秘密の蜂蜜
いつもお読み頂きありがとうございます。
ようやく恋愛要素が垣間見え始めます。途中、視点が変わりますので少し読みにくいかもしれません。
自室の化粧台の目で侍女が髪を結わうのを鏡越しに見ながら第一皇女フロリアーナは、自分の顔を見つめた。
(あぁ、なんて怖い顔)
先日、父親である皇帝が表した決定に、彼女はまだ納得いっていなかった。
状況は侍女を通して調べさせ把握している。現実問題、現騎士団長であるマッテオが役職を継続するのは難しいことだということも理解している。
しかし、頭では分かっていても心がまだ追いついていなかった。
「フロリアーナ殿下、可憐なお顔が曇っております」
「分かっています、、、少し乗せて」
静かに頷いた侍女は、彼女の眉間の皺に化粧を重ねた。
これからチェーザレが帝国騎士団長の継承式が執り行われる。フロリアーナは式典に参加するため身支度を整えていた。
第一皇女である彼女は、流行の先駆者として人前に出る際には常に新しいドレスを身に纏う。流れるような瞳の形を備えた美貌に人々は魅了され、女性の中では少し高い背筋を常に伸ばす堂々たる佇まいは、ダヴォリア帝国皇女としての彼女の魅力を一層引き立たせていた。
フロリアーナの印象的な赤い唇に合わせたワインレッドの生地にフリルは抑えめに胸元に少し、Aラインのスカートの裾は皇族の証である淡い金を差し色として大きな花弁の刺繍が花吹いている。ドレスと同じ色の手袋で肘まで覆い、耳元とオフショルダーで大きく空いたデコルテはシルバーのみ、髪は纏められ、唇と同じ赤い宝石で作られたティアラが乗っている。
侍女の完了の意を汲んだフロリアーナは、最終確認のため天井まで届く姿見の前に立った。
侍女は美しいと言ってくれる。近衛騎士も相応しいと言ってくれる。
だけど、背伸びしているようにしか見えない色合いに、フロリアーナの胸中は複雑だった。いつまでも子どもではいられないと分かっていても、まだ駄々をこねる幼い心がとても恨めしかった。
「失礼致します」
ドアをノックする音に侍女が対応をすると、第二皇女の侍女が入室を伺っている。フロリアーナは許可を出すと、侍女を携えて妹のクラウディアが一礼をしてから入室してくる。
「お姉様、突然申し訳ございません」
「いいえ、丁度良い時間だったわ」
「それは良かったです」
フロリアーナは、小さく微笑む妹を見下ろした。
ダヴォリア帝国第二皇女クラウディア・レッサ・ダヴォリアはフロリアーナより3歳下の愛らしい少女だった。少女と言うには落ち着いた雰囲気のクラウディアを、フロリアーナは最初は好ましくなかった。クラウディアは幼い顔立ちと小さい身丈に細い手足。何より、初代皇帝と同じとされる淡い金色の大きな瞳が愛らしく、帝国民から多くの寵愛を集めていた。
自分と比べて女性らしさを全て持っている彼女に嫉妬したこともあったが、クラウディアの物静かな気性と聡明で謙虚な姿勢、大きな瞳で微笑みかけてくる彼女を、フロリアーナは愛せずにはいられなかった。
今ではすっかり溺愛した妹をどうやって甘やかせようと兄のテレンツィオと思案することが、一種の日課になっていた。
「とてもお綺麗です、フロリアーナお姉様」
「ありがとう。ディディもとても可愛らしいわ」
「ありがとうございます」
クラウディアは未婚者の象徴であるパステルカラーの基調に、アッシュブロンドの髪色に合わせたブルー系でまとめている。肩までのふんわりとした袖と腰に巻かれたフリルのリボン、そこから大きく広がったベルラインのスカートにもふんだんに空色のフリルがあしらわれていた。フロリアーナと同じように皇帝家の差し色である淡い金色は胸元を覆うリボンの縁に刺繍されている。ふわふわと波打つ青みがかった髪はハーフアップにし、髪飾りには濃い青のリボンが結ばれていた。
