茜ちゃんの想い
数日前、振袖女と和服女に栞の誕生日プレゼントをこうてもらった。
あれから、茜ちゃんの機嫌が悪く、茜ちゃんはろくに口も訊いてくれん。
そんなある日。
オラは欠伸をしながら、頭の後ろを掻いて、家の廊下から続く道場に顔を出す。
道場の柱に腕を添えて凭れ、手の甲に額を載せる。寝起きなので、頭はまだ寝ている。
髪を手触りすると、寝癖で逆毛になっていてすごいことになっている。
寝ぼけながら、道場の庭を見ると、竹箒で庭を掃いていた茜ちゃん。
茜ちゃんは、今日も長い髪を後ろで紅い紐で束ね、淡いピンクの単衣にたすき掛け、黒い袴に白い足袋。
茜ちゃんは道場に来るとき、いつも同じ服装だ。
茜ちゃん曰く、その服装が落ち着くらしい。
茜ちゃんは、竹箒を掃く手を止めて、額の汗を手の甲で拭う。
そんな茜ちゃんを、オラは道場の柱に凭れて腕を組んで見惚れていた。
「なに見てんのよ? 寝坊助さん。あんたくらいよ? 昼まで寝てるのは」
茜ちゃんがオラに振り向いて、竹箒を持ったまま、片手を腰に当てる。
「茜ちゃん。それより、宗次郎と栞はどこじゃ?」
辺りを見回すと、宗次郎と栞の姿がなく、オラは首を傾げる。
オラは頭の後ろを掻きながら、道場の軒下に寝転んで欠伸をする。
「ああ。宗次郎なら、お母さんの薬を買いに、隣町に出掛けたわよ? 栞ちゃんは、葛城さんと一緒にお母様のお店に遊びに行ったわ。なんで、あんたと留守番しなくちゃいけないのよ……」
茜ちゃんが話し終わると、顔を手で押さえて首を横に振り、ため息を零した。
「そか。宗次郎の母ちゃん、病で倒れて寝込んでおるもんな。栞は、饅頭に釣られたか。栞らしいわい」
オラは胡坐をかいて頬杖を突き、眠そうに眼を擦りながら茜ちゃんを見ていた。
「隣町は、いい薬があるからね。あ~あ、あたしも栞ちゃんと一緒に行きたかったなぁ」
茜ちゃんは空を仰いで、心ここにあらずといった感じで、同じ所を竹箒で掃いている。
「なんじゃ、行けばよかったじゃろ」
オラが欠伸をする。眼に涙が滲む。
「葛城さんに、道場の留守番を頼まれたのよ。あんたは寝てるし。まあ、あたしはここに来るのが日課になっちゃてるし。あたしのお父さんもお母さんも、剣術を習って損はない。とか言ってるし、いいんじゃない?」
茜ちゃんが頷いて、肩を竦める。
「そうじゃのう。オラ、手伝うけえ。一人じゃ大変じゃろ?」
オラは踏み石の下駄に足を入れる。
「いいわよ。もう終わるから。もうちょっと早く起きなさいよ」
茜ちゃんが手で制して、竹箒を掃く。
「そか。昨日は、なんか眠れんくての」
オラは下駄に足を入れたまま、頭を掻いた。
言いにくいが、茜ちゃんのことを考えておった。
「どうかしたの?」
茜ちゃんが竹箒を掃く手を止めて、心配そうにオラを見ている。
「いや。その、な、なんじゃ。あ、茜ちゃんのことを考えてて、な」
オラは頬を人差指で掻きながら、気まずそうに茜ちゃんをちらちらと見ていた。
言ってしもうた。頭で考えてたことが、口に出てしもうた。
茜ちゃん、怒るで。逃げる準備したいが、頭がまだ寝ぼけとる。
「そ、そう……あ、あたしも、み、光秀のこと考えてた。昨日の夜……」
茜ちゃんが頬を紅に染め、竹箒を持ったまま俯いた。
「えっ!? ほ、ほんまか!?」
オラは驚いて立ち上がる。
下駄を履いていたことを忘れてバランスを崩し、前のめりに扱こけそうになる。
