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 男は名を孫悟空と名乗った。やはりあの猿の大妖である。しかし、涼香には理解し難い。


「……あの」

「なんです? お師匠さん」


 にこり、と笑む顔は人の男そのものだ。彫りが深く端正で精悍な容姿。人の血肉を食らう化け物と知っていても、いや、知っているからこそ、戸惑う。


「私が……師、というのは?」


 心の中でそれは違う、間違いだと言い募りたいのを我慢しながら問い掛ける。

 この世界が西遊記なのか違うのか、それはわからないが、奇妙な事を口走り頭のおかしい子と思われるのはもう嫌だった。

 立ちすくみどうしていいのかわからないままの涼香を余所に、悟空はなにやら地面に落ちている物を拾い集めている。


「お師匠さん、俺にはですね。観音菩薩から言い付けられた使命があるんですよ」

「……使命」


 知っている、だがそれは三蔵のお供だ。涼香ではない。しかし、悟空は飄々と続ける。


「すっげー長い間、俺は悪い事した罰ってんで、岩に潰されてとある僧を待っていたんですよ。使命ってのは、そいつの弟子になって天竺までの旅をしろ、ってやつでしてね。そいつが“三蔵”ってやつで――まあ、そこに(・・・)いるんですがね」

「ひ……っ」


 ひょい、と指で示されたソレに涼香は思わず小さな悲鳴を漏らした。血と泥で汚れた僧服。投げ出された金の袈裟と錫杖。ああ、やはり。やはりあの肉塊は――


「いいつけ通り弟子になってやってもいいとは思ってたんですよ? 嫌な物つけられちまいましたしね」


 悟空は自らの額に輝く金の環を爪で弾き、肉塊と成り果てた希望の灯火だったものへと歩み寄る。疑問を感じた涼香は吐き気を堪えて金の環を見た。その視線を感じたのか悟空が再び爪で環を弾く。


「これは緊箍児きんこじって言いましてね。まあ、俺みたいな強い妖を抑えつける鎖みたいなとこですかね。呪を唱えられると、さすがの俺でも辛い苦痛を受けるんですよ」


 涼香は相づちもうたずただ聞くのみだが、悟空は特に返事は求めていないのか独り言のように話し続ける。


「まあ、そんなわけで。こいつ殺して、食っちまいました」

「そ、そんなわけって……どんなわけですか」


 地面に転がるソレを見下ろして締めくくった悟空に、さすがに涼香は口をはさんだ。


「仮にも師匠を……弟子になったんでしょう?」

「いーえ?」


 肩ごしに涼香を見やると悟空はにやりと笑った。


「まだ弟子じゃなかったですよ。それに、いくら緊箍児つけられたって、呪を唱える前に口をつぐませりゃあいい話ですしね。――どうもそれがわかんねえヤツで。なんだかんだ、ぐちゃぐちゃ五月蝿いんでね。つい、イラッとしてやっちまいました」

「い……イラッとしてって……」

「俺、ちっとばかし気が短いんですよね」


 そういう問題ではない。肩をすくめる悟空に涼香は唖然と口を開く。この世界の希望を奪っておいて、なんて言い草だ。


(だいたい、お釈迦様や観音様はどうなさったのだろう。緊箍児は抑止力でもあるはずなのに。……西に行く者がいなくなって、どうするのだろう)


