8.
「ほら、猫ちゃん。ご飯だよ」
いつの間にか彼女は、戸棚から取り出した缶詰を皿の上に開けて、僕のことを呼んでいた。缶詰の中身は「秋刀魚の蒲焼」。意外に渋い趣味だ。
皿の上から漂ってくる、香ばしい匂い。僕のおなかが、クゥと鳴ったような気がした。彼女は「ほら、おいしそうでしょ? 食べていいんだよ」なんて言いながら、ほっこりした笑顔で僕の方を見つめている。もう少し彼女の笑顔を見ていたい気もしたが、食べ物の誘惑には勝てない。僕は皿の上の秋刀魚を夢中でむさぼった。単なる缶詰だけど、最高にうまい。「空腹は最良のスパイスだ」なんて、誰が言ったか知らないけどうまいこと言ったもんだね。
僕が一心不乱に秋刀魚を平らげている間、彼女はナチュラルウッドのローテーブルに頬杖をついて、黙って僕のことを見つめていた。はじめはうれしそうに僕の食べっぷりを見ていた彼女だけど、そのうちに視線がどこかへ彷徨いはじめた。僕の方を向いてはいるけど、心ここにあらずといった感じだ。
僕が皿の上の秋刀魚をすっかり平らげてしまっても、彼女は僕の方を眺めたまま動かなかった。きっと、僕が食べ終えてしまったことに気づいてもいないのだろう。どこか遠くを見つめる彼女の視線は心なしか寂しそうで、僕の小さな胸を締めつけた。
宙に浮かんだ彼女の瞳は、いったい何を見ているのだろう。
「にゃあ」
いたたまれなくなった僕が小さな声を出すと、彼女の目が、ゆっくりと僕のもとに下りてきた。
「あ、ごめんね。猫ちゃん、もう食べ終わってたんだ」
そう言って彼女は慌てたように立ち上がり、皿を片付けてから僕の頭を優しくなでた。そうしながらも彼女がちらちらと視線を向けているのは――彼女のものだろう、白い携帯電話。彼女は、誰かからの連絡を待っているのだろうか。
「はぁ」
おそらくは彼女自身も意識していないだろう、かすかなため息をついて携帯電話をぼんやりと眺めている。僕の頭をなでる手は無意識に動かしているけれど、ちょっと力が入りすぎて痛いくらいだ。
ちょっとばかり抗議の意味を込めて頭をぶるっと震わせると彼女ははっと我に帰り、僕の頭をなでる手を離した。そして改めてもう一度、今度ははっきりとため息をつく。
「馬鹿だよね、あたし。もう連絡なんて来るはずもないのに。この時間になるとつい、電話が気になっちゃうんだ。この時間にはいつもかかってきてたから……」
僕に向けて、というより独り言なのだろう。彼女が言い訳をするように早口で呟く。ふと壁を見上げると、茶色の枠に白い文字盤のシンプルな掛け時計がちょうど七時を指すところだった。
「にゃあお」
伏し目がちに時計から目をそらす彼女の姿があまりにも儚くて、僕は思わず彼女の髪を撫でてあげようと手を伸ばした。しかし、猫の短い手ではそれもうまくはできなくて、それがひどくもどかしかった。
「君は、慰めてくれようとしてるんだ? へへ、うれしいよ。ありがとう」
そう言って、彼女は笑った。その大きな瞳を伏せたままの、寂しげな笑顔で。