「光秀!? 危ない!」
茜ちゃんが慌てて、オラの身体を支えてくれる。
茜ちゃんのいい香りが、オラの鼻を刺激した。
茜ちゃんの白くて細い手を見る。
急に鼓動が高まり、オラは慌てて、茜ちゃんから離れる。
茜ちゃんの顔が見れなくなり、オラは茜ちゃんから背ける。
茜ちゃんとオラの間に、微妙な空気が流れた。
一陣の風が悪戯のように吹き抜ける。
「ね、ねぇ。光秀。あたしは、光秀に嫁ぎたいと思ってる……光秀、あたしを養うために、将来なにになるの? あたしに聞かせて?」
茜ちゃんは、オラの背中に抱き付いた。
茜ちゃんの温もり、茜ちゃんの胸の感触。
茜ちゃんの着物越しに伝わる、茜ちゃんの鼓動。
「そ、そげなこと言われても、オラにはわからんわ! 親父の刀鍛冶を継ぎたいと思うとる。でも親父は、剣も扱えん息子を継がす気はないらしいで」
オラは寂しそうに空を仰いだ。着物の帯に手を添えて、風が頬を優しく撫でた。
今のオラに、茜ちゃんを抱きしめる資格はないんじゃ。そげなこと、わかっとる。
「あたしの想いを無駄にしないでよ! いいわ。あたしが光秀に、本気で剣を教える。全力であたしにかかってきて。今の光秀の剣に、あたしは納得しないから! あんたも、あたしが好きなんでしょ!?」
茜ちゃんがオラから離れて、軒下に竹箒を立てかける。
軒下に立てかけてあった二本の竹刀を手に取り、一本をオラに投げてよこす。
オラの足元に落ちた、一本の竹刀。
オラはその竹刀に目を落とす。
そうじゃ、オラは茜ちゃんが好きなんじゃ。
じゃったら、茜ちゃんより、剣が強くないといけん。
今のオラは弱いけえ、茜ちゃんさえも守れんのじゃ。
答えてやらんといけんのじゃ、茜ちゃんの想いに。
そして、オラも茜ちゃんが好きじゃと、剣で話すんじゃ。
オラは竹刀を拾い上げて、竹刀の柄を握り締め、竹刀を構える。
オラは中段の構えをして、真っ直ぐ茜ちゃんを見た。
「本気できなさいよ? 今までサボってた分。あたしが光秀に教えた剣は、間違えじゃないから。あんたの身体に沁み込んでるはずよ。それを思い出しなさい。いいわね?」
茜ちゃんは竹刀を片手で持ち、だらんと腕を下げて構えている。
鋭い目つきで、オラを見ている。
「茜ちゃん、すまん。オラに、茜ちゃんの想いを伝えてくれてありがとうじゃ。オラも、茜ちゃんが好きじゃ。じゃけえ、全力で応えるけえの!」
オラは変わらぬ態勢で、茜ちゃんを見つめる。
なんじゃ、眠気が一気に覚めたわい。
「は、恥ずかしかったんだからね! あんたに想いを伝えるの! 今度は、あんたがあたしを守る番なんだからね! 男が女を守れないでどうするのよ!?」
茜ちゃんが構えたまま、頬が紅くなっている。
照れくさそうに、オラをちらちらと見ている。
「言われんでも、茜ちゃんを守るけえ。さっさと始めようで」
オラは茜ちゃんを睨んで、鼻で笑った。
「稽古とは違うからね! あんたの剣、教えてもらうわよ!」
茜ちゃんは、相変わらず竹刀を持った手をだらんと下げて構えている。
オラと茜ちゃんは睨み合ったまま。
オラと茜ちゃんの間に、静かな空気が流れる。
それにしても、なんじゃ、あの茜ちゃんの構え。
腕下げて隙だらけじゃ。オラの攻撃を誘ってるんか?
ひょっとしたら、茜ちゃんはわざとあの構えをして、オラの攻撃を誘い、反撃を仕掛ける気か?
