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「お師匠さん。足元気をつけてくださいよ」

「ええ」


 段差になっている岩をそろりそろりと慎重に降りながら、涼香は内心吐息を吐いた。

 涼香の様子を見守っている大妖は存外紳士的で、戸惑うことが多いのだ。


 ――あれから二日が過ぎていた。

 片手に持つ錫杖にも、金の袈裟にも少しばかりは慣れてきた。

 三蔵として西へ行くことを了承した涼香は、悟空と共に両界山を降りている。


「ほら、つかまってください」

「……ええ」


 大きな岩からどうやって降りたものかと思案していた涼香に、悟空が手を伸ばす。大きいが、人の手だ。鋭い爪は持つが毛むくじゃらというわけではない、ごく普通の……人間の手にしか見えない、手。


「ありがとう、ございます」


 拒否することも無視することも出来ずにその手を借りれば、悟空は楽々と涼香を持ち上げて地面に下ろした。


「どういたしまして。弟子の務めってやつですよ」


 間近にある金の瞳に覗き込むようにして見つめられ、涼香は息を飲む。炎に炙られた金眼は静かに凪いでいる。だというのに、ちりちりと肌を焦がすような強い視線は、彼の巨大な妖気ゆえだろうか。

 まるで、燃え盛る炎のようだ。魅せられて、惹き付けられる。

 ――それが恐ろしい。


「さあ、先を急ぎましょうか」


 悟空の言葉にギクシャクと目を逸らして頷くと、涼香はそっと彼から距離をとった。

 さりげなさを装って、地面に目を向けたまま涼香は歩く。後ろをゆったりとついてくる気配から感じる視線が、恐かった。



   *****



 天竺への旅は途方もなく長い。妖である悟空一人なら、物語にあるように雲に乗って一瞬で着くのだろうが、只人の身では叶わない。それに、確か天竺への道程は一歩一歩、地上を往かねばならない筈。

