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地震の表現、描写があります。苦手な方はご注意ください。
――遠く、鐘の音が聞こえる。
ごふり、と口から溢れだした血が床に染み込む。もはや指一本動かす力もなく涼香は床に横たわっていた。
彼女の細い身体は、倒れてきた本棚とその上に積み重なった天井や土砂に押しつぶされている。すでに意識朦朧としつつも、彼女にはまだ息があった。
(苦しい……)
濁った意識で涼香は思う。突然大きな揺れがあり、何が起こったのか理解する間もなく耐えきれない衝撃と痛みが彼女を襲った。痛みのあまり泣き叫び、助けを求めても何も起こらず、もはや声も出せぬ有様となった。
(痛い。痛い、助けて、ごめんなさい。ごめんなさい、誰か、お願い助けて……)
あまりの苦痛に何故か謝りながら助けを求め続けたが、やはり何事も起きない。
(誰も来てくれない……お母さん……涼太……)
一階にいたはずの母とまだ幼い弟を思い、涼香は自分の為ではない涙を流す。どうなっているのかを考えるのは、あまりにたやすかった。
助からない、と悟ると諦めが心を冷やし、理不尽な現実に怒りが湧いた。
何故、どうして、自分がこんな事になるのか。
(私が何をしたというの)
今度は自己を憐れんだ涙が浮かぶ。ほんの数時間前まではごく平凡に、穏やかに暮らしていたというのに。どうして。ひどい。助けて。
心は幾重にも掻き乱れる。
怒り、悲しみ、嘆き、そしてめぐりめぐってふと思う。
(……せめて)
せめて家族は助かっていて欲しい。母と弟、そして仕事でここにいない父。ああ、せめて。
(生きていてくれたら。こんな思いをするのは私だけであって欲しい……)
お願いします、と自然と祈りが口をついた。
お願い、お願いします。私はいいから、そのかわり母を弟を父を、皆を助けて。無事であって欲しい。――お願いします。
もしかしたらそれは、苦痛から逃れたくて必死で何かを考える為のものだったのかもしれない。だが、涼香は一心に祈った。祈り続けた。
生死の境にある少女の、針の先を突くほどに集中した祈り。苦痛をしのぐ願い。
暗くなってゆく視界、途切れかける意識。全てが消えてなくなったその瞬間、ふと、遥か遠く風が吹く音が聞こえた気がした。
(――え)
ぐらり、と視界が反転する。
びゅうびゅうと耳元で唸る風は息も出来ぬ勢いで身体を打ち付け、眼口を開けることもままならず、涼香は身体を縮ませる。なんとか身を守ろうとしたがほどなく吹き飛ばされ、糸の切れた凧のようにくるくると吹き飛ばされてしまった。
(あああああ!)
回る回る視界の中、叫ぶことも出来ずに涼香は風にもみくちゃにされ、どこかに投げ出された。
なんとか目を開くと、右も左も見えぬ暗闇に一人ぽつんと立っていた。
(ここは? 一体何がどうなったの)
涼香が混乱して辺りを見回すと、ふいに光がまたたいた。
(あれは……子供の時の私?)
光の中には、懐かしい記憶が見えた。光は次々と瞬く。中学生に上がった時の自分、小学生の入学式、幼稚園の頃の幼い笑顔……涼香は気付いた。
(ああ、私はもう……)
哀しかった。暗闇の中、淋しかった。
俯いたその時、どこからか声が聞こえた。
(……うめき声?)
気になった涼香はその声のする方へと歩きだした。暗闇の中を歩く、歩く、歩く。どのくらい時間がたったのか。何日か、何ヵ月か、それとも……
ただひたすらに声だけを聞き、歩き続けた。
(……山? いえ、岩かしら?)
そしてようやくたどり着い先に見えたのは、尋常ではない大きさの岩だった。
ひらり、と岩の天辺に紙が貼られているようだが、高過ぎてよく見えない。とにかくも声はどこから聞こえてくるのか、涼香は辺りを見回し――目を見張った。
それは、赤い髪の若い男に見えた。
うんうんと唸る男は、地面に伏せ、巨大な岩にその身体のほとんどを押しつぶされていた。
ああ、と涼香は息を呑む。
苦しい、痛い、つらい。いつかの苦痛が思い出され、彼女はとっさに男に駆け寄った。
わかる。この苦しみを知っている。同じように潰されて、助けを求めても何も起こらず。ああ、この苦しみを私は知っている。
(助けたい)
そう思い、岩に触れた。
(きゃあああ!!)
とたん、身体を千々に引き裂かれる程の激痛を受けた。魂が、砕かれる――。
「よせ! 俺の苦しみを引き受けるな!」
その瞬間、雷のような叱咤が彼女を岩から引き剥がした。茫然自失の体で涼香は目を瞬く。
その彼女を、強い視線が射止めていた。
(――炎)
その視線に涼香はぎくりと身を震わせる。
(炎の目だ)
男の両眼は赤く光る金色だった。ぎらついたその目は、まるで冷たく燃え上がる炎のように鋭く、涼香は己の全てが暴かれるような恐怖にかられ、身を竦ませた。
先ほどまで感じていた親しみは一瞬で霧散し、残るは恐ろしさのみだ。
男の目が怖い。渇えるかのような強い視線が怖い。
男が口を開く。やけに尖った歯が見え、男が何事か口にしかけた時。
――ごう。
再び目を開けていられぬ暴風が彼女をさらった。
(あああああ)
またしてもくるくると弄ばれながら涼香はあちこちへ飛ばされる。遠く、彼女を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
流れる水を見た。溺れゆく命の、生への渇望に共感した。落ちてゆく闇の中、耐えきれないほどの飢えを感じた。
(ああ)
もはや何もかもを忘れかけた時、彼女はそれに触れた。
それがなんであるか彼女にはわからない。しかし、それは“全て”であった。人の、生きとし生きるものの、大地の、星の、宇宙の。
全てをめぐる、大いなる環。
それに触れた涼香は知らず涙を流して両の手を合わせていた。
大きな大きな“何か”に触れ、今まで受けた痛みや苦しみが消えてゆく。心の中に今まで感じた事のない暖かなものを得て、彼女は目を閉じた。
彼女はすでに人の形をとっていなかった。
全てを洗い流され、残ったのは淡い香りだった。彼女の名の通りの、涼しげな香り。風にのり、香りはいずこかへと運ばれる。
そっと、その風を導く手があった。
ごおんごおんと鐘が鳴る。全てはめぐる。それが定めなのだから。