誓い
頬に触れた小さな手は思った以上に冷たく心配にもなったが、熱に侵されそうな俺には心地よかった。自分の手を重ねて頬を擦ると、クラウディア殿下は少し驚いた表情をした後に空いていた手で俺の髪に触れる。小さな手に細やかな力が加わると、体の力が抜けた。
薄いドレスの布越しに伝わってくる膝の細さと熱。小さな手が何度か俺の髪を撫で、その温もりが心地よくて俺は目を閉じた。
視界が暗くなると、クラウディア殿下の手の感触が鮮明に感じると共に、頭の中にここ数週間の出来事が浮かんできた。
ノルドハイム国の申し出、魔物の対処、月光で輝く噴水、抱き上げたクラウディア殿下の小さな体、真っ赤に燃える不死鳥、呆れた親友の顔と副官の嫌味な笑み、書類の山、頭に響く低い声ともう一つの声、擦れた視界の中で迫るトラックと鮮明な血。
そしてここ最近まともに見ていない黒髪と紅い瞳。帝国では物珍しい、美しいその色合いを最後に見たのは、今にも泣き出しそうで歪んだものだった。
『僕が慰めようか』
好きにしろと答えた。それにヴィットーレは従うのだろうか。いや、俺がどう答えようとあいつはあいつの好きにするし、実際に行動にも移した。俺がいなくともカーリンの支えになる。あいつなら適任だ、俺じゃなくとも、
「これは私の独り言です」
思考の途中で、透き通る声が聞こえた。目を開けて応えようとするが、そのままでいるようにと髪を撫でていた手が俺の目の上で止まった。
「私がこのダヴォリア帝国の第二皇女として自覚を持ったのは、八つになって間もない時でした。当時私は自身の我儘で家族と周りの方々に大変な迷惑をかけました」
手が外れ、今度は俺の髪を一房ずつ丁寧になぞり始める。少しくすぐったいが、話の続きを聞きたくてそのまま目を閉じていた。
「我儘で、幼稚で。でもあるきっかけがあり私は変わらなくてはいけないと思いました。皇女として必要な知識と誇り高い志、慈善に身を注ぎ、今では帝国の方々は私を聖女と呼んでくれます。そのような高貴な名で呼ばれることを光栄と思いますが、同時に怖くも感じます」
髪をいじる手も止まり、透き通る声も止まった。ゆっくりと目を開けると今度はそれを制止されることもない。開いた視界の中はいつもより俄然低い視線と木枝。夜が深いからか葉は緑ではなく黒に見えた。
「私のような者が”聖女”と呼ばれていいのだろうか。いつか私は”聖女”に相応しくない言動をとり、帝国民を裏切り、失望させないだろうか。そう考え出すと、いけないと分かっていても嫌なことばかりが頭に浮かんでしまい」
言葉が切れ、頭の下の膝が微かに動く。もしかして痺れてしまったのだろうか。頭を上げようと体勢をずらすと、俺を見下ろす小さな顔が目の前に現れた。暗い空に小さな星の輝き、その中に微かに光る蜂蜜色の瞳と笑みを浮かべる薄い唇。
「時折、逃げ出してしまいます」
視界の端に映る俺の前髪を、小さな指がどかす。額を滑り耳の横に垂れた前髪が、殿下の手で整えられた。
細い指が耳の裏をなぞる感覚に体が震えるのを我慢しながらも、彼女の言葉を頭の中で繰り返した。
俺は、逃げている、、のか。
「皆さまが私を”聖女”と呼んでくれるのなら、私はそれに応えたい。カーリン様や貢献者の方々のような力はないかもしれないけど、必要として下さる民がいるのなら。それが私に課せられた役目だと、ずっとそう思い日々を過ごしてきました。ですが」
前髪を耳にかけた小さな手は、そのまま頭を撫でるように首筋へと移る。
「クラウ、ディア」
「ディ、と」
名を呼び、それを正されると小さな手が俺の頭を抱え込んだ。それに従い体を回すと肌触りの良いドレスの生地が頬に触れ、俺の頭は細い腕の中に納まった。濃い灰色のドレス越しに薄い肌色が透けて見えて思わず体を引こうとするが、ぎゅっと細い腕に力が入る。その微かな力は直ぐに振り払える程度なのに、俺は抵抗できなかった。
「帝国が誇る最強の騎士であるチェーザレ様はこんなに苦しんでいる。私しか知らない貴方を知って、見て、触れられて。嬉しいと思ってしまう。民の”聖女”で在りたいのに、貴方だけのものにもなりたい私もいるのです」
更に細い腕に力が入り、顔全体にクラウディア殿下を感じる。髪に細い指の感覚が、頬に体の熱が、息をすれば甘い香りが、俺を包み込んだ。
「私は、”聖女”失格です」
少し泣きそうな声色に俺は無造作に垂れ下がっていた腕を細い腰に巻き付けた。それに彼女は抵抗することなく、俺の頭を抱える腕の力が少し強くなる。