考えても仕方ないわい。ここは先手必勝じゃ。
「うぉぉぉぉぉ!」
オラは竹刀を振り上げて、一気に茜ちゃんに向かって駆ける。
オラが茜ちゃんの懐に入る時。
茜ちゃんは飛び退り、オラの竹刀の横振りを避ける。
オラが空振りした隙に、茜ちゃんはオラの脇腹に竹刀を打ち込んだ。
「ぐっ」
オラ呻いて、そのまま態勢を崩して前によろける。
茜ちゃんに打ち込まれた脇腹を押さえる。
「そんなんじゃ、あたしに打ち込めないよ!」
茜ちゃんの声が、オラの背中に突き刺さる。
「まだまだじゃ!」
オラは振り返り際に、竹刀を逆袈裟に振った。
オラの竹刀が風を切る。
「どこ狙ってるの?」
茜ちゃんは嘲笑うかのように鼻で笑った。
茜ちゃんは、相変わらず腕をだらんと下げ、竹刀の柄を握り締めて構えている。
掠りもせんかったか。
茜ちゃん。なんなんじゃ、その構えは。
隙だらけのはずなんじゃが、手応えすらないわい。
「いくでぇ!」
オラは竹刀を横に構えて、茜ちゃんに突進した。
ダメじゃ。どう動いていいかわからん。
オラは首を横に振る。
「あんたの剣は、そんなもんなの!?」
茜ちゃんはオラの動きを読んで、一歩大きくカニ歩きして、オラの袈裟振りを避ける。
今度は、左右の脇腹に竹刀を打ち込んだ。
「あたしの剣を止めてみなさい!」
茜ちゃんは、よろけている光秀に構わず、竹刀を乱れ打ってきた。
オラは茜ちゃんの竹刀を避けきれずに、左に右へと、次々に左右の脇腹に竹刀が打ち込まれる。
茜ちゃんは最後に、竹刀でオラのお腹を突いた。
オラは力任せに尻餅をついた。
砂埃が舞い上がる。
茜ちゃんの竹刀が、オラの喉元に突きつけられる。
茜ちゃんの顔が、陽光で眩しくて見えない。
オラは陽光が眩しくて、顔の前に手を翳し、陽光を手で遮る。
「剣は心で振り、技を磨くだけでなく、心をも磨くこと。心が乱れれば、剣も乱れる。心が強ければ、剣も強くなる。葛城さんの言葉よ」
茜ちゃんが手を差し伸べる。
オラは生唾を飲み込んで、茜ちゃんの手を握った。
背中を汗が伝う。頬に汗が伝う。
心の中で、茜ちゃんの言葉を繰り返す。
剣は心で振るもの。目で見て振るものではない。
技を磨くだけでなく、心も磨け。それこそが、剣の心なり。
心が乱れれば、剣も乱れる。心を研ぎ澄まし、心で戦え。
心が強ければ、剣も強くなる。強い心こそ、最強の剣なり。
それこそが、人を生かす剣であり、人を守る剣。
親父は、そう言っておった。
オラは立ち上がって、袴についた砂埃を片手で払う。
そうか。
オラは、今まで目で見て竹刀を振っておった。
そうじゃない。心で振るんじゃ。心で。心に念仏のように唱える。
オラの心は乱れておる。心を研ぎ澄ますんじゃ。
オラは瞼を閉じてみる。
道場は静寂に包まれており、小鳥の囀りが聞こえる。
深呼吸してみる。身が清められていくような感じがした。
風が心地良く、オラの身体を優しく撫でてゆく。
「どう? 少しは葛城さんの言葉、思い出した?」
茜ちゃんが砂利を踏んで、竹刀を素振りする音が聞こえる。
砂利、か。
待てよ。この砂利を、上手く利用できんもんじゃろか?
茜ちゃんが砂利を踏む音を頼りに戦えば、なんとかなるんじゃ?