 わかっていても、翼持つ鳥が羨ましく空を見上げていると、同じように空を見た悟空が眉根を寄せた。


「一雨きそうですね」


 悟空の言葉に涼香は怪訝げな顔をした。それも当然で、空には僅かばかりの雲しか浮いておらず、雨が降りそうには見えないのだから。

 しかし悟空は涼香の意見を聞く気はないらしく、さっさと周辺を探り、大木の影になっていた横穴へと彼女を連れていった。

 涼香が軽くしゃがみこむ程度で中に入れる横穴は、奥行きはさほどないもののなかなか居心地は良さそうである。


「ちょっとここでじっとしといてくださいよ。様子を見ながら、ついでに枝を拾ってきますから」

「ええ、わかりました」


 涼香が頷くと悟空はあっという間にいなくなった。

 緊張が緩み、涼香は大きく息を吐きながら壁にもたれ座り込む。

 旅慣れない身体の節々がきしみ、疲労に悲鳴を上げている。それに加えて精神的な辛さもあり、涼香はくたびれ果てていた。


「だいたい、どうして私なの」


 ここ数日、ずっと悩んでいることが口をつく。

 何故、自分が三蔵にならなければいけないのか。

 何故、悟空は自分を三蔵にしたがったのか。


「……操りやすそうだから、とか」


 悟空の目的はなんなのか。優しくされるたびに居心地悪くて仕方ないのだ。

 自分と他の僧と何が違うというのか。まさか。


「……女、だからとか」


 思わず自分の身体を見て、涼香は首を振った。無い。こんな貧相な女に手を出すような相手ではない。

 だいたい、妖とわからなければ見かけは極上なのだ。女が欲しければ街に行けばいい。きっとより取り見取りだろう。

 ……しかし、他の理由など思い当たらない。いったい、何が狙いなのか。

 つらつらとそんな事を考えていると、空が暗くなってきた。悟空の言葉通り、雨が降るのかもしれない。


「そういえば、遅いな」


 ぽつり、と呟く。考え事をしている最中は気がつかなかったが、悟空が出ていってだいぶ時間が経っている。

 涼香は落ち着かない気持ちで錫杖を握り締めた。

 悟空という妖は、つくづく炎のようだと思う。

 近づくと危険で緊張するが、無ければ無いで落ち着かない。

 今のところ悟空以外の妖には遭遇していないが、自分が三蔵になった以上、狙われない筈がなかった。

 不安を抱えながら外を眺めていると、ぽつぽつと雨が降りはじめ、じきにひどいどしゃ降りとなった。

 不安とは別に、あの妖を案じる思いが生まれる。


「……悟空」


 雨に濡れてはいないだろうか。僅かに心配してそっと名を呼ぶ。すると、その独り言に軽い調子で答える声があった。


「なんですか? お師匠さん」

「うわっ!?」


 すぐ側から聞こえた声に涼香はすっとんきょうな声を上げた。外を見ていた目を後ろに向けると、そこに立つのはつい今しがた口に出た名の妖。


「ご、悟空? いつの間に、そこに!?」


 目を見開いて驚く涼香を見て、悟空はクックッと喉の奥で笑った。その姿は出る前と同じで、まったく濡れていない。


「つい、今しがたですよ。――ねえ、お師匠さん?」


 低めた声で甘く囁きながら、悟空は座ったままの涼香に近づき、身を屈めた。

 ぎくり、と身体を固くする涼香の顔のすぐ横の壁に片手をつき、精悍な青年の姿をした猿の大妖は、顔を寄せてにやりと笑む。

 炎を思わせる金の両眼が、こぼれおちた赤毛の隙間から涼香を射た。


「淋しかったですか? 俺がいなくて」

「そ、そんな事は……」

「なら、不安でした? 一人きりなのが恐かったとか?」


 楽しげに問いを重ねる悟空を涼香は忌々しい思いで睨む。この妖が何を聞きたいのか、わかっている。

 どうして自分の名を呼んだのか、――そう聞きたいのだろう。

 だけど、言わない。心配して名を呼んだなんて言えない。

 涼香は壁に身体を押し付けるようにして悟空から少しても距離をとり、顔を背けた。しかし、悟空の大きな手が彼女の顎を捉え、嫌になるほど優しく前を向かせる。


「ねえ、お師匠さん」

「……なんですか」

「名前。そろそろ教えてくださいよ」


 捉えられた顎を長い指がするりと撫でる。肌があわだつ理由は、その指が持つ鋭い爪のせいか、もっと別の何かか。

 避けることも出来ずに金の目と見つめ合う。

 肉食獣に似た目だ。爛々と輝く金の瞳。僅かに釣り上がった切れ長の目が細められると、いっそう獰猛な獣のようだった。


「な、まえ」


 干上がってカラカラになった喉から、なんとか搾りだした声は情けないほどしゃがれていて、怯えを含んで震えていた。

 悟空がふっと笑う。苦笑じみたそれが、彼の放つ何かを緩ませる。

 怯えを笑われた気がして涼香はさっと頬を赤くした。恥ずかしく、厭わしい。その思いを悟ったのか、悟空は殊更に優しく涼香を宥めた。


「ああ、怒らないでくださいよ。からかっちゃいませんって。ほら、俺がお師匠さんに弟子入りしてもう二日も経つのにまだお師匠さんの名前を教えてもらってないでしょ? いい加減、教えてもらいたいもんだなあ、って。――それだけですよ」


 軽い口調で、言い含めるように悟空は言う。何か別の意図がある気がしたが、思いつかない。名を教えるのを拒否する理由もない。


「……白翼」

「そりゃ男名でしょ」


 憮然と名乗ったが、さらりと切り返された。

 悟空は口元だけの笑みを浮かべて涼香を見ている。退く気はないと見てとり、涼香は渋々と名乗った。


「……胡々」

「……本当に?」


 心を読まれたのか、と涼香は顔を強張らせた。“涼香”という自我を持つ彼女は“胡々”という名の少女ではなくなっている。

 しかし、名を教えることは出来ない。

 言ったところで何が起こるわけでもなく前世のことを話すわけでもないのに、どうしても嫌だった。己の名を教えることは、涼香にとって心の一部を曝け出すことと同じだったのだ。

 しばらくの間涼香は口を引き結び、悟空はかたくなに目を閉じてまで拒む彼女を見つめた。


「……まあ、いいか」


 ようやく呟かれた悟空の一言に、涼香はほっとした。――だが。


「ひっ!?」


 べろり、と頬を舐められて涼香は肩をはね上げ、悲鳴を漏らした。目を見開いく涼香の目の前で、金の目が細められる。


「そのうち、教えてもらいますよ?」


 低く、甘い声で囁いた妖は、何故か楽しげに笑っていた。

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