59. 春来たりなば夏遠からじ
ひとつだけある天窓の向こうから、鳥たちが囀る声がいつもよりずっと近い距離から聞こえてくる。
四階に部屋を移したことで、思わぬ変化があったなとシグレは思いながら。天窓から射し込む朝陽を傍に見ながら。いつも通りの朝6時に目を覚ました。
おぼろげに少しずつ思考が覚醒していくのを感じながら。ベッドの上で上体だけを起こして伸びをひとつすると、シグレの身体のすぐ脇で、何かが身じろぎをして抗議の意を示してくる。
ユーリだった。
じとっと不満げな表情を隠しもせずに見つめてくるユーリに、思わずシグレは呆れながらも苦笑する。眠る時には、間違い無くひとりであった筈なのだが―――。
「……おはようございます、ユーリ」
『おはよう、シグレ』
「どうして、こちらのベッドに?」
ユーリ用のベッドは、もちろん隣にちゃんとある。
黒鉄の分も含め、ベッドが3台設置された部屋を借りたのだから当然だ。黒鉄は既に起きてはいるようだが、シグレの右隣のベッド上で毛布に身体をくるませながら、相変わらず〝我関せず〟の意志を示している。
『……偶然?』
ユーリの返答は簡潔ではあったが、同時に反論を受け付けないという明確な意志が籠められた物だった。偶然で隣のベッドに、しかも先客が居るような場所に潜り込むことなど有り得ないだろう。
はあっ、とシグレは溜息をひとつ吐く。同じベッドで眠ることを拒否したとき、ユーリがあっさりと引いてくれた理由が今更ながらに判る気がした。結局、プレイヤーであるシグレは自分の就寝から起床までの時間を自由に変更することができないのだから。眠っている間に勝手に潜り込まれては、シグレの側でどう対処することもできはしないのだ。
「……男のベッドに女性が入るのは、良くないですよ」
それでも、精一杯の抵抗として。シグレも常識を武器に諭そうとするのだが。
『シグレなら、大丈夫』
どこから来るのか皆目見当も付かない信頼を盾にされては、結局ユーリに対してそれ以上言える言葉もなく、シグレは引き下がるしかなかった。
ベッドから立ち上がり窓を開けて、身を乗り出すようにしながら。シグレは朝陽の眩しさを映す街の光景を、視界一杯に取り込んでいく。どこからともなく風に乗せて運ばれてくる潮風が、異国を意識させてくれるのがシグレは好きだった。
―――今日は、何をして過ごそうか。
現実世界で、毎日眠る前に思いを馳せる光景は、眠ってしまえばこうして毎夜ごとに手に届く距離まで近づくことができる。
自由な身体と自由な世界。この世界でシグレを縛るものは、何一つ無かった。
◇
『大聖堂に行こうと思うので、ついてきて欲しい』
階下で宿の主人であるガドムさんの朝食に舌鼓を打ち、それから部屋に戻って間もない頃。半ば唐突とも思える形で、ユーリはそう提案してきた。
今日も朝からいつも通りに満足度の高い朝食に恵まれ、大いに英気を養われたことで。シグレもちょうど本日の予定について思案し、ユーリ交わした秘術書の交換協定を果たすべく秘術師ギルドにでも行こうかと考えていた所ではあったが。
ユーリが自分の同行して欲しいことがあるのなら、別にその希望を差し置いてまで優先することでもない。しかし、採取や生産に同行するのではなく、大聖堂に、というのは少々意外ではあった。
「構いませんが、何をしに行かれるのですか?」
『……折角レベルが1になってしまったので、天恵を変えようと思うの』
「天恵の変更、ですか―――」
それはキャラクターを作る際に、半ば警告混じりに深見さんから何度も念押しされたことであるから、シグレもよく知っていた。
各中央都市に存在する大聖堂では、〝リバーステイル・オンライン〟のスタッフの方が必ず司教を務めていて。そちらで申請すれば天恵の再設定が可能である、との説明を受けたのを覚えている。
確か深見さんの説明に拠れば、戦闘職と生産職、どちらか一方でも天恵を再設定すれば両方のレベルが1に初期化されてしまうという話だった。現在〝銀梢〟として生まれ変わったことでレベルが1に戻っているユーリにとっては、もしも天恵の変更が可能なのであれば、何の代償も支払わずにそれを行うことができるだろうが……。
しかし、天恵の変更とは。おそらくは〝羽持ち〟―――つまり、プレイヤーの為に開発・運営サイドから用意された一種の救済措置である。それをプレイヤーではない、紛うことなくこの世界の住人であるユーリが利用することは可能なのだろうか。
『シグレが疑問に思っていることは判る。……結論から言えば、それは〝可能〟』
「そうなのですか?」
『……うん。〝羽持ち〟の人を主として、主従関係を結んでいればできるらしい。詳しくは知らないけれど、前にもできたことだから。少なくとも〝羽持ち〟の銀術師と契約した〝銀梢〟であれば可能だと思う』
そういえば、以前語ってくれたユミコさんの戦闘職の天恵は、確か〈秘術師〉と〈伝承術師〉、それに〈銀術師〉であっただろうか。
〈銀術師〉が無いことを除けば、ユーリの戦闘職の天恵はユミコさんと同じものになる。ユーリの話から察するに、それは彼女が大聖堂を利用して、戦闘職の天恵をなるべくユミコさんと同じものに再設定した結果ということなのだろう。