帝国の”聖女”として目の前の小さな体に圧し掛かっているのをずっと彼女は我慢していたと頭では理解できていた。彼女が聖女失格なんて、あり得ない。そんな簡単なことすらも声をかけてやれないほど、ずっと見て見ぬふりをしてきた気がして、彼女の言葉を否定したかったが、うまい言葉が浮かばなかった。
「"聖女"として貴方を救わなくてはいけない。ですが、」
震える声に俺は細い腰を壊さないように力を入れた。濃くなる熱と香りに頭が朦朧としながらも、俺に接してくれる彼女の優しさが嬉しくて、泣きそうで、誤魔化すようにもう少しだけ腕の力を込めた。
こんな俺を、彼女は受け入れてくれる。そう思うと、鼻の奥が痺れて、歯が震えてしまいそうだった。
「私の幼稚な我儘です、聞かなくてもいいので。どうか」
髪に、何かが触れた。
「もう少しこのままでもいてください」
それがクラウディア殿下の唇だと分かった時には、俺は腕の力を込めた。細い体だ、力を入れれば簡単に折れてしまう。それを知っていても、俺は腕の力を抜くことは出来なかった。癇癪を起した子供のように、ただただ感情を曝け出して、泣き叫んでしまいたかった。
優しくも儚いダヴォリア帝国の”聖女”。この人を守りたい。そう強く思っていたのに今はその高き慈悲の心で俺が守られている。そう悟ってしまい、悔しくて、自分が許せなく、情けなくて、自分がどうしようもなくちっぽけな存在に思えた。
「今、この瞬間だけ。私は貴方だけの"聖女"です」
ふわりとまた髪を撫でられる感覚がする。それに俺は額を少し彼女の体に擦りつけた。
あぁ、本当に俺は何をやっているんだろう。完全に、俺の負けだ。なんの勝負かと聞かれたらうまく答えられないが、とりあえずクラウディア殿下には敵いそうにない。こんなはずじゃなかった。もっと格好良く殿下をお守りする騎士でいるはずだったのに。
ゆっくりと何度も子どもをあやす様に俺の頭を撫でる小さな手が、俺の何もかもを溶かしていくようだった。くだらない意地も、行き過ぎたプライドも。
「ディ」
「はい」
「俺は、強い」
「えぇ。私が知っている中で一番の騎士です」
「だが、行き過ぎた力は脅威になる」
「そうでしょうか」
「俺が、、、怖くないのか」
薄いお腹に向けて問われた問いに、彼女は少し考えてから否と答えた。それが彼女の気遣いだと分かっていて、俺は嘘だと短く反論する。駄々をこねる子どものような俺の答えに彼女は笑いながら謝った。
「正直、先程のチェーザレ様は少し怖かったです」
「やっぱり」
「ですが、すぐに怖くなくなりました」
「なぜ」
「それは、、、貴方が、とても悲しい瞳をしていたので」
困ったような笑みを浮かべる彼女は、絡まった俺の髪を梳いていく。ゆっくりと流れる小さな手が微かに俺の唇に触れると、ばつが悪そうに俺と合った視線を外した。腰に回した手で背を撫でると、びくりと小さな体が跳ね上がる。頬を赤くして、何をするんだと口をぱくぱくとさせながら視線を戻してくる。それが可愛くて何度か背を撫でると、叱るように薄い唇がへの字を作った。
その反応も嬉しくてこのまま背を撫でていたかったが、ついにいけませんと一瞥され、また頭を抱えられた。今度は悪戯をせずに顔を上に向けると、彼女は俺の髪から手を外し頬に触れた。小さな手は温かくなっていた。
「まるで怪我を負った獣のようでしたよ」
「そう、、か」
「今も、とても苦しそうです」
「そんなはずはない。ここは、とても心地良い」
軽口を吐いて薄い腹に顔を埋めてわざと音を立てて彼女の甘い香りを嗅ぐと、今度は彼女の口から嘘ですと反論が返ってきた。嘘ではないと証明するために口元を上げると、虚勢を張っていると分かっている困った笑みが返ってきた。
頬に触れた手に自分のを重ねた。握りしめるとすっぽりと収まってしまうくらい小さな手は、温かく鼻を寄せると甘い香りがした。
「貴方をこのようにしているなんて、特別な方なのですね」
「特別、、、」
同じ前世の転生組としては特別な存在といえば特別だが、別に恋愛感情を持っている訳ではない。お互いの利害が一致しているだけだし、前世と同様に友情以上はありえない。ただ、放っておいて無茶して死なれるのが嫌なだけだ。
「否定されないのですか」
「、、、妬いた?」
「いえ」
妬いてないのか。残念だ。
鼻を寄せる小さな手の指の隙間から彼女の顔を窺うも、変わらず穏やかな笑みを浮かべている。本当に妬いている様子はない。いじけるように鼻を手に擦りつけるとそれに応えるように小さな指が俺の頬を撫でた。
「とても素敵なお方ですから、チェーザレ様の特別であっても不思議ではありません」
「、、、どうだろう」