フロリアーナは、思った。13歳にしては落ち着きすぎている。
パステルカラーでデザインも可愛らしく、フリルも大いに使われているはずなのに、クラウディアが纏うと神々しい雰囲気を感じる。外国に伝わるおとぎ話に出てくる聖女のようだった。
「どうかされましたか?」
首を横に傾けて小さい顔で覗き込んでくる仕草は、小動物のようで、抱きしめたくなる程愛らしい。加えて、聖女のような清楚な雰囲気に、先程までのもやもやした胸中が晴れていくようだった。
フロリアーナは首を横に振って何でもないことを伝えると、愛しい妹はまた小さく微笑んだ。
「ディディこそ、何か用事でも?」
「実は、お姉様の御加減が良くないと、耳にしまして」
遠慮がちにクラウディアは両手を胸の前で組むんで俯く。
「差し出がましいとは思ったのですが、、、その」
「様子を見に来てくれたのね」
大きな蜂蜜色の瞳を震わせて、小さな妹は首を縦に降る。フロリアーナは胸中で自省した。小さな妹に心配をされるなんて、ダヴォリア帝国皇女として情けない、と。
口元を緩ませながら、綺麗に整えられた髪を崩さないように、フロリアーナはクラウディアの頭を撫でた。
「ありがとう、貴方の愛らしい顔を見たらすっかりと気分が良くなったわ」
「いえ、そんな。お役に立てたのならば」
2人で微笑み合うと、先程までフロリアーナの不機嫌のせいで重かった部屋の空気が軽くなっていった。侍女達は頬笑ましい皇女姉妹を温かい目で見守りながら、式典への準備を再開した。あと数刻ほどで開始の儀が行われるため、皇帝家の者は下々よりも先に皇帝の間に入室していなければならなかった。
フロリアーナは白いレースで飾られた扇を手に持ち、クラウディアを伴う。ふと、部屋を出るときクラウディアが足を止めた。不思議に思ってフロリアーナが振り返ると、妹は見上げながら笑いかけている。
「笑っているフロリアーナお姉様は、とても可愛らしくて素敵です」
フロリアーナは頰が赤くなるのを感じた。
小さい花が咲く様に微笑むクラウディアの方が、よほど可愛らしく魅力が溢れているというのに。
この妹は自分の資質に気付いていない節があり、いい意味で人を翻弄することがある。赤面を誤魔化すように表情を引き締めたフロリアーナは、クラウディアに短く応えて背筋を伸ばし直して歩き出す。
凛とした姉の後ろ姿に、クラウディアは満足したように微笑みを深め、一歩後ろについて歩いた。
皇帝の間には、カールミエ皇帝を始め全ての皇族が集まっていた。
王座にカールミエ、隣の椅子には現皇妃エルメントルート、その横に皇太子テレンツィオ、第一皇女フロリアーナ、第二皇女クラウディア、従者と侍女を伴って皇子アンドレアと第三皇女エルシーリアが並んで立つ。皇帝家の一歩後ろには、宰相のオルフェオと皇帝の近衛騎士が控えている。
王座からまっすぐ伸びる赤い絨毯を中心に、右側に帝国議会の議員が、左側にはマッテオ含む帝国騎士団の騎士が互いに向き合って整列している。双方の下手には、それぞれを支持する貴族たちが連なり、今か今かと式典の主役登場を待ちわびていた。
ざわざわを群衆が賑わす中、マッテオが近衛騎士に目配せをすると、騎士たちは手にしていた槍を数回床に叩きつける。部屋に響く金属音に、皆緊張し居住まいを正した。
「ダヴォリア帝国騎士団副団長チェーザレ・ヴァリ・リタ・ザッカルド」
オルフェオの声が天井に響くと同時に、閉じていた両開きの扉が開き、強い光が皇帝の間に差し込む。
光の中にチェーザレが立っていた。