おそらく種族が銀梢では、〈銀術師〉の天恵だけは選べなかったということか。
『……なるべくシグレと同じ天恵にしようと思う。構わない?』
「自分はもちろん構いませんが。……苦労するかもしれませんよ?」
『ん。それは、承知している』
あまり、多すぎる天恵を有してレベルが上がるのが遅くなるのもどうかとは思うのだが。シグレ自身もまた、ゲーム開始時に自ら望んでそう決めたことであるので、ユーリに対してとやかく言える立場には無い。
理解した上でユーリが望むのであれば、その意志を尊重するまでだろう。
「判りました。では大聖堂へ一緒に行きましょうか。……ちなみに訊きますが、ユーリは生産職の天恵も変えてしまうのですか?」
もしも生産職もシグレと同じにしてしまえば。
ユーリが〈錬金術師〉の腕前を以前と同じレベルに戻すためには、間違い無く膨大な労力と時間とを必要としなければならなくなるだろう。
『そっちは、さすがに10職全部というのはちょっと……。でも、錬金だけじゃなく今回は〈薬師〉も取ってみようかと思う』
「薬師ですか。霊薬を作る錬金と、通じる部分もありそうですしね」
『……うん。以前から〈薬師〉にも少なからず興味はあった。それに、シグレが言っていた加工法も気になるから、実際に色々と試してみたいの』
あれは思いつきで言ってみただけのことなので、天恵を選ぶ理由にして貰う程のことでもないのだが。けれど、前から興味があったとも言っているわけだし、シグレが彼女の意志を止めるような道理もない。
「了解です。ただ、大聖堂にぐらいならいつでも付き合いますから。もしまた天恵を変えたくなるようなことがあれば、遠慮せずいつでも言って下さいね」
『……ん。ありがとう、シグレ』
ユーリの話に拠れば、大聖堂もまた冒険者ギルドや錬金ギルド等と同じように、24時間いつでもその門戸は開かれているらしい。
まだ朝早い時間帯ではあったが、部屋に居たからといっても特にすることがあるわけでもない。予定が決まれば後は迷うこともなく、二人とも手短に準備を済ませた。
宿を出て、ユーリと黒鉄と共に、朝の陽射しの眩しい街並みを歩く。
〈イヴェリナ〉の空気も、いつしかすっかり春を思わせる陽気に包まれている。まだ時計の上では朝7時半頃であるにも拘わらず、外を出歩くにはちょうど過ごしやすいぐらいの快適な気温だった。
この分だと、昼過ぎ頃には多少汗ばむぐらいの気温に達するかもしれない。
(……そろそろ、夏用の服も買った方がいいのかなあ)
幸い、懐には余裕があるので衣料店を後で訪ねてみるのも良いだろう。
さすがにまだ半袖には少し早すぎるのかもしれないが、どうせ〈ストレージ〉に入れておけば邪魔になるわけでもない。事前に買いだめておいた方が後々楽ができるだろう。
しかし、元々防御面をある程度捨てているシグレはいいが。これから確実に熱くなるであろう季節を思うと、重装備に身を包む戦闘職の人は大変なのだろうな、としみじみと思う。
〈騎士〉という天恵の割には軽装を愛好するカエデであっても、ぴっちりと身体を覆う革鎧は夏場にはなかなか大変だろう。まして〈重戦士〉であるユウジなどは、重厚な金属鎧に身を包んでいればそれだけで、じりじりと体力を消耗させられそうにも思える。
(……夏場は、野外の狩りに誘うより、洞窟とかのほうがいいのかな)
以前、初めて戦闘に敗れるという苦い思いをした〈ゴブリンの巣〉のことを思い返しながら、そんなことを考える。あの洞窟のように結構な広さがある場所であれば、洞窟中をある程度進めば、外気に比べて夏は涼しく冬は暖かい環境となることは想像に容易い。
野外よりも魔物自体の脅威性は上がるだろうが、それを差し引いてもユウジなどにとっては、外の日射の中で狩りをするよりはずっとマシだろう。
(本格的な夏が始まる前に、少し調べておいた方がいいのかもしれないな)
洞窟に限らず、例えば地下迷宮のようなダンジョンエリアも、きっと存在するのだろう。ゲームとして考えるならば、定番物であるそういったものが抑えられていない筈が無い。おそらくはこの街の近くにだって、幾つもそういった場所はある筈だ。
夏を凌げる、涼のある狩場。冒険者を本業にしている人達にとってはきっと切実な問題だろうし、冒険者ギルド二階の『バンガード』などで情報を集めてみるのもいいかもしれない。
自分だって金属鎧などとは無縁とは言え、暑い場所というのはあまり好きではない。伊達に病院の中、冷房環境下のみで惰弱に生活しているわけではないのである。あまり自分を忍耐力の無い方だとは思いたくないが、慣れない環境下に晒されれば、普通の人よりもずっと早く弱音を上げてしまうことは充分に考えられた。
お読み下さり、ありがとうございました。
夜勤時には、21時予約で投稿することが多くなると思います。
投稿時間が多少不安定で申し訳ありませんが、容赦頂けましたら幸いです。
-
文字数(空白・改行含む):4192字
文字数(空白・改行含まない):4039字
行数:106
400字詰め原稿用紙:約11枚




