10.
次に目が覚めたとき、僕は人間だった。
猫になったときと同じように、何の前触れもなく唐突に、僕は人間に戻っていた。
しかも、最後の記憶によれば僕は彼女の部屋で眠りについたはずだから、目が覚めて元に戻ったら彼女の部屋で裸で寝てたりしそうなものなのに(そうだったら、まるで一昔前のラブコメマンガみたいだ――自分が当事者になるのはごめんだけど)、実際には普通に自分のベッドでパジャマ代わりのスウェットを着て、目を覚ましたのだった。
まさか、と思って枕もとの目覚まし時計を確かめる。日付や曜日まで表示させるデジタルの時計には、月曜日の朝06:32の表示。僕の感覚では昨日、つまり猫になったはずの日だ。つまり、猫としての僕が活動した一日は、存在しなかったことになる。
「ってことは――夢オチ?」
思わず呟いた。それはきちんと言葉になって、虚しい独身男の独り言として部屋に響く。
しかし、よりにもよって夢オチだなんて。今時安っぽい小説だってそんな手は使わないよ。
月曜の朝からどっと疲れた気分になって、僕は洗面所へ向かった。鏡に映るのは見慣れた僕の冴えない顔。猫の方がよっぽど可愛かったなぁ。
すっかり気が抜けてしまったけど、そんな僕の気分とは関係なく月曜の朝はすでに始まっている。まさか「変な夢を見てどっと疲れたから今日は休みます」だなんて言える訳もないし。あきらめて歯ブラシをとり、鏡に向かう。
僕の日常はこうして、失われたときと同じくらい唐突に戻ってきたのだった。
くたびれたビジネスバッグを掴み、ネクタイを結びながら玄関のドアを開けると、アパートの廊下に昇り始めた朝日が斜めに差し込んでいて、僕の身体を暖かく包む。猫だったときと――いや、猫になった夢を見ていたときというべきだな――視線の高さが違うから、僕はその光をもろに顔に浴びて目を細める。
そういえば、ここに引っ越してきたばかりだった時、ここから差し込む朝日にすごく感動したのを思い出した。すっかり慣れてしまって気にも留めていなかったんだけど。
ちょっとだけいい気分になって、僕は階段に向かう。階段を降りはじめようとしたとき、僕の後ろで、ガチャリ、とドアの鍵が開く音がした。振り返ってみると、隣の303号室のドアが内側から開こうとしているところだった。夢のことがあるせいか、ちょっとだけ緊張してしまう。
ドアの向こうから覗いたのはもちろん、彼女だった。彼女は一瞬だけ僕と目が合うと、すぐにうつむいて目をそらしてしまう。昨日までは気がつかなかったけど、やっぱり彼女の表情はどこか寂しそうだった。
そして僕の目を奪ったのは、半袖の水色のブラウスから覗く、白い腕。そこに小さく赤く残るのは、かすかな……爪痕?
「あ、あの!」
そのまま通り過ぎようとする彼女に向かって、僕は思わず声をかけた。焦ったせいで、ちょっと裏返ってしまったけど。
「お、おはよう……ございます!」
僕の言葉に、彼女は驚いたように顔を上げる。つぶらな黒い瞳が、くりっと動く。
「……おはようございます」
小さな声ではあったけれど、彼女は挨拶を返してくれた。軽く会釈をして、言葉の最後にはその顔にふんわりとしたかすかな笑みも浮かべて。
たったそれだけだ。彼女はすぐに僕の横をすり抜けて、足早に階段を降りていってしまう。でもそれだけで、人間であるのも悪くない、なんて思ってしまうから僕も現金なものだ。
遠ざかっていく彼女の手には、新しい朝の光を浴びた、猫の尻尾のキーホルダーが揺れていた。
〈猫になりたい 完〉
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