茜ちゃんの足の動きに注意すれば。
よし、やってみるか。
「茜ちゃん。始めるで」
オラは静かに瞼を開けた。
オラは中段の構えをした。心を落ち着かせるため、深く深呼吸をする。
真っ直ぐに茜ちゃんを見る。
心で振る。
目で見て振るな。
自分にそう言い聞かせる。
「ふ~ん。少しはやる気になったみたいね」
茜ちゃんはオラと距離を置いて、また腕をだらんと下げて、竹刀を構えた。
またその構えか、茜ちゃん。
せめて避ければええんじゃ。無理に打ち込もうとせんでええ。
「いくでぇぇぇぇぇ!」
オラは竹刀を振り上げて、茜ちゃんに駆けた。
茜ちゃんの懐に飛び込もうとしていた。
その時、茜ちゃんの足が動いた。
茜ちゃんが、砂利を踏む音が聞こえる。
ここじゃ。
オラは直感で、大きく一歩引いて身体を仰け反り、茜ちゃんの打ち込みをかわした。
オラは声を上げて、オラは竹刀を振り上げ袈裟に振った。
オラの剣気が風を纏い、風が宙に舞った。
茜ちゃんが一瞬動きを止め、また砂利を踏んで、すかさずオラの懐に踏み込み、竹刀を逆袈裟に振る。
オラは、砂利を踏む茜ちゃんの足を見て、また大きく一歩引き、竹刀を袈裟に振る。
次の瞬間。
竹刀と竹刀が重なり合う鈍い音が庭に響いた。
「や、やるじゃない。呑み込み早いわね。さすが、葛城さんの息子だわ」
茜ちゃんは飛び退る。
焦ったらしく、額に冷や汗を掻いている。
額の汗を、手の甲で拭う。
「こういうことか……」
オラは茜ちゃんを見て、小さく呟く。
これで確信したわい。
茜ちゃんは、竹刀を振る時、足が動く癖があるようじゃな。
オラは今までの流れで、それを見逃さんかった。
何も考えんこうに、茜ちゃんの竹刀を受けておったが、オラの洞察力は鋭いわい。
「あたしの竹刀を避けたからって、いい気になってんじゃないわよ!」
茜ちゃんが焼きになって、声を上げて竹刀を振り上げてくる。
茜ちゃん。
心が乱れているで。さっきのオラじゃ。
さっきまでの冷静さはどこいったんじゃ。
オラは、茜ちゃんの乱れ打ちを、ことごとくかわしていった。
茜ちゃんの足の動きに注意して。
庭に激しく、竹刀と竹刀が入り乱れる音が響く。
竹刀と竹刀が、闘気を纏って(まとって)、風を切っていく。
茜ちゃんとオラの視線がぶつかり合い、火花を散らす。
その時、茜ちゃんが腕を振り上げた隙を、オラは見逃さなかった。
オラは茜ちゃんの胴に、竹刀を打ち込んだ。オラの剣気が、竹刀から放たれた。
オラの剣気で、茜ちゃんの髪を束ねた紐が切れて、紅い紐が地面に落ちる。
茜ちゃんの艶のある長い髪。風で優しく靡いている。
茜ちゃんは動揺して、竹刀を振り上げたままだった。
茜ちゃんの眼が、さざ波のように揺れている。
オラは、茜ちゃんの胴に竹刀を打ち込んだ態勢のまま。
「そ、そんな……あたしが、負けた?」
茜ちゃんが小さく呟いた。
足が崩れ落ちて両膝を地面につけ、そのまま力なく俯いた。
「そうじゃ。心が乱れておったけえの」
オラは一歩下がって、茜ちゃんに深くお辞儀をする。
その時、表門から拍手が聞こえた。
オラは振り返って、表門を見た。
「ブラボー、ブラボー。実にいい試合だったぜ。なあ、千春?」
表門に立っていた異人の少年。
異人の少年はベレー帽を被り、金髪で肩くらいのカール。
左眼がグリーンの瞳で、右眼が蜥蜴のようなブルーの眼で、整った目鼻立ち。眼の下に紅い一本の線が、口許まで引いてある。
ストライプ柄のシャツに黒いネクタイ。
膝までのストライプ柄の半ズボンを穿いて、白い靴下に黒い革靴。
異人の少年は、ズボンのポケットに両手を突っ込んでいた。
「いい魂の匂いがするわね。ねぇ、二コル。あの娘、十三人目の生贄にどうかしら?」
異人の少年の隣に立っていた女性。
女性は笠を被り、白い布で目隠しをして、額に不気味な目の入れ墨が彫ってある。
振袖を着て、白い足袋に草履を履いている。
女性はお腹で両手を組み、左手の親指と中指と小指に指輪を嵌め、右手の人差指と薬指に指輪を嵌めている。
手には、血の様な不気味な魔方陣が書かれた赤い魔導書を持っている。
女性は笠を手で上げて、額に彫られた不気味な目の入れ墨を覗かせている。
あの眼、まるでオラを見透かしているようじゃ。
こいつら誰なんじゃ?
嫌な予感がする。