「――そこですよ」


 ふ、と悟空が目を細めた。


「え……」

「だから。今、考えたでしょ? ――西に行く奴はどうするって」

「なっ!?」


 心中を言い当てられ、涼香は蒼白になって後退った。


「こ、心を……」

「読めませんよ」


 一言のもとに否定して、悟空は地面に転がったままの錫杖を手に取る。懐から出した手拭いで血を拭いながら言葉を続けた。


「でも、お師匠さんはわかりやすいし、俺は多少長く生きてるんで考えを察するくらいは出来る。――そういう事ですよ」

「…………」


 それは心が読めるのとほとんど一緒ではないか。考えが読まれるなんて恐ろしい。

 恐怖を感じて身体を強ばらせる彼女へ、ゆっくりと悟空は歩み寄る。

 警戒の目を向ける僧の格好をした少女に悟空は苦笑を浮かべて言った。


「大丈夫ですって。なんでもかんでも探りはしませんよ」


 軽い口調で言われてもまったく信用できない。

 まだ緊張の色を濃く滲ませる涼香に、悟空はやれやれ、と言わんばかりに頭を掻き「まあいいか」と呟いた。


「そんな事より、これどうぞ」

「え……?」


 手渡されたのは、金の錫杖だった。三蔵が観音菩薩から贈られた九環の錫杖。

 戸惑いながら受け取った涼香に、悟空は告げた。


「今日からあんたが三蔵です」


 耳が、おかしくなったかと思った。


「……え?」

「あんたが三蔵として、西に行くんですよ。わかりましたか? お師匠さん」

「え、いや、そんな馬鹿な」


 涼香は混乱の中、手に持つ錫杖を握りしめた。


「さ、三蔵は玄奘です! 彼は金蝉子の生まれ変わりで、その罪の為に何度も生まれ変わっては天竺を目指しているはずで……!」

「……なんでそんな事を知ってるのかは置いときますけどね。これは釈迦のヤツも認めてることですよ」

「……え? お釈迦様、が」

「ええ。そこのヤツをぶっ殺した時、観音が来ましてね。また封じられんのかと思ったら説教くらいましてね。で、もう一度機会をやる、と。この後やってくる僧を護って天竺に来るように、ってね」

「そ、そんな……」

「まあ、俺はちょっと目的があって、そんな命令無視してやろうかと思っていたんですけどね」


 悟空が思わせ振りな事を口にするが、涼香はそれどころではなかった。


「なんで、私が……」

「さあて。でも」


 悟空は鋭く尖った犬歯を覗かせ、意地の悪い笑みを浮かべた。


「あんたが行かなきゃ、この世の乱れはおさまらない。……って事ですよ、お師匠さん」

「……っ」


 片手で心臓を押さえて涼香は呻いた。

 そんな。私なんてただの娘で、そんな大層な事できない。もっと他の誰かではいけないのか。こんな、形ばかり似せた偽物より、他の僧に。


「言っときますけど、俺はあんただから認めたんですよ。他のヤツならまた食ってましたよ」


 でも、私じゃ無理だ。男でも辛い道程を、女の私が耐えられるとは思えない。


「俺が護りますよ。俺に護られてください」


 嫌だ。他の、他の誰かに代わりたい。


「もし仮に観音が他のヤツを寄越したとしても俺は認めない。……僧侶があんただけになったら諦めますか?」


 ……ああ、そんな。


 願いにも似た涼香の考えを悟空はことごとく振り払う。さらに悟空は刃にも似た問いを投げ掛けた。


「あんたはいいんですか? このまま世が乱れてても」

「……いいわけ、ない」


 思い返すのは、故郷の邑だ。貧しく、辛い日々。あんな暮らしをどうにか出来るのだとしたら……

 涼香は錫杖に目を向けた。

 重い。実際の重みより、重く感じる。とてつもない重さだ。

 ――西へ。西へ行かなければ、この世界はどうなってしまうの?


「大丈夫ですよ、お師匠さん。俺があんたに苦難を乗り越えさせてあげます」


 だから、と化け物は愉しげに笑みを浮かべる。


「俺から、離れちゃいけませんよ?」


 釣り上がった口の端から垣間見える、鋭い犬歯、いや、牙。血に濡れたそれを恐怖にかられて見つめながら、涼香は頷いた。他に、道はないと諦めた。


 西へ。この地に平穏をもたらす為に。

 艱難辛苦を乗り越えて、西へ。


 ――只人の、娘であるというのに。

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