頭に撫で付けられている青みがかかった髪が一房垂れ、光に反射し銀色に輝く。垂れた銀髪がかかる瞳はつり目気味だが赤茶色が柔らかく甘さを出している。鍛えられた大柄の体に騎士団の格式が一番高い瑠璃色の制服を纏っている。
一歩ずつ足を進めるチェーザレの胸元ではこれまでに授かった多くの勲章が揺れ、瑠璃と白が合わさった大きなマントが風もないのに舞っている。
引き締まった表情で皇帝の間を横切るチェーザレの姿に、誰しもが魅了された。
フロリアーナは表情を変えずに胸中で慄く。彼女も他の者と等しくチェーザレの姿に圧倒されていた。
これでは巷に流れている煩わしい噂を信じてしまう。体に纏う色を除けば、初代皇帝の生まれ変わりで、英雄で、チェーザレこそが次期皇帝に相応しいと感じてしまう。
それほどまでの衝撃だった。
皇帝の前まで進んだチェーザレは誰に言われずとも跪く。オルフェオが勅状を読み上げ、マッテオが騎士団長の証である宝剣をチェーザレに渡す。チェーザレが宝剣を皇帝へ捧げ、皇帝がそれを受け取り、チェーザレに授与することで、騎士団長の職を受け継ぎ、皇帝への忠誠を讃することになる。
その一連を洗練された動作で行うチェーザレを、群衆は各々の思いを口に出すことなく見届けた。
噂を否定し皇帝家の血筋を重視する帝国議会、噂を真実としチェーザレの人望と素質を推す帝国騎士団。両者の睨み合いの真ん中で、チェーザレは表情を変えずに継承の儀式を終えた。
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騎士団長の証である宝剣を授与した後は、宰相の長い話を立ったまま聞かなくてはいけなかった。政では何らかの役職が引き継がれるときには、権限云々を明確にしておかなくてはならない。皇帝陛下含め、帝国の重役全てが揃った状態で公表することで正式な法とする。この場にいる誰かがそれに反した際は、他の者たちがその者を罰せるように、互いに監視、抑制し合っている。
宰相の話に耳を傾けながら、俺は視線だけをゆっくりと動かす。皇族は皆、遠くを見えるように視線を前に向けている。その視線の先には龍王が眠る伝説の島があるとされていた。何かの儀式を行う際は全て、龍王への敬意の表意と報告兼ねて、皇族は皆同じ方向を見つめる習わしになっている。
そんな中、一瞬前方から俺への視線を感じた。その視線の元を辿ると、少し低い位置にある瞳と目が合った。第二皇女クラウディアだ。齢13歳とは思えぬ落ち着いた趣と皇族たる気高さを持ちつつ謙虚な姿勢から、帝国民からの多大な寵愛を集めている。
彼女は初代皇帝と同じとされる淡い金色の大きな瞳が特徴的だった。
そんな大きな瞳が俺の瞳と交わった瞬間、より大きく開かれた。本来であれば皇族と目を合わせ続けるのは無礼に当たるが、何故か目が離せなかった。自身をも見つめ続ける俺を咎めることもなく、見つめ返してくる。
宰相の声が遠くに聞こえ、鼓動する自分の心臓が、嫌にうるさく聞こえた。
その明るく淡い金色の瞳は年齢に似合わない奥ゆかしさがあり、見つめ続けていると何かの深みに捕らわれてしまうような感覚だった。
透き通るその色は、金というよりはもっと別の何かに似ている。
なんだろう、確かあれは、
「以上。チェーザレ・ヴァリ・リタ・ザッカルド」
「っ、はっ」
宰相の呼びかけで現実に引き戻された。
締め括りにまた長い規則を述べる宰相の話を聞く振りをして、クラウディア皇女を見直すと、彼女は他の皇族と同じように視線を前に向けていた。その瞳の色は変わらず淡い金色を帯びていたが、さっきのような吸い込まれるような感覚はしなかった。
