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 あまり人の入らぬ山というのはまさしく難所である。

 腹より高く伸びた藪をかき分け、荒れた岩肌をよじ登り、野生の獣に怯えつつ先を急がなくてはならない。

 布を巻いたとはいえ、手足、特に指には幾つもの傷が出来ている。身体中汗と泥まみれで気持ちも悪い。本当に困難な道程だが、かつて生きていた世界のように「じゃあ別の道を」とはいかない。この先を目指すならば、どうあってもこの山を越えなくてはならないのだ。


(日本だったら、トンネルがあったのにな)


 額からしたたる汗を手の甲で拭い、涼香は昔家族でドライブをしたことを懐かしく思い出す。ようやく先に登った誰かの跡と思わしきものを見つけ、気が緩んだのかもしれない。

 とにかく、獣道には見えないのでこれを辿ればいいだろうと、涼香は再び身体に力を入れて歩きだす。

 涼香の中では、先に山に入った法師は玄奘三蔵として決定しており、イベントを終えてお供の孫悟空と共に下山したことになっていた。

 西への旅は彼に任せればいい。脇役でしかないだろう自分には、なにも出来ない。この山を降りたらどこかで邑を見つけ、僧の格好を止めて一人の女として暮らそう。

 ――そのように考えていた。

 時の歯車は、思いがけない運命をもたらす場合もあるということをすっかり忘れて。



   *****



 異変に気付いたのは、山の中腹辺りまで登った頃だった。

 初めに感じたのは、言い様の無い重苦しい気配だ。圧迫されるほどのあらがいがたい何かが両肩にのしかかり、臓腑を締め付ける。

 足を止め涼香は不安げに辺りを見回した。

 全身を嫌な気がとりまいていると思えた。ひょっとすると、何かの前触れだろうか。早くここから離れなくては。

 小刻みに震える足を叱咤して涼香はなんとか先へ進んだ。進んだはずだった。


 幾度目かの汗を拭い、涼香は大きくあえいだ。すでに怪しき気配は全身を縛り上げ、息を吐く気力さえも失いかけている。

 これはあやかしの仕業だとさすがに涼香も気付いていた。


(この山に封じられているはずの大妖、悟空はもういないはず。なら、悟空がいなくなった後、別の妖がやってきた? それとも、もともと妖が他にもいた?)


