る事なく時を終えるように謳う、男の声。
九月の蝉。こえひとつ。
台風接近、ニュースで流れる中、
何を想い、何を願い、独り男は
鳴いているのだろう。
6月。
梅雨がそろそろ終わって欲しいと思う頃。
あちこちの紫陽花が盛りの頃。
夏のワンピースを通販サイトで買った。合わせてサンダルも。それらを身に着けて、髪をざっと纏めてアップして、どう?とピンクのグロスを引いた私は、訪れた彼に笑顔を向けた。
何処か行くの?テレワーク中なのに。勿体ない。
ドアフォンの後、三和土で靴を脱ぎながら話す彼。
褒めてもらいたいとは思わなかったけど。初めて聞いた素っ気ない言葉に、少しだけがっかりした私。
こんな人なの?見た目は優しく幼く見える容姿、ふとしたきっかけで付き合う事になった私達。
それは、ほんの数ヶ月前の事。鯉のぼりの前、お花見の前、菜の花の咲く頃だったかしら。
7月。
七夕、短冊に願いを書いたのはむかしむかし。
カフェのプランターにマリーゴールド。
コンビニでバニラアイスクリームを買った。缶詰のフルーツをカット、それらと共にお気に入りのガラスの器に、お洒落を目指してよそう。
アンテークだと言われた、海の蒼を閉じ込めた様な切子細工。公園でやっていたフリマで見つけたソレ。缶詰の果物でも、安いアイスクリームでも、きゅうりの漬物でも、美味しくなる魔法がかかる硝子細工。
ぷちっと、アップルミントの葉を一枚。在宅ワークのおかげで、ベランダ菜園も順調に育っていた。グラスにレモンを絞って炭酸水をそそぐ。ソレに浮かべたり、使い勝手が良いハーブ。
食えない葉っぱなんて育てるなんて、勿体ないね。
彼の声、何かが勢いをつけ転がり始める。
8月。
ランタナの鉢植え、こんもりと育っている。
週末に私の部屋で、いつもの様に逢う。
洗いたてのシーツは糊の爽やかな香り、サララとした肌触りが気持ちいい。
たまにはちょっぴり良いご飯、テイクアウトしようよ。近くのイタリアンのお弁当、綺麗なの。返事は分かっているけど、期待をして話した。
もったいないから、コンビニでいいよ。定番の答え。
つまんねぇ男だな!心のなかで声が響いた。
結婚とは、好き嫌いではない。
合う合わない。なのかと気がつく。
どうして二人の間で、結婚の未来が見えなかったのか。
どうして二人の間で、堅実な未来の話がなかったのか。
週末は必ずこうして私の部屋で、一緒に夜を過ごす仲なのに。
何かが、カチリと音立て動く。
9月。
とりどりの色や模様の、コリウスが綺麗。
多忙らしい両親に変わり、墓参りをする為、田舎へと向ったある日。
彼とのやり取りが頭の中を終始グルグル。
私の気持ちはムシャクシャ、ムシャクシャ。
敷地の一角、仕切られた場所にある墓地にて、ブッチブッチと高く伸びた、雄シバ、姫シバ、猫じゃらし、蓬に、露草、諸々雑草達を抜いていく。
墓参りに行くから。
つまんない男に、だから今週末は無理。そう断ると。
つまんない男は、僕の予定が狂うと文句を言ってきた。
じゃぁ、一緒に行く?男手があれば墓掃除も楽だし、お弁当作る。最大限譲歩した私。
そんな時間が勿体ない事はしないよ。週末は君の家で食事をするから、その予定でかかる生活費を決めてるのに。余分な出費になる。勿体ない。仕方がないからご飯食べに、お家に帰ろっかな。
はあ?目からウロコどころか、私のポンコツで曇りまみれの恋しちゃったフィルターが、バリンバリン割れて、いや、思えば3ヶ月前から四方八方、ひび割れてたけど、とにかくソレが木っ端微塵に吹き飛んだ。
しかも。
ご飯食べに、お家に帰ろっかな
リフレインするその台詞。付き合って直に半年だったはず、周りは次々にウェディングブームの中、私達はそんな気配も話も無かった。
私の両親には、とうの昔に顔見せは済ませているというのに、コイツの家には、なんだかんだで未だお招きは無い。
ママがあかんと言ってるのか?
それっぽい事は言ってたけど。
ママが選んだ、血統書付きの雌じゃないとアカンと言ってるのか?
それっぽい事を言ってたけど。
ブッチ!ブッチ!草を力任せに引っこ抜く。
ブッチ!ブッチ!私の中で音立て切れた何か。
「とっととママンの元に帰りやがれ!二度と電話してくんじゃねぇ!ど!阿呆がぁぁ!あー?」
喚き通話終了しようとしたら先に切られた。おまけにその場でヤツは私の全てを拒否設定。
くっそぉ!つまんねえ男に、無駄にときめきと時間を貢いだ!
もったいないねぇぇ!
ミーンミーン、ミンミン……。
渋く鳴く長月のミンミンゼミは、僧侶の読経の様に聴こえる。
夏の恋に浮かれ、先に逝った輩を弔うかのような、蝉の声が。伴侶を求めても、誰もきっともういない、ガックリとしながら鳴いてる気がするミンミン蝉。
汗にまみれながら、軍手を草の汁で染め疲れて砂利の上にへたり込む、私を慰めてくれる様。
長月に独り鳴く蝉の声。来世は仲間が沢山いる時に、産まれるんだよと、したたり落ちる汗をタオルで拭いつつ、エールを送った。
ミーン、ミーン、ミンミン……、ジジ。
終