ようやく宰相の話が終わり、カールミエ皇帝から順に皇族が専用口から退室をしていく。その様子を一礼しながら見送ると、また視線を感じる。誰かと探ると、今度は第一皇女フロリアーナだった。彼女は、外国から嫁いできたエルメントルート皇妃の色を強く引き継いだ濃い若草色の瞳で俺を一瞬だけ見て、直ぐに翻していく。
その瞳には憤りと憎悪にも近いものが感じられた。思い当たる節がなく内心首をかしげていると、彼女の後ろを歩くクラウディア皇女が、退室していく。やはり真っすぐと前を向いたままだった。
あれは、何だったのだろうか。
ほんの一瞬だったが、確かに俺はクラウディア皇女の瞳に見つめられ、そして惹きつけられた。
思い返すと、鮮明に浮かぶ大きな瞳。淡い金色とされているが、俺は違う色が思い浮かんだ。それが何なのか思い出そうにも思い出せず、茫とした頭のまま俺への祝賀と称した舞踏会が行われる公城へ向かった。
城内は大きく分けて3つの領域があった。
一番奥は、皇族たちのプライベート領域で皇帝と皇妃は本城、他の皇族は皇城、側妃とその親族は後城で暮らしている。中央には舞踏会や晩餐会、皇帝の間のような儀式や執務、皇妃が開催するサロンなどを行う公城。そして城に勤める使用人たちが住まう宿舎と馬や武器を保管する厩舎は、利便性と汎用性を考慮して複数の場所に設置されていた。
この中で一番大きな領域を占めているのは中央の公城だ。祝祭などを行う際は一般の帝国民にも公城の広場が開放されるため、皇族を一目見ようと多くの民が集った。
今晩開催される舞踏会は公城の中でも一段と大きい大広間で行われている。先程長々と宰相の話を聞いた後だというのに、会を取り仕切る帝国議会の長の話が、また長い。ようやく終わったかと思えば、皇帝主催の舞踏会だけあって、国の重役を担う大貴族が多く参加しており、新帝国騎士団長の俺は挨拶周りを強いられた。
外向けの笑みを顔に貼り付け、何度も同じような挨拶を繰り返し、一段落したと思ったら、今度は社交界で名高い名家の人間が挨拶をしに来た。ほぼ全ての家が未婚の娘を伴い、縁談を匂わせてくる。中には体に自信のあるご令嬢が思わせぶりな姿勢を取ってくるが、全て紳士的な対応をした。これも一段落した頃、騎士団の仲間が集まるテーブルに向かうと、懐かしい顔に会うことができた。
彼は相変わらずの細身に女性らしい顔立ち、長いプラチナブロンドを三つ編みにて前に垂らし、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。変わったところといえば、最も格式が高い瑠璃色の監査会の制服を身に着けているところだ。旧友のロレンツォは今、帝国騎士団監査会監査部門の部門長を務めている。彼もかなりの早さで出世し、次期宰相の道を確実に歩んでいた。
俺に気付いたロレンツォは瞳だけで合図を送り、俺はそれに片手で答えた。
「久しぶりだな、ロレンツォ」
「えぇ、お久しぶりです。この度はご就任おめでとうございます。ザッカルド団長」
「止めろよ、寒気がする」
形式ばった礼に文句を言うと、ロレンツォは意地悪く口元を緩めて顔を上げた。近くを通った給仕人から飲み物を2つ受取り、俺も意地悪く口元を上げて1つ、ロレンツォに渡した。
「若き新騎士団長に」
グラスを持ち上げるだけの乾杯をし、俺は一口で飲み干す。マナー違反だとロレンツォは眉間の皺を深めるが、近くに気兼ねない騎士たちしかおらず、作法に五月蠅い貴婦人が遠くにいることもあり、お咎めはなかった。おかわりを給仕人から受け取り、一休みにとテラスに近い壁に2人で並んだ。
「随分と活躍してるみたいだな」
「まぁ、否定はしない」
「これはこれは、素晴らしい。監査会でもその名高いお噂はよく耳にしておりますよ」