 どちらにしろ、この状態はよくない。妖気にあてられ血の気を失った顔で涼香は周囲を確認し、おもむろにその場で座禅をくんだ。

 この妖気の中、あてどなくうろつくだけでは体力を減らすだけだと考えたのだ。

 目を瞑り両手を組み合わせ、小さく真言を唱える。

 寺での修行は彼女の心身を鍛えてくれた。幼い頃から気配に聡く、妖気を感じては怯えていた涼香は、ひたすらに修行にうちこみ、多少の術なら操れるようになっていた。

 少しずつ呼吸が落ち着いてゆく。

 胸の奥に暖かいものを感じる。天地に満ちる、大いなる気の流れ――そのほんの一端を涼香は感じとっていた。

 大きな波紋をたてた水面がゆっくりと凪いでゆくように、涼香も平静を取り戻し目を開いた。

 先ほどまでの重圧も幾分か軟らいでいる。これなら先へ進むことも出来そうだ、と涼香は立ち上がった。

 辺りに漂う妖気はもはや吐き気を催す濃密さ。一刻も早くここを抜け出さねば命にかかわる。いや、すでに風前の灯火かもしれない。

 気は焦るが用心深く先へと進む。しかし、歩けども歩けども景色はかわらない。

 先ほどつけた目印を再び目にして涼香は唇を噛んだ。どうやら、道を迷わされ、同じ場所に戻ってしまっているようだった。


「仕方ない、か」


 小さく呟き、涼香は避けていた方向へと爪先を向ける。この妖気の最も濃い場所。おそらくそこに、この地に妖気を満たすなにかがいるはず。

 逃げることは出来ないと腹を括り、涼香は妖気の源へと向かった。



 異臭。その源は血の匂いでむせ返る程だった。

 ぐ、と吐きかけて口元を手で抑える。それほどの血の匂いがここには満ちている。

 滲む汗は冷たく身体を凍らせ、歯のねがあわぬ程に震えていた。覚悟を決めてきたはずなのに、その心が薄っぺらく思える。逃げ出したくて仕方ない。

 しかし、後悔はいつだって遅い。


「――新しい餌か」


 耳に届いた声は若い男のものだった。牙を剥いて小動物をなぶるが如く愉悦と嗜虐に溢れた口調で、男は涼香を《餌》と称した。

 心の臓はうるさく騒ぎたてているのに、耳鳴りがする。静寂に身の毛がよだつ。

 ガタガタと震える身体の中、唯一動く目で涼香は男を見た。

 ――辺りは血の赤にまみれ。気付けば夕暮れ時らしく、木立からさしふる光もまた紅い。

 しゃがみこんでいた影が口を手の甲で拭いながら立ち上がる。

 赤と紅の世界の中、揺らめく陽炎のように立つ男は、人の形をした“なにか”だった。

 長身に赤い衣服をまとった男。同じく赤い髪が褐色の肌を彩る。意外にも整った容貌は涼しげな印象で、しかし、僅かに開いた口元からのぞく鋭い犬歯とぎらつく光を宿す金の瞳は、男の内面を表してかひどく猛々しい。

 長身ではあるが筋骨たくましいというわけではなく、猫科の猛獣を思わせるしなやかな体躯をしており、額には金の環。

 それだけでも彼が何物であるかを察するには余りあるのに。

 地面に転がっているソレ(・・)を目にした時から涼香は何も考えられなくなっていた。


(――まさか)


 ゾッと背筋が凍り付く。あの“肉塊”の側にあるあれは。土と血に汚れてもなお光り輝く、金の錫杖は。まさか。

 有り得ない、きっと違う、と考えを放棄する涼香を、男もまた見やる。

 その金の目が何故か大きく見開れた。


「――あんたは」


 男が涼香を見た。いや、今までも見られてはいた。しかし、それは《餌》という分類でだった。

 しかし、急に男が自分を意思ある存在、一個人だと認識したことを感じ、涼香は呪縛から解放されたかのように息を吐く。

 金の目を爛々と輝かせ、男は食い入るように涼香を見る。しかし、彼女は戸惑うことしか出来なかった。


「あの……?」


 困惑し擦れた声で呟けば、男は眉をひそめややして舌打ちする。突然不機嫌になった男に、涼香は困惑を深めた。


(……どこかであった? まさか。私はここに来たのは初めてだし、それに――)


 三蔵じゃないし、と思ったとたんに再び肉塊を思い出し、涼香は口元を抑えた。えづく涼香に男は何かを推し量るような眼差しを向けていたが、しばらくして溜め息を吐いた。


「――仕方ねぇか」


 男は諦めた表情で大股に歩き、涼香に近寄る。涼香は肩をはねあげ、震えて後退るもうまく足がいうことを聞いてくれず、無様に尻餅をついてしまう。尻の痛みよりも恐怖で泣き出しかけながら、涼香は足を止めた男を見上げた。

 男は静かに涼香を見下ろす。

 奇妙な間があった。

 男の目は感情の見えぬ金色だが、先ほどまでの物騒な色は無い。凪いだ静けさの奥に、見えぬ何かがあった。


「……あんた、名は?」


 淡々と問い掛けられ、涼香は声が出せずに僅かに首を振る。ややして、男は別の問いを口にする。


「なんで僧の格好してんだ。女のくせに」


 この質問にも答えられない。声が出せない以前に、驚いたからだ。

 ただ目を瞠り、どうしたらこの窮地を抜け出せるだろうかと震えるばかり。修行によって培われたはずの胆力はどこかに消えていた。

 そんな涼香に男は溜め息を落とした。

 びくり、と身を縮ませる涼香を面倒そうに眺め、男は無造作に彼女に手を伸ばす。


「――っ」


 恐怖に声にならない悲鳴を漏らした涼香の腕を掴む。そして男は大根をひっこぬくかのような手軽さでひょい、と彼女を立たせた。

 目を丸くする涼香に、男は口の端を上げて、にやりと笑む。


「まあ、おいおい聞かせてもらいますか。これからよろしく頼みますよ、“お師匠さん”」

「……え」


 ようやく出た声は、この凄惨な場所に似合わぬ惚けたものだった。

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