千春と二コル
千春が小さく肩を落として、小さくため息を零す。
千春がおもむろに笠を取った。千春の艶のあるお団子頭が露わになる。
千春は垂れた前髪を耳に掻き上げた。
「さっ、やるわよ。二コル」
道場の表門に立っている千春が、二コルの肩に手を置く。
片手で、血の様な不気味な魔方陣が書かれた赤い魔導書を開く。
茜ちゃんとオラを見た後、オラに歩み寄る。
「俺は見学といこうか。千春の魔術がねぇと、俺は戦えねぇからな」
二コルは踵を返して、道場の表門の柱に凭れ、腕を組んだ。
二コルは鼻で笑って、鋭い歯を見せてニヤリと笑う。
千春が魔導書を開いたまま腕の伸びをしながら、オラの横を通り過ぎようとしていた。
「汝を縛れよ」
千春はオラの肩に手を置いて、魔導書を開いたまま呪文を詠唱した。
すると、魔導書が妖しく紅く光った。
「ぐっ」
オラの身体の上に重い力がのしかかり、オラは片膝を付いて、竹刀を地面に突き立てる。
押し潰されそうになりながらも、歯を食いしばって、手足に力を入れて必死に抗う。
そして、オラの心を覗くような、背筋に寒気が走り、頭痛がして額を手で押さえる。
「暴れると困るもの。光秀くんが暴れて、大事な生贄を傷つけちゃったら、生贄の価値ないものね。そこで大人しくしててね。光秀くん」
千春が片手で魔導書を閉じて、オラにひらひらと手を振って微笑み、千春はオラの横を通り過ぎた。
こいつ。
オラの心を覗きおった。
一瞬、ぞくりと頭痛がしたわ。
茜ちゃんは、オラが守るんじゃ。
「あ、茜ちゃんに、手を出すな……」
オラは、手足を震わせて立ち上がり、茜ちゃんに振り返る。
歯を食いしばって茜ちゃんに手を伸ばそうとするが、また重い力がのしかかる。
オラは片膝を付いて、竹刀を地面に突き立てる。
「し、信じられない。術に縛られているとはいえ……光秀くん、なかなかやるじゃない」
千春が動揺して振り向き、魔導書を地面に落とした。
震える手で、魔導書を拾い上げる。
「案ずるな。こいつに抵抗力があるだけだ。大したことねぇ」
鼻で笑う二コルの皮肉が、矢のように飛んでくる。
「負けた? あたしが負けた……?」
茜ちゃんは、オラに負けたショックで俯いたまま、何か呟いている。
よほど、オラに負けたことがショックじゃったんじゃろ。
「あなた、顔を上げてごらんなさい。あら、可愛い娘さんね。茜ちゃんか」
千春が屈んで茜ちゃんの顎に手の指を添えて、茜ちゃんの顎を少し上げる。
茜ちゃんの瞳が、悲しい波で揺れていた。
そして、千春が茜ちゃんの額に人差指を突き刺して、笠を持っている手で魔導書を開いて頁を捲る。
「汝に呪をかけよ」
千春が静かに呪文を詠唱した。
また魔導書が妖しく紅く光り、茜ちゃんの額に熱そうな音を立てて蒸気が昇る。
「あぁぁぁぁぁ。熱い、熱いっ! やめて、やめてぇぇぇぇぇ!」
茜ちゃんのもがく声が、オラの眼に焼き付く。
茜ちゃんは抗うこともできず、苦しそうに口から泡を吹き、悪魔のように白い眼を剥いている。
こんなの茜ちゃんじゃない。
見てられず、オラは茜ちゃんから顔を背ける。
「やめろぉぉぉぉぉ!」
オラは竹刀を握りしめて、千春を睨み据えて怒鳴った。動けん身体がもどかしい。
オラの眼に涙が滲んで、頬を涙の粒が伝い、地面に雪の結晶となって涙が染みる。
オラは何もできない自分が悔しくて俯く。
顔を上げると、歯を食いしばって両手で竹刀を握り締め、千春を睨み据える。
千春が呪文を唱え終わり、片手で魔導書を閉じて立ち上がる。
千春が額の汗を手の甲で拭って、深く息を吐いた。
「さてとっ。茜ちゃんに呪いも掛けたし、光秀くんは術が効いて動けないだろうから。これで、安心かしら。私、十三人目の生贄探しに疲れちゃったわ。少し休むわね」
千春がふらつきながら欠伸をして、道場の縁側に座る。
千春の艶のあるお団子頭が陽光で煌めく。
笠を自分の隣に置くと、頭が波のように揺れてうたた寝している。
あの女。呪文で、力を浪費したちゅうんか?