「ローリー。うちの副官に似てるぞ、それ」
「はは、すまない。こちらはこんなやり取りばかりだからな」
「そっちも色々とあるからな」
冗談を言い合いながらと笑っていると、ロレンツォは周囲に気付かれないようにある場所を指差してきた。指先を追うと、そこにはウーゴ・ルゼ・イッツォが一人のご令嬢に笑顔を向けていた。
自然と顔が歪む。ウーゴは騎士学校時代の同期だ。やれ家柄が自分の方が上だとか、やれ本当は自分の方が強いだとかで難癖つけてきたが、いつも返り討ちにしてきた。
卒業してからは音沙汰なかったが、まだ因縁を持ち続けているのか。今だって、先程俺に紹介されたどこぞかの名家のご令嬢を一生懸命口説いている。どうやら俺よりも自分の方が魅力的だと主張しているようだった。
面倒な奴も参加してたもんだ。
「少し酔いを醒ましてくる」
「一気に煽るからだ。まぁ、適当に伝えておく」
「気が利く部門長殿だな」
「お褒めに預かり光栄です、騎士団長」
空になったグラスをロレンツォに渡し、ウーゴに見つかる前にすぐ横のテラスへ出る。初夏の夜に吹く風はまだ涼しくて、心地良かった。
後ろでカーテンが閉まると、テラスは隙間から出る照明の光が少しあるだけで、薄暗くなる。庭園に繋がる階段を降りると大広間からの喧騒が遠のき、中央に設置されている噴水までくると水音が程よくそれを消し去ってくれた。
噴水の縁に腰を降ろすと、思っていた以上に疲れていたのか溜息が出てきた。両手を後ろについて空を仰ぐと、強く光る月が見える。
皇帝からの勅状を受け取ってから、怒涛のように日々が過ぎていった。
通常の業務に加え、騎士団長の引継ぎをマッテオ元団長から受け、俺の体に合わせた団長の制服を仕立てるついでにリッカルドが示しが付かないとかで新しい紳士服も作る羽目になった。
更に騎士団長になると公表されてからは各名家から晩餐会やら舞踏会やらのお誘いが増えた。律儀にリッカルドが一旦受理するもんだから、一つ一つ断りの手紙を書くのも面倒だった。
確かに全て敬意をもって対応をしなくてはいけないのは分かるが、少しぐらい融通が利くところは受取を拒否すればいのに。本当に優秀な副官殿だ。
あいつ、置いていこうかな。
「はぁ」
大きな溜息だ、幸せが逃げていきそうだ。
その瞬間、高い木が生い茂る物陰から音がした。直ぐに崩していた態勢を正し、音がした方に集中する。賊や装備した兵隊のような金属音はしなかった。位置からして俺の胸ぐらいの位置だから小柄な何かか、屈んでで身を隠しているのか。
ここは城内だ。特に今日は皇帝主催の舞踏会ということで、いつも以上に警備は厚くしている。そのため抜けはないはずだ。なんせ、忙しい俺が何回も練り直した配置だ。万一があっても、招待客が気付かずに事を済ませるよう指示もしてある。
更に耳をすませるとその何かが枝を踏む音と共に、大広間からダンスの曲が流れてくるのが聞こえた。軽食後のダンスが始まったのだろう。一応の主役な俺がいないのはまずい。不審なものを急ぎ対処してから、大広間に戻ることにしよう。
そう意を決して一歩足を踏み出した瞬間、一層音を大きく立てて茂みから俺の方にその何かが飛び出してきた。すぐさま警戒態勢を取り、刃物で斬りつけられても対処できるよう腹に力を入れた。
「きゃっ」
「なっ」
想定していた衝撃はなく、甘い匂いと共に軽い何かが俺の胸に飛び込んでくる。
思わず受け止めるが、その軽さに反応が追いつかず、それを抱えたまま後ろに倒れこんでしまった。若干痛むお尻を気にしながら、胸に抱えたものを放さないよう腕に力を入れると、それは一度だけ体を震わせた。
「あ、あのっ」
