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冬だった。がちがちと歯を打ち鳴らし、がたがたと震えながら“彼女”は歩いていた。
雪を踏み締める足は小さく、靴を履いていないために赤く腫れあがり、凍傷になりかけている。しかし、そんな痛みなど、幼子の身体を襲う寒さと飢えの前には些細なことであった。
(寒い)
彼女はぼんやりとそう思う。身にまとう薄っぺらな布一枚たけではとうてい寒さを防げず、もはや全身の血さえ凍り付くようであった。
(お腹空いた)
飢えというものを前世の生では味わったことがなかった。これほどまでに辛いものなのか。そして、人とはこれほどまでに生にしがみ付くものなのか。
三日。もう三日も何も口にしていない。
ああ、違う。骨。昨日は見つけた骨をしゃぶった。でも、もう無い。野良犬に襲われた時に手放した。
あの犬もがりがりだった。それに、あの後やってきた大人に見つかって……
哀れな犬の末路を思い出しながらも、彼女は鉛のように重い足を惰性で動かしていた。どこかで、止まったら終わりだと気付いていたから。
ああ、と彼女は白い息を吐く。
生まれた村はとても貧しく。彼女が生まれてから六年、母や姉や兄が、次々と死んでいった。そして父さえも。
(……どうして)
もはや枯れたと思っていた涙が睫毛や頬を凍らせる。
どうして、こんなにも人の世は辛いのか。無情に命は失われてゆく。
どれほど泣いても、祈っても。……ままならない。
生気の絶えた家を出てからずっと彼女は歩き続けている。幼い身体は枯れ木のように痩せこけ、飢えと寒さで意識も朦朧としているというのに、何が彼女を突き動かしているのか。
彼女にさえ、それはわからなかった。
ただ、なにかに導かれるように歩き続け。とうとう一歩も動けなくなった彼女は寂れた寺の前で蹲るように倒れた。
前世、風間涼香。今生、胡々(ここ)、六つを数える冬の日だった。
*****
――あれから、もう十年か。
竹ぼうきを持つ手を止めて、“涼香”は空を見上げた。もうすぐ夏も終わる。ここ最近は風も涼しくなっていた。
あの日。地震によって命をおとした彼女は、ふと気が付くとこちらの世界で日々を過ごしていた。どうやら幼い頃は意識がはっきりとしていなかったようで、自分が何者であるかを自覚したのは、寺の前で行き倒れ拾ってもらってから四年が過ぎた頃だった。
その時のことを一言で言い表わすのなら“夢うつつだった目が覚めた”であった。それまでの“胡々”であった自分と交ざり合っていた“涼香”の意識ははっきりと覚醒し、四肢に染み渡った。今居るのは自分だと自覚できる程に。
“胡々”は幼く、小さ過ぎた。今、胡々は幼子のまま涼香の中で眠っている。
「――白翼。ここにいたのか」
声をかけられ、ぼんやりとしていた涼香はハッと我に返った。彼女はこの寺で白翼と呼ばれている。
見習い坊主――つまり、男のふりをして。
「老師様。いかがしましたか?」
振りかえると、彼女を拾い上げ、育ててくれた老師がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。寺は女人禁制、ということで涼香は男のふりをすることになったが、それを考えても感謝して余りある。あの日拾ってもらわねば、確実に命はなかった。
「なに、干し柿をたくさんもらったのでな。白翼の好物じゃろう? おいで、一緒に食べよう」
「でも、まだ掃除が」
「いいから、いいから」
にこにこと誘う老師に苦笑して、涼香は頷く。優しい人だ。この人に拾われて、本当に良かったと思う。
寺に向かって歩きだした老師のあとを追いながら、涼香は感謝を捧げた。
しかし、この平穏な日々は長くは続かなかった。
*****
「――西へ、ですか」
数日後。涼香は本堂で老師と向き合っていた。
「うむ。天竺に真経を取りにの」
「……天竺に」
「なに、とは言ってもどの寺からも一人だすように、とのおふれじゃて。そなた一人失敗しても大丈夫じゃろう」
「……はい」
涼香は混乱していた。時の帝からのおふれで、真経を取りに天竺まで行かなくてはならないらしい。
(西遊記?)
前世で子供の頃読んだ本が脳裏に浮かぶ。確か、三蔵という法師が艱難辛苦を乗り越えて天竺にお経を取りに行く話、だったはずだ。その話とよく似ているが、異なる点が一つ。どの寺からも一人だすように、との部分だ。
(本では、玄奘が三蔵になって天竺に向かったんだよね)
果たして、この世界は西遊記なのか、それともよく似た異世界なのか。考え込んでいると、悩んでいると思ったのか老師が再び口を開いた。
「……白翼、いや胡々よ。そなたもいつまでもここで男のふりをして暮らすわけにもいくまい。これはいい機会じゃ。僧として寺を出て、どこか遠くの邑にでも腰を落ち着けてただの娘に戻るのじゃ。よいな?」
「老師様……」
目を見張る涼香を、老師は慈愛の籠もった眼差しで見つめ、いきばくかの路銀を渡した。
かくして、その数日後、涼香は天竺へ旅する僧の一人としてひっそりと寺を出たのである。
*****
涼香はしばらくの間あちらこちらを旅してから大唐国の辺境に向かうことに決めた。問題は、そのためには越えなくてはならない山があることだ。
「ただの山ならまだいいんだけど……」
見上げる山には険しい峰。登るのも苦労しそうだが、問題は別にある。
この山の名は両界山。あの孫悟空が封じ込められていた山なのである。
「おや。お坊様もあの山へお行きになさるので?」
山を見上げたまま悩んでいると、丁度通りかかった邑の男が声をかけてきた。
「はい。……誰か他にも山に行った者がいるのですか?」
「ええ、朝早くにもお坊様が。いやー、あの人はきっとえらいお坊様ですよ」
「ほう、なぜですか?」
涼香が興味をひかれて尋ねると、男は満面の笑みで詳しく話だした。
「いやね。あの山にはそりゃあ恐ろしい化け物がおって、年がら年中、ひどくうなり声をあげていたんですがね。あのお坊様が山に登って以来、ぴたりと止んだんですよ。こりゃあきっとお坊様が退治なさったに違いないと、皆大喜びです」
「本当ですか!」
「ええ、良かったですよねえ」
ぱっと涼香の顔が輝いたのを、男は化け物が退治された喜びだと勘違いして、嬉しそうに頷いた。
しかし、涼香が喜んだのは別の理由だった。
(きっと三蔵法師だ。三蔵が悟空を助けて、お供にしたんだ)
これならなんの心配もない、と涼香は安堵して両界山へと足を踏み入れたのだった。