だとしたら、チャンスじゃが……
オラはこの様じゃ。
オラは、固唾を飲んで茜ちゃんを見守っていた。
茜ちゃんは竹刀を地面に突き立てて立とうとしていた。
しかし、茜ちゃんは力が抜けたように地面に崩れる。
茜ちゃんの手から離れた竹刀が、軽い音を立てて地面に倒れた。
茜ちゃんは必死に抵抗して、両膝と両手を地面につき、俯いて息が荒い。
やがて、茜ちゃんは唸って顔を上げて、オラに手を伸ばす。口許からは涎が垂れている。
茜ちゃんの額にみみず腫れしたような呪の文字が浮かび上がり、茜ちゃんが気を失ってうつ伏せに倒れた。
「ご苦労。いい仕事っぷりだったぜ」
茜ちゃんを見届けてから、道場の柱に凭れて腕を組んでいた二コルが柱から離れる。
ズボンのポケットに両手を突っ込んで、鋭い歯を見せて不気味に笑いながら、茜ちゃんに歩み寄る。
茜ちゃんの傍らに来ると、二コルは屈んで茜ちゃんの顎に手の指を添えて、茜ちゃんの顎を少し上げる。
茜ちゃんの額の文字を見下ろして、二コルは鼻で笑った。
二コルの声で目を覚ました千春。
懐から扇を取り出して広げ、小さく扇いでいる。
「あら。茜ちゃん、光秀くんが好きみたいよ? 二コル。勘助の屋敷に連れて行く前に、光秀くんに私たちが何者なのか教えてあげたら?」
千春は口許に手を添えて、扇を扇ぎながら、茜ちゃんを見て苦笑した。
こいつ。
茜ちゃんの心までも読みおった。
余計なことしおって、額に彫られたあの眼か?
「ああそうだな。この女が死ぬ前に教えてやるよ。お前、この女が好きなんだろ?」
二コルが茜ちゃんの顎から手を離し、おもむろに立ち上がる。
ズボンのポケットに両手を突っ込んで、オラを見て不気味に笑っている。
二コルの右眼、蜥蜴のような眼が見開く。
「お、お前らの、も、目的は、な、なんじゃ……?」
オラは立ち上がろうと手足に力を入れて、肩で息をして手足が震える。
なんとか顔を上げて、二コルを睨み据える。
「始めに言っとくが、俺たちは道場破りじゃないぜ? 道場破りがこんな手荒なことしないだろ? もともと、千春は人形師だったんだ。まあ、千春の親父が黒魔術に手を出して、人形に命を吹き込もうとしていたがな。やがて、千春の親父は禁断の黒魔術を完成させ、一冊の魔導書と魔具を作った。ならず者が噂を聞いてそれを狙って、千春の店に押しかけたんだ。千春の親父はならず者に殺され、ならず者に抵抗した千春は、ならず者に両眼を切られて、両眼を失明したんだ。結局、ならず者は魔導書と魔具を見つけることはできなかった。しかし、親父から魔具を受け取り、千春は身に付けていた。千春の指輪がそうだ。ならず者は、ただの指輪だと思ったらしい。魔導書がなくとも、魔具があれば、術は発動できる。千春は失明する前に完成させた人形に魔術で命を吹き込んだ。それが俺だ。俺は、魔界から召喚された魔物の子供だ。そして俺は、千春の額に目を彫ってやった。それで眼のように見ることができるってわけだ」
二コルがズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、まくしたてた。
そうか。
二コルは人形なのか。
じゃったら、こいつらの目的はなんじゃ?
「よくできてるでしょ? 私の最高傑作よ」
千春が扇を扇ぎながら、膝の上で頬杖を突いて、うっとりと二コルを眺めている。
「俺の目的は、十三人の姫君の生き血を飲んで、王になることだ。この女で十三人目なんだ。若い娘の血じゃないとダメでな、儀式に失敗したりで大変だったぜ。この町の瘴気が見えるか? 俺の魔力が瘴気を覆わせたんだ。まだ瘴気は完全じゃないが、身体の弱い奴は病に倒れるだろうな。俺が王になれば、この瘴気がやがて国中を覆うことになるんだぜ? 滑稽だろう?」
二コルが鋭い歯を見せて、可笑しいというように額に手を当てて高笑いする。
まさか。
宗次郎の母ちゃんが病で倒れたのは、こいつらの仕業ちゅうんか?