甘い、甘い、飴のような匂いがする。
「も、申し訳ございませんっ。私っ」
力を緩めて腕の中を確認すると、大きな瞳が俺を見上げていた。
青いドレスから露出した白い首と覆われた細い腰、ハーフアップに整えられた青みがかった灰色の髪はふわふわとして、端には枯葉が付いている。小さい顔には控えめに佇む薄い色の唇。月に照らされる金色の瞳は、透き通っているのにどこか吸い込まれるように深くて。
「あぁ、思い出した」
呆然としている彼女を、壊れないように腕の中に閉じ込める。
「蜂蜜だ」
「えっ」
鼻を白い首に近付けると、甘い香りが強くなった。少し嗅ぐと、それはとろとろと鼻から口の中を通り、まるで甘い飴を舐めているようだった。
たまらない。頭の中に溶けた砂糖菓子が流れ込んで来てるようで、くらくらとする。
もう一度鼻から息を吸うと、小さい体がびくりと震えるのが分かる。それでも抱きしめる腕を緩ませることは出来なかった。
ほんの少し腕の力を加えると、彼女は俯いてカタカタを震え出してしまった。
あぁ、やばい。
思わず抱き締めてしまったが、帝国のクラウディア皇女殿下の匂いを嗅いだ上にあろうことか怯えさせてしまうなんて。
団長就任日に、これはやばい。
「大変失礼いたしました。クラウディア殿下」
「あっ、、、いえ」
胸中で冷や汗を大量に掻きながらも、何食わぬ顔をして壊れそうな彼女の小さなの体をそっと噴水の縁に座らせ、その場で跪いた。これだけで許されるはずもないが、誠意をもって謝罪をしなければいけない。
次の団長は誰を選出しようか。優秀な部下たちの顔を浮かべながら、俺はひらすら頭を垂れた。
「そのように謝らないで下さい。私が不審な動きをしていたのがいけないのです」
鈴のような透った声がゆっくりと発せられた。顔をあげると小さな唇がそっと微笑むのが見えて、心臓が大きく鼓動した。
本来ならば未婚の淑女を、しかも皇女殿下を抱擁したとなると死罪は免れないはずだが、紡がれた言葉は御慈悲そのもので。本当に、聖女のような方だった。
「しかし」
「いいのです。さぁ、戻りましょう。主役のお姿が見えないとなっては陛下が困ってしまいます」
両手を前に組み、クラウディア皇女は立ち上がる。が、歩き出す前に体が傾いてしまい、咄嗟に手を出して地に倒れこむのを防いだ。
「あっ、申し訳ございません」
「いえ、私の方こそ。失礼致しました」
下々の俺によく謝る皇女殿下だ。これが帝国民から寵愛を集める魅力の一つか。
勝手に触れることすらも許されないはずの体に何度も触れてしまっている。手から伝わる彼女の体温が、焦る俺を更に追い詰めてくる。
先程も思ったが、ほんの少し力加減を間違えただけで、砕けてしまいそうに体の線が細い。その上、鼻を擽る甘い香りがなんとも言い難い。さっきから自分の心臓が五月蠅くなるのが気になる。
見上げてくる大きな瞳から逃げようと視線を反らすと、倒れた拍子に裾が上がってしまったスカートから細い足が見えていた。淑女が足を晒すことは恥だ。あまり見ないように裾を戻そうとすると、足首が軽く赤くなっている。
「殿下、これはっ」
「あっ、、これは、その、、、」
まさか、賊に襲われたのだろうか。真意を確かめようとクラウディア皇女の顔を覗き込むと、白い首筋が赤く染まる。もしかして、何か口に出来ない目にあってしまわれたのか。直ぐに医務室へと運ばなくては。
無礼を承知で抱き上げようとすると、彼女は何かを守るように自分のお腹を両手で抱え込んだ。不審に思い彼女の腹をよく見ると、何かがもぞもぞと動いている。
しばらくして、重なる細い腕の隙間から、彼女の髪色に似た毛並みの猫が顔を出してきた。
「、、、子猫?」