確かに、一般的に見れば魅力的な存在だ。虹色に輝く黒い艶髪に白く細い四肢、本人が持つ力も合わさって求める者は多いだろう。天真爛漫な性格で淑女からは遠いかもしれないが、それが魅力の一つでもある。前世でだってよく振り回された。仕方がないと付き合って、笑い合って、くだらないことを言い合って。
あの時はよく声を荒げて笑っていた。そんなあいつを俺は、
「傷付けた」
思った以上に情けない声が出た。誰をとは敢えて言わなかった。彼女も深くは聞いてこなかった。
「きっと、これからも傷付ける」
それがカーリンなのか、他の者なのか。クラウディア殿下なのかも分からない。だが、俺の行き過ぎた力は持て余されている。魔王を倒した後、今度は俺が世界の脅威になるかもしれない。現についさっき、殿下の侍女を殺そうとした。制御できていない、獣だ。
「でしたら、謝らなくてはいけないですね」
分かっている。だが、どうにもタイミングが合わない。それに、
「許されるだろうか」
「それは、、、分かりません」
だよな。
「ですが、それでも謝らなくてはいけません。そのままでは、きっともっと傷付いてしまいます。あのお方も、貴方も」
口調は柔らかいのに彼女の言葉は厳しく、俺の胸に重く響いた。
カーリンと最後に顔を合わせてから、かなり時間が空いてしまった。今更どう言えばいいのか。
「もし許して頂けなかったのなら、また一緒に考えましょう」
「一緒に?」
「はい。許して頂けるまで」
「、、、それでも駄目なら?」
わざと困らせるような俺の問いにう~ん、と首を傾げながら彼女は何かを思案している。
最後の最後まで許してもらえなかったら、諦めるしかない。償いとまでは行かないが魔王も俺一人で倒しに行こう、その後は旅に出て彼女たちの目の前から姿を消せばきっと誰も傷付けることはない。
そう考えていると、小さな手から香る甘さが増した。なんだろうと彼女の様子を見上げると、これ以上にないくらい顔全体を赤く染めていた。何か言いたげに薄い唇をもごもごとさせているが、中々次の言葉が出てこない。
「ディ」
催促するように小さく呼ぶと、彼女は覚悟を決めたのか一度喉を鳴らしてから口を開いた。
「わ、私がっ、、いますっ」
少し裏返った声に俺は目を見開いた。
「あのお方が特別な存在ということは承知しております。ですが、、、私もっ」
湯気が出そうなくらい首筋まで赤く染まった白い肌。そこに空いている手を伸ばすと触れる前に、小さな手で遮られてしまった。
今の体勢の方がよほど恥ずかしいと思うんだが。
「私が、ずっとお傍に、、そのっ、、、ですから」
「本当に?」
「は、はいっ」
「こんな俺でも?」
今日は格好悪い面しか見せていない。騎士としても失格、一人の男としてもあわや人間としても失格になるところだった。友と仲直りもうまく出来ない、自分勝手で、強情で、それでも差し出された小さな手に縋ってしまう弱い人間だ。
俺の手を遮った小さな手が、先程触れられなかった赤く染まった首筋に誘う。触れるとやはり熱かったが、それはそれで気持ちがいい温もりだった。
「こんな、なんて仰らないでください。私はどんなチェーザレ様でも」
俺の大きな手を小さな両手で抱え込みながら、クラウディアはゆっくりと微笑んだ。その笑みは紛れもなく、一人の女性としての笑みだった。
どんな俺でも、か。その言葉が今、どれだけ危険なのか分からないのか、この子は。俺が、一人の男として何かしてくるとは思わないのか。きっと、思わないのだろう。信じているんだ、俺を。
ほんとうに、俺の”聖女”は。
「ディ」
「はい」
「いつか必ず」
迎えに来る。
最後までは発せず、代わりに強くクラウディアを見つめ返した。ぱちぱちと何度か濡れた蜂蜜色の瞳が瞬きをしてから、薄く開いていた唇がゆるりと上がった。
「はい、お待ちしております」
いつもの温かい太陽のような笑みが彼女の顔に浮かんだ。ようやく見れたその笑みに俺は起き上がり座り直す。今度は2人の間に距離はない。
「その時は、全てを」
小さな体を抱き寄せ、耳元で誓うように囁いた。小さな耳がかっと赤く熱を持つと、俺の聖女は一度だけ首を縦に動かした。そんな様子に安心し、俺は彼女の温もりを確かめるようにゆっくりと目を閉じた。
-我は破壊にしか身を置けない-
-だとしても、貴方と共にいたい-
-お前たちの命は短い。我も寿命が尽きる-
-そうですか、、、でも、-
例の声たちは、荒地の中で見つめあっていた。少し高めの声が、低い声の問いに陽気に返す。
-案外、長生きするかもしれませんよ。お互いに-
大きな黄金色の瞳を輝かせる彼に、低い声は呆れた唸り声で応えた。