そして、こいつらも仁と同じ、国盗りが目的ちゅうわけか。
悪い奴は、考えることが同じじゃわい。
「さ、さっきはよくもやってくれたわね。黙って聞いてりゃ、なんなのよ。あ、あんたたち……だ、誰か知らないけど、この道場には手出しさせない……」
茜ちゃんがおもむろに立ち上がり、口許の泡を手で拭い、肩で息をしている。
身体が震えながらも屈み込んで地面に落ちた竹刀を拾い上げて、二コルに中段の構えをする。
竹刀を持つ手が震え、竹刀が震えている。
「ほう、大人しく寝てりゃいいものを。意外とタフだな。ますます気に入ったぜ。その体で大丈夫か?」
二コルが茜ちゃんに振り返り、両手をズボンのポケットに突っこんだまま、茜ちゃんを見て不敵に笑っている。
「二コル、わかってる? 茜ちゃんに乱暴はダメよ? 大事な生贄なんだから。傷つけたら価値ないんだから」
千春が姿勢を正して、息を吐いて額の汗を手の甲で拭いながら、暢気に扇を扇いでいる。
「わかってるって。ったく、うるせぇな」
二コルはポケットから手を出して、面倒そうに頭の後ろを掻いている。
「あんたの相手はあたしよ! 覚悟しなさい!」
茜ちゃんが声を上げて駆け、二コルの背中に向かって竹刀を真っ直ぐに振り下ろす。
不味い。
オラは茜ちゃんを見て、生唾を飲み込んで喉を鳴らした。
「よせ! 茜ちゃん!」
オラは嫌な予感がして、茜ちゃんに怒鳴り、手を伸ばす。
「おっと。大人しく寝ててもらおうか。姫君。俺だって、魔力が使えるんだぜ?」
二コルが素早く茜ちゃんに振り返り、竹刀を手で受け止める。
そのまま、片手で竹刀を投げ飛ばすと、態勢を崩した茜ちゃんは前のめりによろけた。
茜ちゃんの背中に向かって、片手を突き出して掌を広げる。
二コルの右眼の蜥蜴のような眼が大きく見開いた。
二コルから発せられる、邪悪な波動の力を感じた。
吐き気がするような黒い力。
今度はなんじゃ?
また嫌な予感がする。
「うっ」
茜ちゃんが急に胸を押さえて苦しみ出し、やがて気を失ってうつ伏せに倒れた。
茜ちゃんが握っている竹刀が、寂しそうに茜ちゃんの手の中で静かに眠った。
遅かった。
それにしても、身体が重くて動けん。
どうなってんじゃ。
一人でも動きを封じればいいんじゃが。
せめて、あの女だけでも。
念力ちゅうわけにもいかんかいの。
「やれやれ。勢い任せに暴れて、姫君の身体に傷がついちまうと、生贄としての価値がねぇからな。せっかく見つけた、十三人目の生贄だ。大事に扱いたいもんだぜ」
二コルが肩を竦めた後、おもむろに屈み込んで、重そうに茜ちゃんを肩に担ぐ。
二コルが茜ちゃんを肩に担ぐと、「こいつ重いな。肉の食い過ぎだろ」と舌打ちして愚痴を零す。
「千春、帰るぞ。そいつの術は解いていいぜ」
二コルは千春に表門を顎でしゃくて、親指で表門を突き刺す。
「それが、光秀くんには不思議な力があるみたい。術で縛ってるのに、声を出せてるし。それに私、光秀くんの不思議な力に縛られて動けなくなったみたい。どうしましょう。困ったわ」
千春が困ったように深くため息を零して、膝の上で頬杖を突いて、扇を扇いでいる。
退屈そうに空を仰ぐ。扇で扇ぎながら。
「はぁ!? どういう事だよ!? じゃなにか? この女を置いていけってか? お前がいないと儀式ができねぇだろ!」
二コルが苛立って片手を横に広げ、肩に担いだ茜ちゃんを落としそうになり、態勢を崩してよろける。
どういうことじゃ?
オラの念力で、あの女の動きを封じたちゅうんか?