子猫は俺の問いに肯を表すように小さな声で鳴いた。さらに顔を赤くさせたクラウディア皇女は、諦めたように両肩を落として、俯きながら子猫を抱き上げ俺の前に差し出した。
少し土埃で汚れているがかわいらしい子猫は、青いの瞳で俺を見上げながらまた小さい声で鳴いた。
「も、申し訳ございません。私、、この子の声が木の上から聞こえたものですから」
騎士である俺に涙を浮かべながら申し開きをする皇女殿下が、叱られている幼い訓練生の姿と重なった。巷でよく聞く彼女の姿とはかけ離れた、年相応の少女がそこにあった。
おそらく、子猫が木登りをして降りられなくなったのをクラウディア殿下が見つけた。どうやったかは知らないが、何とか子猫を救出した際に足を捻ってしまった、といったとこなんだろう。なぜここに1人でいるのかは不明だが。
良かった、俺が考えてるようなことじゃなくて。
「この子の処遇は、ザッカルド様にお任せ致します。なので」
「ご安心ください、ここにいらしたことは誰にもお話し致しません」
「ありがとうございます!」
目じりに涙を浮かべながら、クラウディア皇女は安心したように笑った。
彼女の細い指を舐め始めた子猫に一度頬擦りをし、彼女がまた俺に子猫を差し出してくる。俺は微笑みながら受け取らずに、子猫ごとクラウディア皇女を片腕で抱き上げた。
「ザッカルド様、私一人で歩けますっ」
「いけません、そんなに赤く腫らしているのです。万一のことがあったら、大変です」
抵抗する彼女を納めるように腕に力を加えると、諦めたようでクラウディア皇女は大人しくなった。彼女は自身の腕の中にいる子猫を愛しそうに撫でている。
月の光と、噴水の水が反射した光とが、彼女を優しく包む。蜂蜜色の瞳と青みがかった灰色の髪が照らされ、聖女と称されているの頷けるほど、クラウディア皇女のその姿は神々しくもあり、どこか儚げだった。
俺は慎重に抱き直し、騒ぎにならないよう人気を避けながら皇族の控室に向かおうとすると、彼女はそれを止めた。
未成人でダンスは踊らずとも、大広間には戻ると言う。足のことは知らせずに皇族としての役割を全うしようとする彼女の意志を尊重し、大広間の裏へと繋がる通路のそばで彼女を下ろした。
「お手数をお掛けしました」
「皇女殿下をお守りするのが、我々騎士の務めです。ただ、ご無理はなさりませんように」
「、、、はい」
俯くクラウディア皇女の頭を思わず撫でそうになったところで、通路の先から侍女の姿が見えた。どうやらここでお役目は終わりのようだ。
頷く彼女の腕から子猫を抱き上げると、それを追うように大きな瞳が俺を見上げてきた。
「この子は、私がお預かりしましょう」
もちろん内緒で、と付け加えて人差し指を自分の唇に当てて秘密の仕草をすると、クラウディア皇女は一瞬呆気に取られた表情をした後に顔を崩し、同じように人差し指を小さな唇に当てた。
その微笑みは小さな花のように可愛らしく、仕草は幼い子どものように無邪気だった。
「それでは、失礼致します」
足の腫れなど無かったようにクラウディア皇女が腰を折り踵を返した。俺もその場で跪く。
触れた体温と抱き上げた細い体の形が右腕に残っている。
白い首筋と足が脳裏に焼き付いて離れない。
見上げてくる蜂蜜色の瞳に吸い込まれる感覚が忘れられない。
甘い、甘い、飴のような香りが鼻に、口に残っていて、まだ彼女を抱き締めているようだった。
大広間からは1曲目のダンスが終わろうとしている音が聞こえる。
早く戻らなくてはと思いながらも、体は言うことを聞いてくれず、クラウディア皇女の足音が聞こえなくなるまで、俺は頭を垂れ続けた。
チェーザレは案外ちょろい疑惑が出てきしまった。