5.
家の中に食べるものがないのならば、外に出るしかない。僕は、部屋を出ることにした。
せっかく休みになったのだからもっと惰眠をむさぼっていたい気もしたが、空腹には勝てない。……とは言っても、すでに半日以上も寝ているのだけど。
外に出る段になって、いつもの癖で家の鍵と財布と携帯電話を探している自分に気づいて、思わず苦笑する(その苦笑すら、にゃあという鳴き声にしかならなかったが)。そんなものを持っていったって、猫の身体じゃ、使いようがない。猫ってのは本当に身一つで生きていかなければならないんだなぁ、なんてことを今更ながら思ったりする。
ドアを開けるのに多少苦労はしたが、なんとか外に出ることは出来た。
うちが安アパートで、体当たりすれば簡単に開くようなドアしかない部屋でよかった。下手に高級アパートだったりしたら、僕は頑丈なドアに阻まれて外に出ることすら出来ずに部屋の中で飢え死にするのを待つしかなかったかもしれないと思うと、背筋が冷たくなる。僕はぶるっと身震いをして(それはまさしく猫が濡れた身体を乾かす時の仕草そのものだった)、安アパートの薄暗い廊下を歩き始めた。
人間だった時からの癖で、誰もいないというのに廊下の端っこ小さくなって歩いていると、前方から巨大な影が近づいてくるのが見えた。背中を大きくそらして見上げてみると、それは人間だった。なるほど、猫になってみると人間というのはこれほど大きく見えるのか。多くの猫が知らない人間を見かけると一目散に逃げ出してしまうわけが分かった。自分よりもこれほど大きな存在というのは、そりゃ、恐怖の対象に違いない。それが知らない生き物だったらなおさらだ。
だがよく見てみると、その人間は知らない存在ではなかった。肩までの長さの茶色く脱色した髪。くりっと動く大きな黒い瞳。僕の隣の部屋に住んでいるらしい、女子大生(おそらく)だ。まだ美人と呼べるほど大人っぽくはないが、可愛らしいという表現が似合う彼女は、実は結構僕の好みのタイプだ。
とはいえ、お隣さんではあるが、僕は彼女の名前を知らない。都会ではみんなそうなのか、それとも女の子の一人暮らしだから警戒しているのかわからないが、廊下や階段でたまにすれ違うと、彼女は挨拶するでもなく、明らかにかかわりを避けるように僕のことに気づかないふりをしようとする。とても、のんきに世間話やら自己紹介を出来る雰囲気ではないのだ。それがちょっとだけ寂しかったりもする。まぁ、女子大生にとって、サラリーマンの男なんてのは警戒の対象でしかないのかもしれないが。
けれど、今日は違った。それはそうだ。なんせ僕は今猫なのだから。それも、自分で言うのもなんだけど、とびきり可愛らしい子猫だ。
彼女は、満面の笑みを浮かべて僕の方に近づいてきた。それは僕が初めて見る、彼女の笑顔だった。