なんにしても、今がチャンスじゃ。
「か、えせ。あ、茜ちゃんを、返せ……」
オラは重い足を引きずって、二コルに歩み寄る。
なんじゃ、さっきより動けるで。
「こ、こいつ。何者……? 千春の術に縛れて歩けるだと? し、信じられねぇ……」
二コルが思わず、額に冷や汗を掻いて後退る。
一歩。また一歩と。
「たぶん、光秀くんが首にかけてる勾玉が魔具だと思うの。光秀くんが術師だなんて、油断したわ」
千春が面白くもなさそうに頬杖を突いたまま、扇を閉じで、オラの首飾りを差す。
オラの首飾りをじっと見つめて。
この首飾りが、魔具じゃと?
オラは二コルに歩み寄る足を止めて、首飾りの勾玉を握る。
神力を封じた魔具ちゅうんか?
神さまは言うておった。オラは選ばれし者じゃと。
あれは、どういう意味じゃ?
訳がわからんわい。
こいつは、神さまの魂を封じ込めておるんじゃろ?
じゃったら、オラにも神力が使えるかもしれん。
そいつに賭けるで。これしかないんじゃ。
「おいおい。こいつが術師だって? 聞いてねぇぞ」
二コルは表情を歪ませて、茜ちゃんを担いだまま後退る。
二コルは予想外の事態に動揺している。
「ごめん、二コル。呪文は使えないけど、二コルでなんとかしてよ」
千春は膝の上で頬杖を突いたまま、ため息を零した。
閉じた扇を縁側に突き立てて。
「っち、呪文ナシかよ。まあいい。動けるのは俺だけか。だったら、俺だけでも勘助の屋敷に連れて帰る! 千春、後で来いよ! お前に構ってる暇はねぇ!」
二コルが拳を握りしめて、踵を返して表門に向かって駆け出した。
「待て!」
オラは二コルの背中に手を伸ばした。
茜ちゃんがオラの眼から遠ざかる。ゆっくりと。
時間の流れがゆっくりに感じる。
なんじゃ、この感じは。
茜ちゃんを守るんじゃ。絶対に。
オラの目の前で、茜ちゃんを傷つけおって、お前ら許さんで。
神さま。
力を貸してくれ、お願いじゃ。
少しは力が戻ったじゃろ?
オラは勾玉を強く握る。
『お主の願い、しかと受け止めたぞ。これより、力を解放する』
頭の中で、神さまの凛とした声がした。
神さまの声が消えたと思ったら、勾玉が眩く青白く光った。
『光秀、助けて……』
あ、茜ちゃん?
茜ちゃんの声が、頭に響く。
これは、神力なんか?
『あたし、死にたくない。生贄になりたくない……』
それとも、勾玉を通して、茜ちゃんの声が聞こえるちゅうんか?
とにかくじゃ。
茜ちゃん、助けるけえ。
『お願い。光秀の剣で、こいつを斬って!』
茜ちゃんを傷つける奴は、オラが許さんけえの。
不思議と力が漲るわい。
力を感じるで。
茜ちゃんの声が消えた。
「!? あ、茜ちゃん!?」
オラは握り拳を作って、歯を食いしばった。
二コルが表門を潜ろうとしている。
なにしとんじゃ。手遅れになるで。
動け、動くんじゃ、オラの身体。
茜ちゃんは、オラが守るんじゃ。
立ち上がれ。立ち上がるんじゃ。
「させるかぁぁぁぁぁ!」
オラは茜ちゃんの顔に手を伸ばした。
その瞬間、オラに張られた結界のガラスが砕け散ったのか、青白い破片がオラの身体から四方に飛び散る。
同時にオラの身体から、力の強風が吹き荒れる。
オラの力に押されたのか、千春が縁側で横に倒れて気を失った。
千春の魔導書が風で、頁が捲られてゆく。
信じられないほど、オラの身体が軽くなった。
勾玉の青白い光が、静かに消えた。
オラは心を落ち着かせるため、瞼を閉じて、深呼吸してみる。
茜ちゃんを守ると意を決し、瞼を開けて、表門を見つめる。
よし、いくで。
「茜ちゃんを返さんか!」
オラは駆け出し、二コルを追った。
竹刀を強く握って。
表門を潜って、大通りを左右に見る。
『助けてくれ……』
『身体が、いうこときかねぇ……』
『勝手に身体が動いて、人を斬っちまった……』
『あたし、どうしたのかしら。知らない男と寝てた……』
『私、店のお金を盗んでた……』
表通りを出て、すぐに頭痛がして、頭の中で声が響く。
オラは頭を押さえる。なんじゃ、この声は。




